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日時計

「玉祖神社」の境内に日時計があります。

私、当初これが何なのか全く分かりませんで、神事(?)か何かに使用するものかと、勝手に思っていました。

その後、調べてみますと「日時計」だそうで、御覧頂くと分かります様に、現在と時刻表示が全く違うものとなっています。

それで、いつの時代につくられたものなのか?確認は出来ませんでしたが、私がイメージする日時計と違い、石造で文字が刻まれています。

あと、中央に孔があけられていますが、ここに何か(?)を差し込んで、時間が分かる様になっていたかと思われます。

しかし、当時の時刻表示について調べてましたが、余りよく分かりませんでした。

草木も眠る「丑みつどき」は、怪談話等で耳にする事もありますが…

写真は奈良にある「千光寺」の境内にある、日時計です。

普通、日時計と言うとこんな感じで。

日時計1

日時計2

江戸時代のものでしょうか?(於 八尾市)

あけぼの橋

曙町を流れる長瀬川に「あけぼの橋」が架けられています。

その橋の袂には「あけぼの橋」と刻まれた、昭和五十五年年(1980)に竣工を記念して、石碑が建てられています。

おそらく、この小さな橋がそうかと思われますが、この辺りを長瀬川には小さな橋がいくつも架けられてています。

しかし、橋名が表示されている橋は殆んどなく、あけぼの橋以外で橋名が確認出来るのは「れんごうはし」だけでした。

それで、この様にほぼ人しか通れない様な小さな橋は、行政ではなく自治会等の負担で架橋するのでしょうか?

勿論、許可は必要かと思いますが、そのあたりはどうなっているのでしょうか?

時折、個人宅専用に架けたと思われる橋を見かける事もありますが。

あけぼの橋1

あけぼの橋2

石碑もそれなりの値段でしょうが(於 八尾市)

とある風景(その195)

今年は例年より早くお盆休みに入りましたが、何せこの暑さですので、屋外活動(?)は全くしておりません。

しかし、このところ朝夕は若干過ごし易くなりしたので、朝早起きして久しぶりに釣りに行ってきました。

写真は風景ではありませんが、本日の釣果はこの二匹でした。

魚種は「ギンブナ」「カダヤシ」ですが、カダヤシは普通釣る魚ではなく、網等ですくう様な小さな魚で「グッピー」程の大きさです。

しかし、何故か今日は釣れてしまいまして、実のところ私も「よう釣れたなぁ」と驚いています。

勿論、釣ったのは初めてです。

それで、今回釣りあげたフナはギンブナですが、中河内の郷土料理に「河内ぶなの昆布巻き」と言うものがあったそうです。

因みに、河内ぶなとは所謂「ヘラブナ」の事で、現在は釣り用に養殖され、東大阪はその産地となっていますが、かつては食用にもされていました。

昆布巻きを「こんまき」と呼ぶのが河内訛風ですが、ふな一匹を丸ごとを昆布で巻き煮いた料理で、長く煮いても煮崩れする事もなく、硬い骨も一緒に食べられたそうです。

この料理は中河内の農家で、10月の秋祭りに他の料理と共に供される「ハレ食」だったそうで、稲作農家が灌漑用の溜池で育った河内ぶなを食材に利用した、郷土食だと言う事です。

私、何度かフナを食した事がありあすが、美味しく頂くのは、やはり料理の仕方次第でしょうか?

こぶな

釣ったカダヤシ

魚も水温の低い木陰に集まっていました(於 東大阪市)

衣摺の子育て地蔵尊

衣摺に「子育て地蔵尊」があります。

地蔵堂内には石仏一体がまつられていますが、詳しい事は分りませんでした。

それで、地蔵堂も石仏も新しいものですが、平成四年に建立されたとありました。

平野区との境界近くにあります。

衣摺の子育て地蔵尊1

衣摺の子育て地蔵尊2

衣摺の子育て地蔵尊3

この場所におまつりされた経緯が少々気になりましたが(於 東大阪市)

東大阪都市計画西部土地区画整理事業竣工記念碑

布施公園内に「東大阪都市計画西部土地区画整理事業竣工記念碑」が建てられています。

建立年は確認出来ませんでしたが、市長として「伏見さん」の名が記されていましたので、在任期間(昭和45年~57年)に建てられた事になります(私の世代では東大阪の市長と言えば、伏見さんでしょうか?)

