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2018
06.17

楠橋の親柱

Category: 石橋
玉串川沿いに「楠橋」の親柱が残されています。

年号等は確認出来ませんでしたが、二基残されている親柱にはそれぞれ「楠橋」「くすのきはし」と刻まれています。

側にあるコンクリート製の橋が架かる場所に、かつて楠橋が架けられていたのかは確認していませんが、おそらくこの場所に架けられていたと思われます。

それで、これまで取り上げました、玉串川沿いに残されている石橋の親柱は、それ程大きなものではありませんが、それは大和川付替後に井路川となった玉串川に架けられた石橋自体が、それ程大きなものではなかったからでしょうか?

あと、玉串川に架けられていた石橋の親柱が残されているのは、私が確認した限り八尾市内のみですが、東大阪には石橋が残されています。

玉串川沿いには、まだ何処かに親柱が残されているのでしょうか?

楠橋の親柱1

楠橋の親柱2

親柱が残されているのは山本だけみたいです(於 八尾市)
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2018
04.29

菫橋の親柱

Category: 石橋
府立高校の校門前に「菫橋」の親柱が一基保存されています。

現在も府立高校の南角に菫橋は架けられているのですが、交差点の一部となり殆んど橋と言う感じではありません。

暗渠と言った感じでしょうか?

それで、手持ち資料にたまたま昭和57年頃の菫橋の写真がありましたが、現在と殆んど変わりませんでした(-_-;)

「菫」と言う綺麗な名の橋ですが、いつも見ても下部が汚れているのがちょっと…

菫橋の親柱1

校門前にありますが目立つ事なく建っています(於 八尾市)
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2018
02.18

永久橋の親柱

Category: 石橋
先週に引き続き、今週も石橋の親柱を取り上げたいと思いますが、今回は平野川に架けられていたと思われる「永久橋」の親柱です。

御覧の様にブロック塀に囲まれて一基が保存され、正面に「六反 永久橋」と刻まれ、文化八年(1811)の年号があります。

それと、世話人が連名で刻まれていますが、太子堂村、川邉村、六反等の村名が見られます。

それで、この親柱は「六反」と刻まれている事から、平野区にあるものと思い込んでいたのですが、先週「好美橋」の記事を書いている際、この親柱の事を思い出しました。

所在地を確認しますと、跡部南の町でしたので、急遽(?)取り上げた次第です。

あと、橋名の由来等は分かりませんでしたが、亀井南町の平野川沿いにある「永代橋」の親柱にも「永」の文字があります。

何か関連性があるのでしょうか?

尚、二枚目の縦長の写真は、10年以上前に初めて購入したデジカメで撮影した永久橋の親柱です。

永久橋の親柱1

永久橋の親柱2

親柱も下部は道標の様になっているんですね(於 八尾市)


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2018
02.12

好美橋の親柱

Category: 石橋
串川沿いに「好美橋」の親柱が残されています。

親柱は二基残され、それぞれに「好美橋」「与しみ橋」と刻まれていますが、年号等は確認出来ません。

それで、一基には橋名が漢字、一基にはひらがなで表示され、これは現在架橋されている橋にも同様の表示がされている事が多いのですが、ひらがな表示の親柱には変体仮名が使用されているのが、古い時代の石橋の特徴と言えるかと思います。

あと、橋の袂に保存されていますので、この橋が「好美橋」かと思われますが、現在は橋名の表示も無い小さなコンクリート製の橋となっています。

地元の方々が架け替えに際し名残惜しく、保存される事になったのでしょうか?

好美橋の親柱1

好美橋の親柱2

好美橋の親柱3

八尾市のゴミ袋ってこんなんですか(於 八尾市)

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2016
02.21

桜橋の親柱

Category: 石橋
「長瀬川」にはかつて架けられていた石橋の親柱が残されています。

八尾市内を流れる長瀬川に「桜橋」が架けられていますが、その橋詰に「櫻橋」の親柱があります。

詳しい事は全く分かりませんでしたが、穴があけられ金属製の欄干の一部が残っていましたので、現在の橋に架け替えられるまで、石橋を改造し金属製の欄干を取付けて使用していたのかも知れません。

しかし、最初からこの状態だったかも知れませんが?

