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三木本尋常小学校跡地

木の本に「三木本尋常小学校跡地」の石碑が建てられています。

碑文によりますと、明治六年(1873)に三木本尋常小学校が設立され、後の大正十一年(1922)に太田尋常小学校と合併し、大正尋常小学校(現大正小学校)と改称、移転したとあります。

それで、手持ち資料で調べてみますと、明治六年六月に第九十五番小学設立とありました。

あまり詳しい事は分かりませんでしたが、この地域の行政区画の変遷はやや複雑(?)で、三木本村が成立したのが明治二十二年(1889)ですので、明治六年創立の小学校名に使用されていたと言う事は、以前から三木本は木の本三村の総称だったのでしょうか?

現在、跡地には住宅が建ち当時の名残は全くありませんが、跡碑のすぐ近くを水路が流れ、小さな橋が架けられています。

東方に水路を辿ると、明治の年号が刻まれた石の樋門がありますので、この水路も明治以前から流れていた事になりますが、当時の子供達はこの水路を見ながら登下校していたのかも知れません。

その水路も一部を除いて、暗渠となっています。

三木本尋常小学校跡地1

ネタが少なくなりましたので石造物の記事が多くなります(於 八尾市)

茅葺の家(その18)

八尾に茅葺のお宅があります。

建築年代等の詳しい事は分りませんが、方入母屋造りの立派なお宅です。

街道沿いにありますので、インターネットのサイト等でも写真が掲載されていましたが、今回は方入母屋造りが分かる方向から撮影した写真を掲載させて頂きました。

街道沿いからは、切妻側に塗られた白の漆喰が見えています。

茅葺の家18-1

茅葺部分が広いです(於 八尾市)

とある風景(その190)

これまで中河内では行った事が無い場所は、ほぼ無いと自負していた(?)私ですが、実は八尾南駅の北側へは行った事がありませんでした…

ここ最近は山歩きを一旦お休みして、自転車に乗る事が多いのですが、昨日八尾空港に飛行機を見に行った際、初めて(?)駅の北側へ行ってみました。

それで、この地区には八尾飛行場跡地がある事は知ってはいましたが、予想していた以上に広い敷地で、あと駅の側に地下鉄の車庫がある事も今回初めて知りました(木の本や太田周辺には定期的に足を運んでいますが…)

その飛行場跡地内にコンクリート製の建造物がありましたが、何なのか?分かりませんので、インターネットで調べてみても良く分かりませんでしたが、戦時中の遺構と言う事でした。

あと、インターネットで大阪の戦争遺跡を調べていると、星田に戦時中日本軍の戦闘機が墜落した場所があるとの事でした。

実は今日、たまたま星田にある墓地にお参りにく予定でしたので、墓参りを済ませた後にその場所へと行ってみましたが、その場所には鎮魂碑が建てられています。

場所はJR星田駅からすぐの場所にありました。

その後はウォーキング(?)で、野崎さんにお参りに行き、帰路の途中にある善根寺の老舗和菓子店(創業100年との事です)でおはぎを買って帰りました。

顔が真っ黒になりました。

八尾飛行場跡地

星田の鎮魂碑

航空関連の戦争遺跡でした(於 八尾市・交野市)

恩智中町の出世地蔵尊

「出世地蔵尊」は恩智中町にあります。

地蔵堂内には石仏一体がまつられていましたが、詳しい事は分りませんでした。

丸彫りの小さなお地蔵様ですが、新しい時代のものかと思います。

電話ボックスの横に地蔵堂があります。

恩智中町の出世地蔵尊1

恩智中町の出世地蔵尊2

恩智中町の出世地蔵尊3

いつもよく通る恩智川沿いにあります(於 八尾市)

菫橋の親柱

府立高校の校門前に「菫橋」の親柱が一基保存されています。

現在も府立高校の南角に菫橋は架けられているのですが、交差点の一部となり殆んど橋と言う感じではありません。

暗渠と言った感じでしょうか?