事業内容の詳細は分かりませんでしたが、東大阪市のホームページによりますと、昭和40年(1965)から昭和48年(1973)まで整理事業が行われ、115ヘクタールが区画整理されたとの事でした。

おそらく、布施公園は土地区画整理事業の際に整備されたかと思われますが、現在改修工事が行われ、再整備される様です(?)

それで、昭和40年代と言えば、私の幼少期にあたりますが、吹田で万博が開催されて以降、私の出身地域である東大阪西部はこの時期から、都市として大きく変わって行ったのだと思います。

中央大通り、阪神高速東大阪線、機械団地、文具団地、金物団地等もこの頃に建設されたものですが、当時これ等道路、施設周辺にはまだ田畑も多く残り、新しい時代と古い時代が混在していた時期なのかも知れません。

これまで、東大阪全体の移りかわりをそれ程気にする事無く、暮らして来ましたが(-_-;)

東大阪都市計画西部土地区画整理事業竣工記念碑1

東大阪都市計画西部土地区画整理事業竣工記念碑2

東大阪都市計画西部土地区画整理事業竣工記念碑3

高井田周辺も店舗等が増えて賑やかになりました(於 東大阪市)

とある風景(その194)

本日は父の日でしたので、久しぶりに実家へと帰りましたが、ついでに生まれ育った稲田周辺もぶらぶらしてみました。

最近、帰る度に「ふるさと」の風景は変わって行くのですが、徳庵の商店街は人出も少なく、私が幼少の頃と比べると、ほんと淋しい限りです。

稲田の宮さんにお参りし、今日は「徳庵神社」へもお参りに行きましたが、その後近隣地区の「川俣」「西堤」「長田」「森河内」にも立ち寄りました。

それで、かつて稲田には「菱江川」が流れていましたが、現在遊歩道に整備されています。

記事を書く都合上、菱江川と記していますが、実は今でも「風呂屋の裏のドブ川」と呼び、当時は周辺の汚水が普通に流され、子供の頃は立小便するわと何でもあり状態で、時折動物の死骸も流れて来る事もありました。

そんな菱江川も今は無く、今この歳になり川跡の遊歩道を歩いています。

かつて川だった場所を歩く事は不思議な感覚ですが(勿論、川だった頃は川を歩いたりしませんでしたが…)川沿いの風景もすっかり変わり、新しい住宅が建ち並んでいます。

だだ、お風呂屋さんの煙突だけが当時のまま建っています。

昔は川沿いに数軒の銭湯がありましたが、今は一軒だけとなってしまいました。

昔とすっかり変わってしまった地元稲田界隈ですが、考え方を変えると、自宅から近い場所に生まれ育った場所があるのも、幸せな事なのかも知れません。

子供の頃、田舎のある友達が羨ましかったですけど。

父の日に菱江川跡にて

子供の頃この辺で遊んだなぁ(於 東大阪市)

永和の北向延命地蔵尊

永和に「北向延命地蔵尊」があります。

地蔵堂内には、丸彫りの地蔵菩薩立像一体がまつられていますが、詳しい事は分りませんでした。

石仏は新しい時代のものだと思いますし、民家の前に地蔵堂が建てられていますので、個人の方や自治会でおまつりされているのでしょうか?