それで、この桜橋以外にも八尾市内を流れる長瀬川沿いには親柱が残されています。

桜橋も含め、これら親柱について長い間調べていましたが、結局詳しい事は何も分からずじまいでしたので、まとめて取り上げたいと思います(やや手抜き記事の感がありますが…)

「旭橋」には、大正十四年(1925)の年号がありましたが、それ以上の事は何も分かりませんが、私が一番最初に見付けた八尾市内に残る石橋の親柱がこの旭橋の親柱でした。

「柳橋」も同じく詳しい事は分かりませんでしたが、年号等の確認をしていませんので、またこの場所を訪れる機会があれば、確認したいと思います(と言いつつ実はずっと忘れているのですが…)

以上が私の見付けた八尾市内の長瀬川沿いに残る石橋の親柱でした。

桜橋の親柱1

桜橋の親柱2

桜橋の親柱3

桜橋の親柱4

長瀬川の春

旭橋の親柱1

旭橋の親柱2

柳橋の親柱1

柳橋の親柱2

長瀬川の秋

それで、ついでですが(笑)東大阪市内にも石橋の親柱が残され「金岡橋の親柱」を取り上げましたが、あと「高西橋」の親柱も残されています。

しかし、よくみると親柱ではなく、橋名が刻まれた石標では?とも思いましたが、詳しい事は全く分かりません。

あと、建立年が昭和十年(1935)で「高西會」と刻まれていましたが、同様な組織だったのか?気になるところです。

八尾と東大阪の長瀬川沿いに残る、石橋の親柱でした。

高西橋の親柱1

長瀬川の春

まだあるんでしょうか?(於 八尾市・東大阪市)
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2015
10.03

寿町の橋の石材(その2)

Category: 石橋
寿町の道端に橋の石材がありました。

この石材は以前取り上げました「寿町の橋の石材」のすぐ近くにあり、石材のある地蔵堂から見えています。

石材には「中小路」と刻まれ、詳しい事は分かりませんでしたが、この石材は大きさや材質(あくまでも私の見た目ですが…)等が地蔵堂前にある石材と非常に良く似ています。

おそらく、同じ石橋に使用されていた石材かと思われますが、確認はしておりせん。

多分同じ石橋に使われていたのでしょう(?)

そうだとすると、天保年間に架けられた石橋となります。

石材だけ見るとただの石板にしか見えませんが、かつて水路にこの石橋が架かる風景はどんな風景だったのでしょうか?

久宝寺寺内町に水路が流れそこに石橋が架けらていますが、こんな風景だったのでしょうか?

寿町の石橋もかつては多くの人々が橋で水路を渡っていた事でしょう。

寿町の橋の石材2-1

寿町の橋の石材2-2

寿町の橋の石材2-3

寿町の橋の石材2-4

久宝寺の石橋1

久宝寺の石橋2

小さい石橋って何か風情がありますね(於 東大阪市・八尾市)
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2015
07.26

矢矧橋の親柱

Category: 石橋
八尾市の公共施設の前庭に保存されている道標と並んで「矢矧橋」の親柱が一基保存されています。

この場所は「八尾街道」と「恩智街道」とが公差する場所ですので、街道歩きされている方は御存知の方も多いかと思います。

それで、いつの時代に架けられた石橋なのか?その詳しい事は分かりませんでしたが、それ以上に何処に架けられていたのか?その件についても気になるところです。

しかし、手持ち資料にこの石橋についても記述が見当たりませんでしたので、インターネットで調べてみますと、矢矧樋から引かれた水路に架けられていたそうで、その場所は「矢作神社」の北側だと言う事でした。

取りあえず現地に行ってみましたが、何処に架けられていたのか?私には分かりませんでした(…)

現地には今も水路が流れていましたが、矢矧樋についても気になりましたので、再度手持ち資料を調べてみすと、享和年間に描かれた、矢作神社の境内図がありました。

それによると、神社の東側に「金不動悪水沢」と記された水路が流れていたそうで、その水路は神社北側にある「蓮池」と記された池に流れ込んでいます。

金不動悪水沢が、矢矧樋から引かれた水路だったのかは確認出来ませんでしたが、絵図によると矢矧橋はこの蓮池の辺りに架けられていた事になります。

しかし、池に石橋が架けられていたとは考え難いかと思いますので、何らかの理由で池が埋立てられ、その後水路となった際に架けられたのか、それとも金不動悪水沢ではなく、別の水路に架けられていたものかも知れません(いつもの様にあくまでも私の推測です)

結局、詳しい事は分かりませんでしたが、私のブログの特徴でもある詳細が分からないままに今回も記事を更新しました(…)