それで、手持ち資料にたまたま昭和57年頃の菫橋の写真がありましたが、現在と殆んど変わりませんでした(-_-;)

「菫」と言う綺麗な名の橋ですが、いつも見ても下部が汚れているのがちょっと…

菫橋の親柱1

校門前にありますが目立つ事なく建っています(於 八尾市)

中高安小学校発祥之地

「光明寺」の境内に「中高安小学校発祥之地」と刻まれた石碑が建てられています。

以前「中高安小学校跡」の石碑を取り上げましたが、残念ながらこの長い歴史のある小学校は現在閉校となっています。

この石碑は跡碑と同様に創立百周年を記念して、昭和四十七年(1972)に建てられたもので、碑文には創立時の「堺縣服部川百三十六番小学校」とあり、インターネットにて詳しい沿革を知る事が出来ます。

あと、手持ち資料によりますと、明治十四年(1881)に堺県の廃止後、服部川は大阪府の管轄となり、校名は「服部川小学校」と改称され、明治十一年(1878)の時点で生徒数男子72人、女子が18人、就学率が34%だったそうですが、女子に限っては14%と学齢人口が124人に対して低い就学率となっています。

八尾市では学制の歴史を伝える、多くの石碑が建てられていますが、近年の少子化等で児童数が減少し、歴史ある学校が廃校となるのも仕方がない事なのでしょうか?

自分が卒業した学校が無くなってしまう事は、やはり淋しい事です。

中高安小学校発祥之地1

因みに私の卒業した小学校は創立146年だそうです(於 八尾市)

とある風景(その189)

今日は自転車に乗って柏原へ行く予定でしたので、昨晩簡単なメンテナンスをしておきましたが、目的地は決めずに取りあえず自宅を出発しました。

それで、恩智川沿いを南下しながら、ふと「玉手山へ行こう」思い、取りあえず「玉手山遊園跡」を目指しました。

現在、山手山遊園地は「玉手山公園」となっていますが、私が幼少の頃は「あやめ池遊園地」「生駒山上遊園地」と並び、定番の遊園地で、祖父や祖母、また子供会等で遊びに行ったものです。

しかし、無事到着しましたが、汗ばむ程の気温でしたので、少しだけ思い出にふけってから、公園を後にしました。

その後、平野川、長瀬川界隈をぶらぶらしていましたが、偶然にも今日は文化財指定である「三田家住宅」「寺田家住宅」が公開されていました(本当にに今日公開の件は知りませんでしたのでラッキーでした…)

今回、初めて住宅内へ立入り、当主の方が多くの見学者の方に説明され大変そうでしたが、次から次へと見学者が訪れていました。

築100年以上の家って、ほんま重みがありますね。

見学後、八尾空港に行ってヘリコプターを見てから、何処をどう通ったか分からないのですが、最後自宅から程近い「稲葉神社」へ立ち寄り帰宅しました。

今日は柏原ではイベントが開催されていた様で、詩吟大会も行われていましたが、時折大和川の河川敷で詩吟の練習(?)をされているのは、それが理由だったんでしょうか?

あと「植田家住宅」まで行きましたが、観覧はせず周辺をぶらぶらしていると、歩こう会の女性2人が道に迷っている様でしたので、声を掛けると偶然にも一人の方は、私の地元である「稲田」から来られたと言う事でした。

安中で偶然にも稲田の人間同士が出会うのも何かの縁(?)でしょうか(-_-;)

それで、写真は柏原に来るとほぼ必ず訪れる「築留二番樋」で、桜の花が散った後は大和川の堤防のツツジが咲き始めます。

築留二番樋にて

親柱は見当たりませんでした(^^)(於 柏原市)

相生町の地蔵尊(その3)

相生町に地蔵尊があります。

地蔵堂内には石仏一体がまつられていましたが、詳しい事は分りませんでした。

石仏、地蔵堂共に新しいものかと思います。

奈良街道から植松の墓地の向こうに地蔵堂の屋根が見えてます。

相生町の地蔵尊3-1

相生町の地蔵尊3-2

地蔵堂の裏がお墓です(於 八尾市)

山本新田の境界石

山本町に「山本新田」の境界石が建てられています。

境界石は二基あり、それぞれに「天保五甲午 再 六」「天保五」と刻まれ、天保五年(1834)に建てられた事が分ります。

江戸時代、大和川付替後に山本新田が開墾され、宝永五年(1708)と享保六年(1721)に検地を受けたそうですので、最初の検地から120以上経った後に、境界石が設置された事になります。