永和の北向延命地蔵尊1

永和の北向延命地蔵尊2

テレビで映っていました(於 東大阪市)

船板塀(その6)

八尾に船板塀がありました。

これまで取り上げた船板塀と同様、蔵の一面に施されています。

それで、この船板塀には多くの「船釘」が残されていますが、釘の打ち方が良く分かるかと思います。

私以前より、釘だけで繋ぎ合わせた木造船が、何故浸水しないのか?今でも不思議に思っています。

それは、長く受け継がれきた先人の知恵でしょうが、またその部材を外壁として再利用する発想にも驚いてしまいます。

かつて水路に浮かんでいた木船を見る事は出来ませんが、建物の外壁として今も木船は残されている事になるのではないかと思います。

船板塀6-1

船板塀6-2

船板塀6-3

船板塀6-4

船板塀6-5

船板塀6-6

船板塀6-7

船板塀6-8

八尾は船板塀多いです(於 八尾市)

楠橋の親柱

玉串川沿いに「楠橋」の親柱が残されています。

年号等は確認出来ませんでしたが、二基残されている親柱にはそれぞれ「楠橋」「くすのきはし」と刻まれています。

側にあるコンクリート製の橋が架かる場所に、かつて楠橋が架けられていたのかは確認していませんが、おそらくこの場所に架けられていたと思われます。

それで、これまで取り上げました、玉串川沿いに残されている石橋の親柱は、それ程大きなものではありませんが、それは大和川付替後に井路川となった玉串川に架けられた石橋自体が、それ程大きなものではなかったからでしょうか?

あと、玉串川に架けられていた石橋の親柱が残されているのは、私が確認した限り八尾市内のみですが、東大阪には石橋が残されています。

玉串川沿いには、まだ何処かに親柱が残されているのでしょうか?

楠橋の親柱1

楠橋の親柱2

親柱が残されているのは山本だけみたいです(於 八尾市)

善根寺町の大師堂

善根寺町に大師堂があります。

堂内には弘法大師像一体がまつれていましたが、詳しい事は分りませんでした。

それで、弘法大師様は彩色され、他に民芸品でしょうか?可愛いお坊さんも納められています。

善根寺町の大師堂1

善根寺町の大師堂2

善根寺町の大師堂3

善根寺町の大師堂4

個人でおまつりされている様です(於 東大阪市)

大阪府立八尾南高校跡地

私の拙ブログ「河内彷徨」も開設してから数年経ち、取り上げるネタも徐々に少なくなってきました。

まあ、あまり得意ではない(?)戦国時代の事や遺跡、古墳等も取り上げればカテゴリーが広がり、ネタも増えるのかも知れません。

しかし、基本的に近世以降の石造物や河川水路等を主に取り上げて行く事を主旨に記事を更新してきましたので、これ以降も石造物を主に『同じ様なネタ』が続く事となりますが、ネタの続く限りブログを続けて行く所存ですので、時間つぶし程度にでも御覧頂けたらと思う次第です。

それで、今回も早速石碑の記事となりますが、平野川沿いに「大阪府立八尾南高校跡地」の石碑が建てられています。

自然石に銘板が埋め込まれたものですが、昭和時代後期に創立された高等学校が閉校となり、跡地に石碑が建てられているのは珍しかと思っています。

個人的には「八尾らしい」のではないかと。

学校の沿革等いついてはホームページがありましたので閲覧しますと、丁度私が高校生頃の創立でした。

当時、学区が違うのでこの高校の事は知りませんでしたが、東大阪でも統合等で閉校となり、校名が改称された学校もあります。

卒業生の方々には淋しい事かも知れません。

大阪府立八尾南高校跡地1

大阪府立八尾南高校跡地2

跡地は八尾市の公共施設になってます(於 八尾市)

瀧行場

生駒山では瀧行場が各所で見られます。

生駒山の西麓は傾斜が急で、谷を流れる谷川を利用した瀧行場を中心とした民間信仰が、明治以降盛んとなりました。

生駒山で民間信仰が盛んになった理由として、瀧行場をつくるだけの水量と深さのある谷がある事、宝山寺を中心とする信仰が江戸時代からあった事、あと信仰を支える信者の獲得に都合の良い、大阪と言う大都会をひかえている事が挙げられるそうです。

しかし、谷川の水量に関しては、トンネル開削等により現在は水量が減少し、史跡名勝に指定されている「長尾の瀧」も上流にある砂防ダム付近から、ホースで水を引いているのが現状です(ハイキングコース上ある涸れた谷川に沿ってホースが引かれています)