それで道標同様、訪れる度に写真撮影していましたので、その内の数枚を今回掲載させて頂きます。

また何か分かりましたら追記としたいと思います。

矢矧橋の親柱1

矢矧橋の親柱2

矢矧橋の親柱3

矢矧橋の親柱4

矢矧橋の親柱5

矢矧橋跡1

結局何も分からずじまいでしたが(於 八尾市)
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2014
11.21

金岡橋の親柱

Category: 石橋
長瀬川に架かる「金岡橋」の袂に親柱が残されています。

石造の親柱は二基残されており、それぞれに「金岡橋」「かなをかばし」と刻まれています。

年号等は確認出来ませんでしたが、大蓮村と友井村を通ずる道が長瀬川と交差する場所に金岡橋が架けられ、明治十八年の仮製地図に金岡ではこの金岡橋だけが記されているとの事です。

それで、金岡は「村」ではなく、御存知の様に旧長瀬川床が新田開発された「金岡新田」と呼ばれた開墾地で、明治四十三年(1910)より現在の「金岡」と呼ばれています。

新田名の由来の詳しい事は分からないそうですが、村落はこの金岡橋の西側にあり、明治九年(1876)の記録では人口が二十四人で四、五軒の家がある小さな村落だったそうです。

橋の西側には商店街のアーケードがありますが、他の東大阪市内にある商店街と同様、少々寂しい状況となっています。

私、商店街が好きなんですけどね…

金岡橋の親柱1

金岡橋の親柱2

金岡橋の親柱3

江戸後期から明治時代のものでしょうか?(於 東大阪市)
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2014
08.13

しんばし

Category: 石橋
本町に「しんはし」と刻まれた石橋の親柱があります。

おそらく「新橋」であろうかと思われ、年号等は確認出来ませんでしたので、いつの時代に架けられたものなのか?詳しい事は分かりませんでしたが、八尾寺内町の環濠に架けられた石橋だそうで、手摺を差し込む為の枘穴があけられています。

それで、親柱だけがこの場所に残されているのだと思いましたが、すぐそばに石橋も残っていましたので、今回「親柱」ではなく「石橋」として記事を更新させて頂きました。

それで現在、石橋は住宅の敷地内に入り込む様な形で残り、また濠も埋立てられていますので、見た目は不自然に見えるかと思いますが、貴重な石橋ですので撤去される事を思えば、個人的にはこの状態でも残されている方がまだ良いかとは思いますが…

あと、以前取り上げましたが、八尾市役所の東側にも同じく「新橋」が架けられていますが、こちらは現在も使用されています。

本町周辺には現在暗渠になっている所もありますが、かつて寺内町には幾本もの水路が流れ、そこにはこんな小さな石橋が架けられていたのでしょう。

しんばし1

しんばし2

しんばし3

しんばし4

しんばし5

しんばし6

しんばし7

親柱だけ少し移動させたのでしょう(於 八尾市)
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2014
01.04

一条橋の親柱

Category: 石橋
近鉄布施駅のすぐ近く、足代に「一条橋」の親柱があります。

親柱は一基のみ残され、表面に「いちでうはし」と刻まれ、裏面には欄干をはめ込む柄穴があけられています。

年号等は確認出来ませんでしたが、周旋人(世話人)として刻まれている四名の方の名前等から明治時代のものと推測されているそうです。

それで一応、布施は東大阪一の繁華街なんですが、この辺りに川(水路)が流れていたと言うのは私、感覚的にあまりピンときません。

しかし、手持ち資料で少し調べてみますと、豊臣時代の慶長期に東足代村では検地(太閤検地)が行われ、居村・入作の登録百姓について記述がありましたので、当然の事ながらこの頃既に農業が営われていた事が分ります。

あと、明治初期においても東大阪市域の農村は河内綿作の中枢として、全国でも農業生産力が高く、商品生産の高度に発達した先進地域だったそうです。

ですので、この地域に農業用水路(井路)や農業用排水路(悪水井路)があった事も容易に想像出来るかと思います。

ここで以前取り上げました「すじかい橋」の親柱は、この一条橋の親柱から南にすぐの場所にありますので、もしかしたらこの二つの石橋は同じ水路に架けられていたものかも知れません。

それで一条橋の由来ですが、この親柱が建つ場所は一条通り商店街でして、アーケードに大きく「一条通り」と書いてあります(笑)

地元の方なら御存知でしょうが。

一条橋の親柱1

人通りが多い場所なので写真撮るのかっこ悪かったですわ(於 東大阪市)
Comment:2
2013
12.13

東石切町の石橋の石材

Category: 石橋
生駒山を流れる谷川、音川沿いに石橋の石材があります。

この石材を初めて見た際「大きな石板が置いてあるなぁ」と不思議に思いましたが、すぐそばに橋が架かっていますので、石橋の石材だと気が付きました。

実は、この石材が実際に橋に使用されていたのかは確認していないのですが、ちょうど川を跨ぐ事の出来る長さと、三本ありましたのでおそらく間違いないでしょう(?)