現在、山本は八尾市内では高級住宅街のイメージがありますが、当初は新田に営まれた三十軒余りの寒村だったそうです。

それで、今回の境界石は旧玉串川の左岸に建てられていたものですが、以前取り上げました「福万寺町の標石」は、おそらくこの境界石同様、山本新田の境界石だと思われます。

福万寺町のものは右岸側にあり、年号等は確認出来ませんでしたが、刻まれた文字は「山木」ではなく「山本」だと思われます(多分…)

二基の境界石は、約200年近く人知れず建っている事も少々驚きですが、山本と言う土地の歴史を伝える、小さな貴重な石造物でもあります。

山本新田の境界石1

山本新田の境界石2

山本新田の境界石3

山本新田の境界石4

山本新田の境界石5

山本新田の境界石6

文字が刻まれていなかったら普通の置石にしか見えません(於 八尾市)

とある風景(その188)

昨日、久しぶりに「布施のえべっさん」へお参りに行きました。

あと、布施の商店街へも行くのも楽しみなんですが、昔の賑わいが懐かしくなる程、人通りも少なく、閉店している商店が殆んどではないでしょうか?

私が小学生の頃は土曜日の放課後に「マクド」までハンバーガーを食べ行った事もええ思い出です。

当時、多分東大阪には布施にしかマクドがなかったと思いますので、わざわざ布施まで食べに行ったのですが、京橋の「ドムドムバーガー」も好きでした(^^)

それで、すっかり淋しくなった商店街を後にして、近くにある「三ノ瀬公園」で休憩しました。

山だと鮮やかな新緑を見て季節の移り変わりを感じますが、結構公園の緑もええ感じです。

しばし、新緑鮮やかな大きな木を眺めていました。

あれ、何の木やろ?

三ノ瀬公園にて

私公園でよく一休みします(於 東大阪市)

渋川町の地蔵尊(その2)

渋川町に地蔵尊があります。

石の地蔵堂内には石仏一体がまつられていましたが、詳しい事は分かりませんでした。

石仏は新しい時代のものの様で、個人の方がおまつりされているのでしょうか?

交通量の多い道路沿いにあります。

渋川町の地蔵尊2-1

渋川町の地蔵尊2-2

渋川町の地蔵尊2-3

交通安全祈願の為におまつりされているのでしょうか?(於 東大阪市)

田植宮

「田植宮」は郡川にあります。

由緒等の詳しい事は分りませんでしたが、自然石に「田植宮」と刻まれた社標と石造の駒狐があります。

それで、この場所は旧大阪外環状線沿いになりますが、私が単車で柏原方面へ移動する際は通る機会が多く、また以前から自転車でも移動の際にも通っていましたので、ある事自体は分かっていました。

しかし、よく企業等でおまつりされているお社だと思っていました。

詳しい事は分りませんが、郡川に知り合いがいますので、お話しを伺おうと思っていたのですが、なかなかその機会がありません。

お社の前には田畑が広がっています。

田植宮1

田植宮2

田植宮3

田植宮4

田植宮5

田植宮6

田植宮7

何故こんこんさんなのか気になりますが(於 八尾市)

龍華寺跡

陽光園にある公立小学校の角地に「古蹟 龍華寺址」と刻まれた石碑が建てられています。

「龍華寺」については、現地に八尾市の設置した説明碑がありますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、寺跡地は小学校及びその西側周辺と推定されているそうで、その南側が旧大和川の堤防跡となっています。

天文二年(1533)に大和川が決壊した際、龍華寺は既に所在不明であったそうですが、氏神である「渋川神社」が流失し、家々の流出材や流木は、東大阪の花園まで流れ着いたのだそうです。

その後、龍華寺は渋川神社が現鎮座地に再建された後、天正年間に神社南側に神宮寺として再建されたそうですが、明治時代の神仏分離令により神社から分離し、その後小さな観音堂となったそうです。

それで、確認はしておりませんが「植松観音堂」に「元神宮寺」とありますので、御本尊の観音様は現在この場所でおまつりされているのでしょうか?