それで、殆んどの瀧行場は瀧が中心的な存在で「白瀧大○○」等と称していますが、主神仏として別に不動明王等が崇められている事が多く、あと施設等を伴った場所もあります。

法人化され、現在も信仰されている団体もありますが、中には信仰者の姿も無く、荒れ果て施設の建物が崩壊していある場所もあり、少々不気味な様相を呈している場所もあります。

この様に石造物や建物等の施設のある瀧行場が広まり始めたのは、明治時代も中期以降の事だそうで、お塚等の石造物に刻まれた江戸時代の年号は皆無で、明治以前の民間信仰的な行場の跡も発見されていないそうです。

以上、簡単に生駒山の瀧行場について記しましたが、東大阪市域を中心にかなりの民間信仰の場があったと思われます。

瀧行場1

瀧行場2

瀧行場3

瀧行場4

瀧行場5

巨石も信仰の対象となっている事もあります(於 東大阪市)

玉手町の地蔵尊(その3)

玉手町に地蔵尊があります。

地蔵堂内には石仏一体がまつられていましたが、詳しい事は分りませんでした。

石仏は摩耗と風化がある様ですので、古い時代のものかも知れませんが、蓮華台と台石は後補されたものかと思われ、総高は石仏の倍程となっています。

それで、この地蔵尊は旧玉手山遊園地入口手前にあります。

玉手山遊園地は幼少の頃に訪れた場所ですが、当時遊びに訪れた遊園地の内、現在も営業しているのは「生駒山上遊園地」と「枚方パーク」のみとなってしまいました。

でも、生駒山上遊園地は今も生駒歩きの際に訪れています(夏季以外ですけど…)

玉手町の地蔵尊3-1

玉手町の地蔵尊3-2

玉手町の地蔵尊3-3

昔からおまつりされていたのでしょうか?覚えていません(於 柏原市)

柏村町の顕彰碑

柏村町にある、児童公園内に顕彰碑が建てられています。

碑文によりますと、八尾市教育委員と委員長を務められた三好氏が、居宅跡を公園用地として寄贈されたとあります。

住宅街にある公園としては普通の規模かと思いますが、住宅の敷地としてはかなり広いと思います。

教育委員会に努められた方なので、地区の子供達への思いから公園用地として、寄贈されたかと思います。

あと、玉串川沿いにも個人の方が寄贈された敷地が、公園として整備されていますが、こちらは玉串川沿いにありますので、御存知の方も多いと思います。

柏村町の顕彰碑1

柏村町の顕彰碑2

柏村町の顕彰碑3

高井公園1

高井公園2

南北は家三軒分位の長さです(於 八尾市)

楠根川(その13)

長田にある民家の外塀に木が埋め込まれています。

長田の旧村は東西に細長く続き「長田神社」と「番ノ辻」付近を中心に開けたと考えられるそうですが、その旧村部の北側を通る道は「楠根川」の右岸堤防跡にあたり、この道を東へ行くと「新家堤」と呼ばれた、楠根川の副提跡へと続きます。

それで、民家の外塀に埋め込まれた木は椿の木だそうですが、椿の木は成長が遅いそうで、この木は樹齢約500年と言伝えられているそうです。

この事からも、この道が堤防上に出来た証となるかと思いますが、かつて長田は楠根川の氾濫による、水害に度々見舞われたそうです。

長田の旧家が石積の上に家が建てられているのは、昔からのならわしだそうで、それは水害に対する工夫だと思われますが、江戸時代の長田の記録を調べてみますと、楠根川についても記されており「村内楠根川 是ㇵ水上者赤川、下ㇵ楠根川与申、当村ゟ…」「是は当村添ニ御座候而」とあり、この川が赤川(悪水井路・農業用排水路)だった事が分ります。

あと、延享・天保・宝暦年間には「龍骨車」が21両あり「是ㇵ用水、悪水かき申候」と記されていますが、これは冠水が激しかった為、川俣にあった堰に龍骨車を並べ、楠根川に排水したと伝えられているそうです。

