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盾津飛行場跡

現在、トラックターミナル、機械団地のある周辺には戦時中、大阪陸軍飛行場(盾津飛行場)がありました。

航空基地ではなく、飛行訓練場として使用されていたそうですが、詳しくは説明碑がありましたので、そちらを御覧頂きたいと思います。

それで、航空神社が建立されたそうですが、飛行場北東、現在は運送会社の敷地内に鎮座地していたそうです。

また、隣接して練兵場があったそうで、戦後も焼夷弾の残骸等が残っていたと、私の親話していました。

軍事施設なので米軍の攻撃目標となったのでしょうか?

私が物心ついた頃には、既にトラックや車が頻繁に行き来する、流通の拠点となっていましたが…

盾津飛行場跡1

盾津飛行場跡2

盾津飛行場跡3

盾津飛行場跡4

燈籠に「遺族会」とあります(於 東大阪市)

Comment

  • 難波のやっちゃん
  • URL

 こんばんは 盾津飛行場には戦時中、
ナムダーさんのご両親が勤労動員されて
たんでしたっけ。
30年前の話ですが、東大阪や北大阪の
トラックターミナル・鉄道会社を運営
していた会社の本店が大阪市東区にあり、
同じビルのテナントでした。

  • ナムダー
  • URL

難波のやっちゃんさんへ

私の祖父が「大阪砲兵工廠」で働いていました。
母親がその頃子供で食糧難の時代だったのでザリガニやシジミをこの辺りに取りにきていたそうです。

それで30年前はそこに本店があったんですか?
30年前だと私、中学生くらいかなぁ?

  • 難波のやっちゃん
  • URL

 勤労動員の件、大変失礼しました。
お母様は私より少しだけ上の年代ですね。
お祖父様が大阪砲兵工廠で勤務されていたとの事。私は退職まで18年間工廠跡地の大阪ビジネスパークへ通っていました。
 お尋ねの件、10年前に中央区から和泉市に移転しています。何かとご縁がありますね。

  • ナムダー
  • URL

難波のやっちゃんさんへ

失礼だなんて、全然ですよ(笑)
うちのオカンは難波のやっちゃんさんより少し上の年代ですね。

それで、18年間ビジネスパークでお勤めされていたそうで。
私子供の頃、大阪城の天守閣から工廠の残骸を見た記憶が薄っすらあるんですが、かなり小さい時の記憶で曖昧なんですけどね。
赤茶けた大きな建物だった様に思います。

  • 難波のやっちゃん
  • URL

 ナムダーさん こんばんは
小さい時に大阪城から工廠跡を見たとの事。まだ残骸があったんですね。私はビジネスパークに勤務してからこの地区の変遷に興味を持ち、小松左京の「日本アパッチ族」、開高健の「日本三文オペラ」そして梁石日の「夜を賭けて」等を読みました。
ちょうど龍造さんの「城見橋より西を眺める」の第二寝屋川を挟んで、アパッチ族と警官隊の攻防の記述に魅了されたものです。

  • ナムダー
  • URL

難波のやっちゃんさんへ

私、スクラップをめぐる攻防戦を知り合いの人から昔話として聞いたんですが、その後興味が沸いてあの辺りの集落に行ってみました。
当時の当事者の方が現在もお住みだとか聞きましたが、詳細は分らずです。でもあの辺りは下町って感じで雰囲気は好きですね。
一応、管轄外と言う事ですので記事にはしませんが。

  • どんぐり
  • URL

私(国民学校生)と兄(中学生)は昭和17-18年頃毎日曜日のように日本橋の模型飛行機屋のおじさんを中心とする同好会のおとなの人たちが模型飛行機(エンジン機)を飛ばせに盾津飛行場に行くのについて行きました。そこは短い草が生えただけのだだっ広い野原でした。戦争の雲行きが怪しくなってきて学童疎開が始まる前ですから昭和18年から19年にかけての頃でしょうか、おじさんたちがもう来なくなって(赤紙?)私たちこどもだけで手作りの飛行機を飛ばしたりして遊んでいたある日突然低い丘のかげから手の届くような距離に緑褐色の戦闘機が飛び上がってきて驚いたことがありました。あれは紫電改だよとだれかが言ってました。

  • ナムダー
  • URL

どんぐりさんへ

コメントありがとうございます。
お返事が遅れまして申し訳御座いませんでした。

それで、当時のお話を聞かせて頂いて私少し以外に思ったのですが、戦時中に模型飛行機を趣味で楽しまれていた方々がおられたんですね。
軍の敷地内でお咎め無しだったのでしょうか?

あと、この飛行場は作戦基地では無く、簡単に整地されただけの「飛行場」だったと言う事でしたので「紫電改」の様な実戦機が離着陸していたのも初めて知りました。
一番最近の記事「本庄の標石」「忠霊塔」で、私が調べたり過去に聞いた話を記していますが、海軍の紫電改が18年から19年離着陸していたと言うのもつじつまが合うのではないかと思いますが。

私の親はおそらくドングリさんより少し下の世代で、戦後すぐのこの辺りの事は話には聞いていますが、当時まだ焼夷弾の残骸等が沢山残っていたと話していました。
ドングリさんが何処にお住まいだったのか存知あげませんが、実家周辺で当時の話をお聞きしますと、大体私の親と同じ様なお話をされる方が多いです。

それで、私は戦後の平和な時代に生まれ、飛行場や練兵場跡に出来た機械団地やトラックターミナルの幅の広い舗装路に車の少ない休日「ローラースケート」をしに遊びに行った世代です。

貴重なお話有難う御座いました。

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