あと、石碑は昭和五年(1930)に当時の龍華町によって建てられたもので、当初は西方の道傍に建てられたそうですが、その後小学校の校内に移設され、更に現所在地へと移設されています。

龍華寺跡1

龍華寺跡2

龍華寺跡3

写真で石碑は見た事がありましたが(於 八尾市)

とある風景(その187)

先月は家の事情でブログの更新と山歩きを少しお休みしていましたが、今週から休日に自分の時間をとれる様になりましたので、久しぶりに山に行ってきました。

それで、本日は高安山から十三峠まで歩いてきましたが、気温は低めで台風並み(?)の強風が吹く中、取りあえず「鳴川峠」を目指します。

実は鳴川峠(または客坊谷)で下山する予定でしたが、あまりにも風が強かったので、十三峠で下山する事にしました(-_-;)

途中、ハイカーの方とも殆んどすれ違いませんでしたが、十三峠まで来ると多くのハイカーの方が歩かれ、十三峠は地元の方がお参りや散歩で歩かれる事も多い道の様ですので、手軽で人気コースなんでしょう(^^)

道も歩き易いですが、以前地元の方にイノシシの目撃情報と、ここではちょっと書けない恐い話(…)を伺いましたので、なるべく日中の人が多く歩かれる時間帯に歩く様にしています(?)

無事、麓まで辿り着きましたが、今年初めてれんげの花が咲いているのを見かけました。

先週、近くの緩衝緑地公園や恩智川沿いは、桜の花が綺麗に咲いていましたが、季節の移りかわりもこれからは週毎となっていくのでしょう。

次は生駒山のつつじが楽しみです。

れんげ

今はあまり季節感の無い時代ですが花を見ると季節を感じます(於 八尾市)

老原の地蔵尊(その2)

老原に地蔵尊があります。

地蔵堂内には石仏一体がまつられていますが、詳しい事は分りませんでした。

それで、地蔵堂前には線香立と花立がありますが、線香立には「観世音講」とありましたが、観音様もまつられていたのでしょうか?

すぐ近くにお寺があります。

老原の地蔵尊2-1

老原の地蔵尊2-2

老原の地蔵尊2-3

地蔵講はあるのでしょうか?(於 八尾市)

玉串町西の八代龍王

玉串川と第二寝屋川の交差する場所の近くに「八代龍王」の社があります。

詳しい事は全く分かりませんが、この辺りは足を運ぶ事が多い場所で土地勘もありますので、20年位前にはお社があった様に思います。

それで、石造物の年号を確認しますと、昭和五十五年(1980)となっていました。

周囲の住宅に隣接して、取り囲まれる様におまつりされていますが、この場所におまつりされている理由は不明です。

あと、お社の建つ向きも気になりました。

玉垣、燈籠、手水鉢の石造物も立派なもので、社地は一戸建て住宅一軒分の敷地程はあるでしょうか?

玉串町西の八代龍王1

玉串町西の八代龍王2

玉串町西の八代龍王3

玉串町西の八代龍王4

玉串町西の八代龍王5

玉串町西の八代龍王6

何の知識も無い頃は地蔵堂と思っていました(於 東大阪市)

暗渠工事碑

上之島南町の住宅街に「暗渠工事」と刻まれた石碑が建てられ、水路が暗渠化された事が記されています。

八尾市の説明碑と良く似た形状のもので、碑文にはこの場所が「河内國若江郡上之嶋村」から、その後「中河内郡三野郷村大字上之島」となったとあります。

石碑は住宅街の中を通る狭い道路沿いに建てられていますが、その前を道路幅の4分の1程を占める暗渠が通っています。

それで、かつてこの地が中河内郡三野郷村であった時代、築留樋普通水利組合(現築留土地改良区)に属していた事から、玉串川から用水をまかなっていた事が分りますが、玉串川流域には多くの取水口(樋門)があり、それこそ網の目の様に小さな水路が張り巡らされたのでしょう?