かつては水害に悩まされた長田ですが、かつて周辺にあった多くの水路は埋立てられ、道路等に整備されていますが、第二寝屋川開削等の治水対策の結果、現在は水害とは無縁の地区となっているかと思います。

長田は私の実家である稲田から自転車で5、6分の場所にあり、幼少期より土地勘がありますが、数年前まであった水路も埋立てられ、新たな家が建てられたりと、その風景も変わりつつあります。

同様の事は稲田周辺でも言える事なんですが…

楠根川13-1

楠根川13-2

楠根川13-3

楠根川13-4

楠根川13-5

楠根川13-6

確かに道は微高地になっています(於 東大阪市)

とある風景(その193)

今日は聖天さんへお参りに行って来ましたが、暑いので電車とケーブルカーで行って帰って来るつもりでした。

でも、久しぶりに山歩きがしたくなったので、意を決して(?)歩いて行きましたが、やっぱり暑かったです(-_-;)

冬に比べると、一時間程歩く時間が余計にかかりましたが、無事下山する事が出来ました。

もう秋まで生駒行きません(笑)

それで、冬に比べると木々の緑や鳥の鳴き声も多くなりますが、梅雨から夏の楽しみでもある「アジサイ」もつぼみを膨らませていました。

九州南部では梅雨入りしたそうですが、大阪も来月梅雨入りするのでしょう。

帰路は辻子谷で下山し、石切参道商店街でよもぎ団子を買って帰りましたが、よもぎ団子は厄除けの意味もあると聞きました。

単に私は美味しいので好きなだけですが。

あじさいのつぼみ

ほんま暑かったですわ(於 東大阪市)

下六万寺町の御堂

下六万寺町に御堂があります。

堂内を確認してませんが(無造作に扉を開けるのは少々気が引けますので…)お地蔵様、お大師様がまつられているのでしょうか?

屋根に宝珠があった痕跡(?)もあり「卍」が見当たりません。

それで、六万寺の廃寺について調べてみますと、かつて村の西端に「長善寺」と呼ばれる寺院があり、明治六年に廃寺となったそうですが、このお堂と関係があるのでしょうか?

児童公園の一角にあります。

下六万寺町の御堂1

下六万寺町の御堂2

下六万寺町の御堂3

カテゴリーは仏像とさせて頂きます(於 東大阪市)

静電誘導対策樹木

生駒山には多くの樹木が生い茂っていますが、その多くの樹木の中に「静電誘導対策樹木」と表示された木がありました。

木の種類等は私には分かりませんし、静電誘導対策樹木と言うものも、この表示を見て初めて知りました。

それで、静電誘導対策樹木とはどの様な木なのか?それもよく分かりせんが、表示板に「電源開発(株)管理」とあります。

インターネットで調べてみましたが、興味のある方は「電源開発株式会社」のホームページを御覧頂きたいと思いますが、ここ大阪で関西電力以外に電気事業を行っている会社がある事も初めて知りました(現在は電力自由化となっていますが)

日常の生活に欠かす事の出来ない「電気」ですが、その供給のシステムについて知らない事が結構あるものだと思います。

電気料金以外は普段それ程、気にもとめませんせんので…

尚、【2】の木は伐採された様です。

静電誘導対策樹木1

静電誘導対策樹木2

静電誘導対策樹木3

静電誘導対策樹木4

静電誘導対策樹木5

静電誘導対策樹木6

静電誘導対策樹木7

静電気が誘導される木なのでしょうか?(於 東大阪市)

とある風景(その192)

初夏を思わせる日が多くなり、好きな山歩きは暑いのでお休みしています。

この時期は自転車や単車で移動する事になりますが、今日は自転車でぶらぶらしてました。

適当に行きたい場所を決めて、あとは予定は立てずに思い付きで行くのが、最近のやり方ですが、今日はとりあえず恩智川を南下して恩智まで行き、そこから久しぶりに市内の平野から永和まで行き、帰り際に花園の商店街のはずれにある和菓子店で最近気に入っている「生チョコレート餅」を買って帰宅しました。