ですので、いつの時代のものなのか?詳しい事は分かりませんが、何故処分されずにこの場所に置いてあるのかも不明です。

それで、辻子谷を流れる音川沿いでは水車による製粉業が盛んでしたが、動力を電力に切り替え、今も操業している製粉工場があります。

「胡粉」と呼ばれる、貝殻を粉末にして作られる顔料は、寛永年間からこの地域でその製造が始まったのだそうです。

東石切町の石橋の石材1

東石切町の石橋の石材2

東石切町の石橋の石材3

東石切町の石橋の石材4

東石切町の石橋の石材5

多分石橋だと思いますが…(於 東大阪市)
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2013
06.19

山畑川橋の親柱

Category: 石橋
旧大阪外環状線が山畑川を越える場所に「山畑川橋」の親柱があります。

親柱が石造ですので、かつてこの場所に石橋が架けれていたと思われますが、現在は旧外環状線の一部の様になってしまっていますので、橋を渡る感じは殆どありません。

私、訳あって(?)この場所に来る事が多いのですが「言われてみればこれ橋やな?」といつも思います。

あと、この親柱は珍しい事に二面に橋名が刻まれています。

普通、一つの橋に四基ある親柱ですが、その内の一基または二基の一面に漢字で、残りの親柱にひらがなで橋名が刻まれている事が多いです。

この山畑川橋の親柱には、二面に漢字とひらがなで橋名が刻まれていますので、どの様な構造の橋だったのか?少々気になるところです。

山畑川橋の親柱1

山畑川橋の親柱2

山畑川の上流にも行く事が多いです(於 八尾市)
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2013
04.23

成思橋

Category: 石橋
本町を流れる水路に「成思橋」が架けられています。

これは以前「成思橋の親柱」として取り上げましたが、今回改めて「成思橋」として取り上げたいと思います。

私の中河内探索は「一回行って終わり」という事はあまりありませんで、その後も定期的に訪れる事が多いのですが、今月久しぶりにこの親柱の前を通ると、そばに建っていた民家が取り壊され、更地となっていました。

それで、よく見ると橋桁の石材がこの小さな水路に架けられている事に気が付きました。

これまでこの橋は親柱だけが残されていたと思っていましたが、実はちゃんと石橋の状態で残されていました。

しかし、石材は一枚だけしか確認出来ませんでしたので、やはり親柱と石材の一部が残されているのかも知れませんが…

とりあえず今回「石橋」として、再度取り上げさせて頂きました。

成思橋1

成思橋2

成思橋3

成思橋4

成思橋5

成思橋6

成思橋7

建物が水路に沿って建っていたのが良く分かります(於 八尾市)
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2013
03.02

永楽橋の親柱

Category: 石橋
日下新池の近く、日下町に「永楽橋」の親柱があります。

生駒山から流れ下る谷川の「日下川」沿いに親柱一基が保存されています。

日下川は小さな川でそれ程川幅もないのですが、この場所に石板を渡しただけの橋ではなく、親柱のある石橋が架けられていたその理由は分かりませんでした。

あと、年号等は確認出来ませんでしたが、江戸時代後半のものでしょうか?

日下川の上には歩道が設けられていますので、川の上を歩く事になります。

永楽橋の親柱1

永楽橋の親柱2

小さな親柱です(於 東大阪市)
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2012
09.19

永代橋

Category: 石橋
大阪中央環状線の歩行者・自転車専用道から少し入った場所に「永代橋」があります。

たまたま自転車で通りがかった際、道標が見えたので引き返して行ってみると、それは道標ではなく石橋の親柱でした。

「永代橋」と深く彫られたその親柱には、文化三年(1806)の年号と世話人の名が刻まれています。

それで、世話人には「龜井」「川邊」「長原」と三つの村人の名が刻まれ、あと「願主 長原村 妙光」と刻まれていますが、複数の村人が世話人となっているのは、用水組合の関係からでしょうか?