実際、現在も玉串川からは多くの水路が引き込まれ、暗渠化された水路を目にする事が多くあります。

あと、平野部に限らずの生駒山から流れる谷川も、麓付近から平野部にかけて暗渠化されている事が多く、それは私の暮らす東大阪市域でも同じ事が言えます。

平野部では多くの水路が農地減少等の理由で埋立てられていますが、実際には多くの水路が暗渠となり、現在も残されている事になるのかも知れません。

耳をこらして聴くと、暗渠から水の流れる音が聞こえてきます。

暗渠工事碑1

暗渠工事碑2

三野郷尋常高等小学校文教場跡地の近くにありました(於 八尾市)

とある風景(その186)

今月は暖かい日もあり、薄着でも十分過ごせる日もありました。

それで、好きな山歩きも毎年この時期から徐々にその機会が減っていくのですが(暑いのが苦手で気温が20度位でもかなり暑く感じる私です)最近、思い出した様に自転車で出掛ける機会が増えました。

一時期、単車で探索する事が多かった事もあるのですが、私の中河内探索はこれまで何回も記しております様に、最初は自転車で始めました。

単車と徒歩の中間位でそこそこの距離も移動出来ますし、押して歩く事も出来ますので、結構機動性(?)が良いと言えば良いのかも知れません。

ですので、先月末から自転車に乗る事が多くなったのですが、今週は東大阪、八尾東部から八尾西部までぶらりとしてきました。

それで、久しぶりに「平野川」沿いを通ったのですが、その際に整備されて間もない様な遊歩道がありました。

はじめ「この遊歩道は何であるんやろう?」と少々思いましたが、よく考えると平野川は流路が改修されていますので、遊歩道は旧流路だと気が付きました。

しかし、改修後の現在も結構ジグザグに流れていますが、昔はもっとジグザグに流れていたんでしょう。

実際、遊歩道はほぼ直角に向きを変えていましたので。

「昔はここを流れてたんやなぁ」とそんな事を思いながら遊歩道を通っていたのですが、話しは変わって最近「川」の記事が全く書けないでいます。

書くのに結構時間がかかりますし、調べる事も多いのがその理由なんですが、そろそろネタも尽きかけてますので、そろそろ書かんとあかんなと、最近よう思います。

まあ、ブログの更新も滞る事も多くなりましけど、まだまだ続けますんで(^^)

平野川跡遊歩道1

昔はここを柏原船が通っていたかと思いますと…(於 八尾市)

横沼町の地蔵尊(その2)

横沼町に地蔵尊があります。

地蔵堂内には石仏一体がまつられていましたが、詳しい事は分りませんでした。

それで、小さな地蔵堂で気が付き難い場所にありました。

石仏は新しい時代のものかと思います。

横沼町の地蔵尊2-1

横沼町の地蔵尊2-2

横沼町の地蔵尊2-3

地蔵堂横にあるのは燈籠でしょうか?(於 東大阪市)

吉田本町の社

吉田本町に社があります。

よくある企業でおまつりされているもので、扁額には「天照皇大神」「白高大神」「豊玉大神」とあります。

詳しい事は全く分かりませんが、燈籠、狛犬、手水鉢等の石造物があります。

それで、この場所は自宅から然程遠くない場所で、私がこの辺りで暮らす様になって20年以上経ちますが、その頃既にこの場所でおまつりされていたと思います。

あと、特徴ある白の鳥居ですが、かつて私の実家近くに鎮座している、七軒家の「山科神社」も白の鳥居でした。

現在は石鳥居となっています。

吉田本町の社1

吉田本町の社2

吉田本町の社3

吉田本町の社4

昨日も今日も横を通りました(於 東大阪市)

三野郷尋常高等小学校文教場跡地

上之島町南に「三野郷尋常高等小学校文教場跡地」の石碑が建てられています。

碑文によりますと、明治二十年(1887)に上之島尋常小学校が開校され、その後は大正十四年(1925)から昭和三十年(1955)まで、三野郷尋常高等小学校文教場となったとあります(尋常小学校は大正十三年より)

それで、尋常高等小学校と尋常小学校、高等小学校の違いの説明は省略させて頂きますが、碑文によりますと尋常小学校文教場となった後に尋常高等小学校文教場となった事が分ります。