私、甘い物大好きですので。

それで、東大阪を流れていない「平野川」で休憩して一服していると、堰の落ち込みの所で丸いものがくるくる回転していました。

良く見るとサッカーボールで、それも2つ並んで回転しています。

何となく眺めていましたが、自然に下流へと流されて行きました。

しかし、堰で泡がたっているのが、市街地を流れる川って感じで、私の子供の頃の汚れていた川を思い出します。

まあ、平野川に限らず、長瀬川や玉串川も昔と比べるとかなり綺麗になったと思いますが。

その後、アジア系の外国人の方々が、流れているサッカーボールを発見し、平野川入って2個とも回収していました・・・・・

買うた事ないですが、サッカーボールって何ぼくらいするんでしょうか?

平野川にて1

平野川にて2

見た目はそんな汚い感じはしませんけど(於 八尾市)

郡川の地蔵尊

郡川に地蔵尊があります。

地蔵堂内には石仏一体がまつられていましたが、詳しい事は分りませんでした。

それで、以前この場所に地蔵堂はありませんでしたが、ある日訪れると地蔵堂がありました。

あと、石仏は状態から推測して古い時代のものと思いますが、私は観音様にも見えました。

小さな地蔵堂です。

郡川の地蔵尊1

郡川の地蔵尊2

郡川の地蔵尊3

何処かのお宅内でおまつりされていたのでしょうか?(於 八尾市)

唐臼の台

かなり久しぶりに「唐臼の台」の更新となりますが、今回は「ちょっとええ感じで置いてある」唐臼の台です。

殆んどのものが、道端に車の衝突防止用(?)に無造作(?)に置いてある唐臼の台ですが、軒先に草花と一緒に置いてあったり、中には置いてある横に自然に花が咲いたものもありますが、今回はそんな唐臼の台を取り上げてみました。

それで、当初珍しさから、見かけると必ず写真撮影していましたが、私が思っていた以上に何処にでもあるので(…)ここ数年は見かけても写真撮影していませんでした(-_-;)

まあ、それだけその昔は多く使われていた事となるのでしょう。

ほんま、休みの日に外に出ると必ず見かけます。

唐臼の台29

唐臼の台30

唐臼の台31

唐臼の台32

唐臼の台33

唐臼の台34

まだ写真あるんですが(於 東大阪市・八尾市)

曙川北土地区画整理事業竣工記念碑

八尾木北にある公園内に「曙川北土地区画整理事業竣工記念碑」が建てられています。

碑文によりますと、八尾市として最初の土地区画整理事業で、市域のほぼ中央に位置する62ヘクタールを昭和45年に着工し、昭和52年に竣工したそうです。

この地域の市街化の促進を図る為、総工費17億円を投じて「東大阪中央線」をはじめ、総延長15キロメートルの道路網及び公園が整備されたそうです。

尚、八尾市のホームページでこの事業について閲覧する事が出来ますので、そちらも御覧頂きたいと思いますが、私少し気になったのが「東大阪中央線」です。

この道路についてインターネットで調べてみますと、基本的には廃止となった様ですが、東大阪市域では本庄から横枕春日神社の横まで幅広の道路が通っています。

これが「名残」だそうですが、言われてみますと八尾にも同様の名残があります。

以前から「何でここにこない広い道路通ってんやろ?」と思っていましたが、理由はそれだったんですね(-_-;)

それで、記念碑はコンクリート製(?)の台石に、子供のブロンズ像が座っている珍しいものです。

プレートが無ければ、公園内にあるモニュメントの様です。

ブロンズ像と碑の組み合わせは『後の世代に』との思いでしょうか?

曙川北土地区画整理事業竣工記念碑1

曙川北土地区画整理事業竣工記念碑2

耕地整理記念碑としては珍しいです(於 八尾市)

北亀井町の一願地蔵尊

北亀井町に「一願地蔵尊」があります。

地蔵堂内は小さな厨子が納められていましたが、仏像のお姿は見えませんでしたので、詳しい事は分りませんでした。

それで、以前からこの辺りでおまつりされていたかどうかは分かりませんが、JR八尾駅周辺の開発で道路等が新たに整備されたと思われますので、現在おまつりている場所も以前はどの様な場所だったのでしょうか?