永代橋は亀井村と竹渕村の境界を流れる川に架けられたそうですが、現在川跡には滑り台や砂場等、遊具が設置されています。

永代橋1

永代橋2

永代橋3

永代橋4

永代橋5

永代橋6

永代橋7

永代橋8

永代橋9

他の親柱はなかったのでしょうか?(於 八尾市)
Comment:4
2012
08.25

利生橋の親柱

Category: 石橋
長瀬川が近鉄奈良線と交差する場所に「利生橋」の親柱があります。

この場所では長瀬川が暗渠となっていますので、一見普通の道路に見えますが、親柱が残されていますので、かつてこの場所に橋が架けられていた事が分ります。

それで、以前は三基の親柱が残っていたそうですが、現在は一基のみが残されています。

あと、石材の違いなのか?普通見かけます親柱とは違い、黄色の様な色をしていまして、ブロンズ製の銘板が埋め込まれています。

それで、橋の名にある「利生」ですが、これは仏語だそうで、多くの人々に便宜を与える事を意味しているのだそうです。

なるほど、そんな意味があったんですか。

しかし、この橋は石橋だったのか?確認はしておりませんが…

利生橋の親柱1

そう言えばかすかに記憶がある様な気もしますけど(於 東大阪市)

Comment:0
2012
07.16

信念橋の親柱

Category: 石橋
春になると水路等で川浚えしているのを見かける事があります。

そんなある春の日、八尾の市街地を通っていますと、水路際に川浚えした後の土砂が積まれているのが目に入りました。

それで、その土砂の中に大量のタニシやシジミの貝殻が混じっていましたので、市街地を流れる水路にこれだけ沢山の貝が棲んでいるのか?と思い、ちょっと水路を辿ってみる事にしました。

最終的にこの水路は長瀬川と繋がっていたのですが、その取水口の手前に「信念橋」と刻まれた石橋の親柱が二基ありました。

信念橋が何処に架けられていたのか?詳しい事は分りせんでしたが、親柱には「澤之川」と小さく刻まれていました。

「澤之川」については「本町の道標」「新橋」でも記していますが、沢の川は八尾寺内町を流れる水路の事で、現在は暗渠となっている所もあります。

しかし、正確にこの水路が何処を流れているのかは把握していませんので、この水路が沢の川と確認はしておりません。

それで、中河内の市街地には現在も水路が流れている場所があり、私の暮らす東大阪では古箕輪周辺に水路が残っていますが、流れる水はお世辞にも綺麗とは言えず、一年を通して水の流れがある訳ではありません。

柏原もそうですが、八尾の市街地に現在も水路が流れているのを見ると「ちょっとええなぁ」と羨ましく思う時があります。

タニシやシジミがこれだけ大量に棲んでいると言う事は、ある程度(?)綺麗な水が流れている証でもあります。

ほんと、水の流れが涼しげに感じます。

信念橋の親柱1

信念橋の親柱2

信念橋の親柱3

信念橋の親柱4

八尾の水路1

八尾の水路2

八尾の水路3

八尾の水路4

小魚も泳いでいました(於 八尾市)
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2012
06.05

許麻橋の親柱

Category: 石橋
久宝寺寺内町に明治十一年(1878)の年号が刻まれた「金比羅燈籠」が建てられています。

今回はその燈籠の基壇に使用されている石材についてですが、これ実は橋の親柱が使用されています。

初めは全く気が付きませんでしたが、自宅でこの石碑の写真を見ていると、何か文字が刻まれている事に気が付きました。

後日、再び寺内町を訪れた際に確認しますと「許麻橋」と刻まれ、この基壇は橋の親柱と確認出来ました。

それで、親柱は四基使用され、燈籠も親柱も同時に保存する事が出来る良い知恵とでも言いましょうか、なかなかのアイデアであります。

しかし、この橋が何処に架けられていたのか?現在調査中です。

許麻橋の親柱1

許麻橋の親柱2

許麻橋の親柱3

許麻橋の親柱4

許麻橋の親柱5

お地蔵様のあるところに架かっていたのでしょう(於 八尾市)
Comment:4
2012
05.27

新橋

Category: 石橋
「八尾寺内町」の東側、東本町に「新橋」が架けられています。

橋にはアスファルトが敷かれていますが、現在の道路事情に合わせて改修されている様で、親柱には「新橋」「志んはし」あと小さく「澤之川」と刻まれています。

現在、沢の川は商店街では暗渠となっていますが、新橋の架かる場所は暗渠ではなく、護岸が整備されています。

それで、八尾の商店街(私が勝手に商店街の総称としてそう言っているのですが…)には足を運ぶ事が多いのですが、自宅から然程遠くない「瓢箪山の商店街」に比べると少々淋しい感じがします。