あと、本校である「三野郷尋常高等小学校」は現在の玉串元町にあり、その跡地にも「三野郷尋常高等小学校跡地」の石碑が建てられています。

八尾市にはかつて学校施設がその地に存在した事を、後世に伝える石碑が多く建てられていますが、私の暮らす(出身地)東大阪市は同様の跡碑が殆んど見られません。

私が卒業した小学校もそうですが、東大阪には百年以上の歴史がある小学校も多くあります。

個人的にはこの様な跡碑の設置を望んではいるのですが…

検討して頂きたいです。

三野郷尋常高等小学校文教場跡地1

三野郷尋常高等小学校文教場跡地2

三野郷尋常高等小学校文教場跡地3

今は駐車場になってます(於 八尾市)

とある風景(その185)

荒本に新しく市役所が建設されたのに伴い、稲葉にあった旧市役所が取り壊され、その跡地に立派な中消防署が建設されました。

元々、消防署も隣接してあった様に思いますが、私は旧布施市出身で普段は永和にあった西支所(旧布施市役所)を利用していましたので、稲葉にあった市役所の事を本庁と呼んでいました。

御存知の様に稲葉にあった旧市役所はかつての旧河内市役所でしたが、合併前の三市の内で旧庁舎が現存するのは、旧枚岡市役所のみとなってしまいましたが、残念ながら建て替えの話も耳にしています。

それで、旧布施市域が管轄であったと思いますが、御厨栄町には西消防署があり、久ぶりに通りがかると新たに庁舎が建替えられていました。

新しく立派になった西消防署ですが、何か足りない様な気がしましたが、それは「望楼」が無い事でした。

実は私が小学生の頃、社会見学でこの西消防署を訪れた事があり、その際望楼に上って周辺を見渡した事があります。

あと、かなり記憶が曖昧ですが、その際はしご車のはしごを最大に伸ばす様な実演があった様に思います。

それで、新消防庁舎に望楼が設置されなかった理由は分かりませんが、現在の技術等で不要になったのでしょうか?

今では高層の建物が多くなり、当時と比べて見渡しも悪くなったと思いますが…

西消防署

以前と比べて明るい感じの建物になりました(於 東大阪市)

四ツ辻地蔵尊

「四ツ辻地蔵尊」は幸町にあります。

地蔵堂内には石仏一体がまつられていましたが、詳しい事は分りませんでした。

あと、地蔵堂横に立派な改修記念碑が建てられています。

小さなお地蔵様でした。

四ツ辻地蔵尊1

四ツ辻地蔵尊2

四ツ辻地蔵尊3

四ツ辻地蔵尊4

沢山お菓子が供えてありました(於 八尾市)

防火水槽(その5)

久しぶりに八尾で「防火水槽」を見かけました。

この防火水槽に関して詳しい事は分かりませんが、何故か裏返しにしてあります。

苔が生えていますので、長らくこの状態で置かれていたのだろうと思いますが、道路上に無造作に置かれている感じです。

それで、私がこれが防火水槽と言う事を知ったのは、ネット上で長年お付き合いさせて頂いております、山本龍造氏のブログを拝見したのがその始まりです。

ですので、今回氏のブログを拝見させて頂きますと、やはり取り上げられていましたので、この防火水槽に関しては「こちら」を是非御覧頂きたいと思います。

私は氏の様な気の利いたコメントは出来ませんので(-_-;)

尚、了承無く勝手にリンクさせて頂きました。

防火水槽5-1

防火水槽5-2

防火水槽5-3

すっかり忘れていましたがコメントさせて頂いてました(於 八尾市)

とある風景(その184)

今日は軽く枚岡展望台までハイキングに行った後、郷土博物館へ観覧に行ってきました。

あと、久しぶりに山畑の集落へ足を運んでみましたが、空き家が多くなっている様に思いました。

それで、山畑は「花草神社跡」のある場所で、何度も足を運んだ時期もありましたが、今日久しぶりに訪れました。

その後「河内寺廃寺跡」へと行ってみましたが、以前は原っぱみたいな場所で、現在は綺麗に整備されています。

楽しい仕掛け(?)もありますが、私は試した事がありません(-_-;)

東大阪では珍しい廃寺跡が整備された場所ですが、礎石の実物は地中にあるとの事です。

他の場所にある礎石は実物を公開している事が多いと思いますけど?