私は地元の人間ではありませんので、その事については分かりませんが、閉鎖された龍華操車場があった頃の風景は"何となく"記憶があります。

子供の頃は鉄道少年で操車場に機関車を見に来ていた事がありましたので。

あと、地蔵尊にマッチが置いてあるのですが、そのマッチには女性の写真が印刷されています。

モデルの女性の髪形や化粧、服装から察すると、私がここへ機関車を見に来ていた時代の昭和40年代後半から昭和50年代頃のものでしょうか?

マッチについて詳しい事は分りませんが、当時の女性ってこんな感じだったと思います(?)

こんなマッチ箱初めて見ましたが…

北亀井町の一願地蔵尊1

北亀井町の一願地蔵尊2

北亀井町の一願地蔵尊3

北亀井町の一願地蔵尊4

北亀井町の一願地蔵尊5

ほんまこのマッチ箱エエ感じですわ 何や知らんけど(於 八尾市)

太田尋常小学校跡地

前回「三木本尋常小学校跡地」を取り上げましたが、その三木本尋常小学校は大正時代に「太田尋常小学校」と統合され「大正尋常高等小学校」となりました。

現在、太田の学校跡地には「太田尋常小学校跡地」の石碑が建てられています。

碑文には、明治七年(1874)に太田尋常小学校が設立され、大正十一年(1922)に三木本尋常小学校と合併し移転したとあります。

それで、手持ち資料によりますと、明治七年十月(一説では十一月)に第百五十一番小学として設立とあり、当時学区は番号により呼称されていたそうですが、明治八年(1875)に所在地の町村名で呼称される事となり、第百五十一番小学は太田小学と改称されたそうです。

あと、当初校舎は寺院が借用され、生徒数は男子85名、女子34名で教員は二名だったそうです。

前回から続けての小学校跡地を取り上げました。

太田尋常小学校跡地1

八尾菊花ライオンズクラブの寄贈となっていました(於 八尾市)

とある風景(その191)

先週、かなり久しぶりに淀川まで釣りに行ったのですが、八雲わんどは工事や漂着したゴミで適当な釣り場がなく、仕方なく城北わんどへ移動しました。

しかし、多くの釣り人でこちらも殆んど釣り場がなく、結局淀川河川敷をサイクリングした事になり、そのまま帰宅しました(殆んど誰も釣れていませんでしたけど…)

それで、今日は自宅近くの以前釣りをした事のある某所へ釣りに行ってみましたが、無事に魚を釣る事が出来ました。

今日は小ブナ等の小さな魚狙いでしたが、それ以上に小さな魚が多く、餌だけ取られてその後は釣りになりませんでした。

一旦竿を納め、一服しているとコイ釣の方が来られたのですが、その方とその他の顔馴染の方々と2時間程世間話して、コイが釣れるのを見ていました(結局釣れませんでした)

その後、池島まで魚がいそうな場所を捜しに行きましたが、農繁期前で水路等は水深が浅く、魚影も見えませんでしたので、また田植えの時期の前に再度『偵察』しに行く予定です。

次回は仕掛けと餌を工夫して、ちっちゃな魚を沢山ってやろうと思ってますが…

それで、家に帰る途中に花園中央公園を通って帰りましたが、現在ラグビー場は改装工事中です。

その理由は御承知だと思いますが、ラグビーのワールドカップが開催されるからです。

「ほんまにここでやるん?」と思いつつ、ラグビー場を後にしました。

東花園の駅前もえらい綺麗になってました。

ラグビー場工事中

高校ラグビーでもたいがいえらい人ですのでもっとえらい人になるんやろな(於 東大阪市)

長堂の延命地蔵尊(その2)

長堂に「延命地蔵尊」があります。

地蔵堂内には石仏一体がまつられていましたが、詳しい事は分りませんでした。

個人でおまつりされているのでしょうか?

商店街沿いにあります。

長堂の延命地蔵尊2-1

長堂の延命地蔵尊2-2

長堂の延命地蔵尊2-3

布施の商店街は食物屋さんは今も結構ありますね(於 東大阪市)

三木本尋常小学校跡地

木の本に「三木本尋常小学校跡地」の石碑が建てられています。

碑文によりますと、明治六年(1873)に三木本尋常小学校が設立され、後の大正十一年(1922)に太田尋常小学校と合併し、大正尋常小学校(現大正小学校)と改称、移転したとあります。

それで、手持ち資料で調べてみますと、明治六年六月に第九十五番小学設立とありました。

あまり詳しい事は分かりませんでしたが、この地域の行政区画の変遷はやや複雑(?)で、三木本村が成立したのが明治二十二年(1889)ですので、明治六年創立の小学校名に使用されていたと言う事は、以前から三木本は木の本三村の総称だったのでしょうか?

現在、跡地には住宅が建ち当時の名残は全くありませんが、跡碑のすぐ近くを水路が流れ、小さな橋が架けられています。

東方に水路を辿ると、明治の年号が刻まれた石の樋門がありますので、この水路も明治以前から流れていた事になりますが、当時の子供達はこの水路を見ながら登下校していたのかも知れません。

その水路も一部を除いて、暗渠となっています。

三木本尋常小学校跡地1

ネタが少なくなりましたので石造物の記事が多くなります(於 八尾市)

茅葺の家(その18)

八尾に茅葺のお宅があります。

建築年代等の詳しい事は分りませんが、方入母屋造りの立派なお宅です。

街道沿いにありますので、インターネットのサイト等でも写真が掲載されていましたが、今回は方入母屋造りが分かる方向から撮影した写真を掲載させて頂きました。

街道沿いからは、切妻側に塗られた白の漆喰が見えています。

茅葺の家18-1

茅葺部分が広いです(於 八尾市)

とある風景(その190)

これまで中河内では行った事が無い場所は、ほぼ無いと自負していた(?)私ですが、実は八尾南駅の北側へは行った事がありませんでした…

ここ最近は山歩きを一旦お休みして、自転車に乗る事が多いのですが、昨日八尾空港に飛行機を見に行った際、初めて(?)駅の北側へ行ってみました。

それで、この地区には八尾飛行場跡地がある事は知ってはいましたが、予想していた以上に広い敷地で、あと駅の側に地下鉄の車庫がある事も今回初めて知りました(木の本や太田周辺には定期的に足を運んでいますが…)

その飛行場跡地内にコンクリート製の建造物がありましたが、何なのか?分かりませんので、インターネットで調べてみても良く分かりませんでしたが、戦時中の遺構と言う事でした。

あと、インターネットで大阪の戦争遺跡を調べていると、星田に戦時中日本軍の戦闘機が墜落した場所があるとの事でした。

実は今日、たまたま星田にある墓地にお参りにく予定でしたので、墓参りを済ませた後にその場所へと行ってみましたが、その場所には鎮魂碑が建てられています。

場所はJR星田駅からすぐの場所にありました。

その後はウォーキング(?)で、野崎さんにお参りに行き、帰路の途中にある善根寺の老舗和菓子店(創業100年との事です)でおはぎを買って帰りました。

顔が真っ黒になりました。

八尾飛行場跡地

星田の鎮魂碑

航空関連の戦争遺跡でした(於 八尾市・交野市)

恩智中町の出世地蔵尊

「出世地蔵尊」は恩智中町にあります。

地蔵堂内には石仏一体がまつられていましたが、詳しい事は分りませんでした。

丸彫りの小さなお地蔵様ですが、新しい時代のものかと思います。

電話ボックスの横に地蔵堂があります。

恩智中町の出世地蔵尊1

恩智中町の出世地蔵尊2

恩智中町の出世地蔵尊3

いつもよく通る恩智川沿いにあります(於 八尾市)