河内寺廃寺跡

もうひとつ何か工夫が欲しい感じもするのですが(於 東大阪市)

子守北地蔵尊

「子守北地蔵尊」は永和にあります。

地蔵堂内には石仏一体がまつられていますが、詳しい事は分りませんでした。

あと、石と食器も納められています。

公園の一角にまつられていました。

子守北地蔵尊1

子守北地蔵尊2

子守北地蔵尊3

子守北地蔵尊4

前の西支所の南側にありました(於 東大阪市)

髙倉大神

「髙倉大神」は山手町にあります。

額田谷(長尾渓)沿いにある寺院にまつられていますが、詳しい事は分りません。

それで、石造物等の年号確認はしていませんが、鳥居は私の地元である、稲田の方が奉納されていました。

長尾谷は歩く機会が多く好きな道で、下山時にこの寺院の方(作務衣を着た僧侶の方)とすれ違うと、ご挨拶して下さいます。

寺院についても詳しい事は分りませんが、以前取り上げた地蔵尊もこの場所にあります。

髙倉大神1

髙倉大神2

髙倉大神3

髙倉大神4

八代龍王がまつられています(於 東大阪市)

永久橋の親柱

先週に引き続き、今週も石橋の親柱を取り上げたいと思いますが、今回は平野川に架けられていたと思われる「永久橋」の親柱です。

御覧の様にブロック塀に囲まれて一基が保存され、正面に「六反 永久橋」と刻まれ、文化八年(1811)の年号があります。

それと、世話人が連名で刻まれていますが、太子堂村、川邉村、六反等の村名が見られます。

それで、この親柱は「六反」と刻まれている事から、平野区にあるものと思い込んでいたのですが、先週「好美橋」の記事を書いている際、この親柱の事を思い出しました。

所在地を確認しますと、跡部南の町でしたので、急遽(?)取り上げた次第です。

あと、橋名の由来等は分かりませんでしたが、亀井南町の平野川沿いにある「永代橋」の親柱にも「永」の文字があります。

何か関連性があるのでしょうか?

尚、二枚目の縦長の写真は、10年以上前に初めて購入したデジカメで撮影した永久橋の親柱です。

永久橋の親柱1

永久橋の親柱2

親柱も下部は道標の様になっているんですね(於 八尾市)

とある風景(その183)

私の中河内探索のきっかけは、40歳を越えて始めた自転車がきっかけなのですが、ここ最近はもっぱら山歩き等の徒歩と単車がメインとなってしまいました。

しかし、時折思い出した様に自転車でぶらぶらしに行く事があるのですが、昨日強風の中を玉串川に沿って柏原の手前(…)まで行って来ました。

それで、最近高安山を歩く際、近鉄の花園駅から山本駅までバスを利用しているのですが(帰路は徒歩が多いですが)車窓から玉串川沿いを眺めていると、結構様々な石造物があり、ここでも取り上げています。

それで、昨日ゆっくり観察するつもりで足を運んでみたのですが、本日取り上げた石橋の親柱が数基保存されています。

これら親柱は順次取り上げて行く予定ですが、ネタ切れ寸前の当ブログにとって新たなネタが増えた次第です。

あと、玉串川も上流より護岸工事が進められていますが、少し前の風景と徐々に変わってきているかと思います。

親水施設等も整備され、かつての基幹水路も今では地域住民のくつろぎの場となっている感がありますが、用水路としての用途は現在どれ位のものなのか?私的には以前より気になっている事であります。

尚、今日は生駒山へ歩きに行って来ましたが、雪道を歩いて楽しかったです。

ちょっと滑ってしまいましたが(-_-;)

玉串川の護岸工事

雪の生駒山1

雪の生駒山2

自転車は徒歩と単車の中間で機動性?がありますので(於 八尾市・東大阪市)

大蓮地蔵尊

「大蓮地蔵尊」は大蓮南にあります。

地蔵堂内には石仏一体がまつられていましたが、詳しい事は分りませんでした。

それで、地蔵堂に貼り紙がしてあり、備品がいたずらされているそうで、警察にしたとの旨が記されていました。

お地蔵様には手を合わせて欲しいものです。

大蓮地蔵尊1

大蓮地蔵尊2

大蓮地蔵尊3

大蓮地蔵尊4

何で悪さするのか分かりませんが(於 東大阪市)