昔はさぞ賑わったと思いますが。

新橋1

新橋2

新橋3

新橋4

新橋5

新橋6

新橋7

沢の川は結構広い範囲で流れていたみたいです(於 八尾市)
Comment:0
2012
05.11

すじかい橋の親柱

Category: 石橋
足代南に「すぢかひはし」と刻まれた橋の親柱があります。

地蔵堂の横に親柱が一基保存されていますが、造立年代等の詳しい事は分りませんでした。

あと、この石橋が何処に架けられていたのかは不明ですが、もしかしたら地蔵堂をはすかいに通る道のどちらかに水路が流れていたのでしょうか?

それで、地蔵尊の写真を撮影している際、ふと隙間を見ると石材が置いてあり、よく見るとそれは石橋の親柱でした。

「すぢかひ」の由来は何でしょう?

《追記》
立てられていました。

すじかい橋の親柱1

すじかい橋の親柱2

すじかい橋の親柱3

すじかい橋の親柱4

やや小さめの親柱でした(於 東大阪市)
Comment:2
2012
04.07

新喜多橋の親柱

Category: 石橋
「新喜多橋」は暗越奈良街道が長瀬川を越える場所に架けられていた石橋です。

現在、その親柱が三基保存され「志紀多はし」「新㐂田橋」と刻まれています。

年号は確認出来ませんが、同じ書体の二基は江戸時代に伊勢参りが盛んだった頃のものと推定されているそうで、違う書体の一基はやや磨かれた石材が使用され、明治時代のものと推定されるそうです。

それで、この石橋は大和川付替え後、井路川(用水路)となった長瀬川に架けられていたものですが、この川には明治時代まで剣先船が運行され、この橋を下流から上流へ通る際、綱で引いて通したそうです。

あと、橋の袂には「ふじの茶屋」と呼ばれた茶店があったそうで、旅人の休憩場所となっていたそうです。

昭和三十三年に撮影された写真は、新喜多橋が架けられていた場所の少し上流に設置されている掲示板に掲載されていたものですが、よく見ますと橋の様なものが写っている様にも見えます。

この付近で撮影された写真なのかどうかは確認しておりませんが。

新喜多橋の親柱1

新喜多橋の親柱2

新喜多橋の親柱3

新喜多橋の親柱4

昔の長瀬川1

昔の長瀬川2

私は全部同じ石材に見えましたけど(於 東大阪市)
Comment:0
2012
04.01

福栄橋

Category: 石橋
「福栄橋」は福万寺の東「十三街道」が恩智川を渡る場所に架けられていました。

八尾市の設置した説明板によりますと、この石橋は明治九年(1876)に架けられたもので、後の昭和四十八年(1973)に恩智川改修に伴う工事で解体され、現在八尾市内の公園に保存されています。

それで、東大阪市にも同様にかつて恩智川に架けられていた「とくさ橋」が保存されていますが「福栄橋」の方が幅員が広いかと思います。

橋脚部分は横にした状態で保存され、他の石材も一緒に保存されていますが「大正四年 治三郎架之」と刻まれているものがありましたので、大正時代に架け直し、または改修等が行われたのでしょうか?

あと、説明板に当時の福栄橋の写真が掲載されていますが、改修前の恩智川はこんな感じだったんですね。

時代劇のロケにでも使えそうなシチュエーションです。

この写真の風景は現在の恩智川の風景と全くイメージが合いません。

同じ中河内地域でも、私の川の原風景は「第二寝屋川」「菱江川」「長瀬川」等のコンクリートで護岸されたものですので、同時期に同地域内にこんな川が流れていた事が不思議に思えます。

昭和40年代にはまだこんな石橋が恩智川に架かっていたんですね。

福栄橋1

福栄橋2

福栄橋3

福栄橋4

福栄橋5

福栄橋6

福栄橋7

福栄橋8

福栄橋9

福栄橋10

福栄橋11

福栄橋12

福栄橋13

建物が見えてないです(於 八尾市)
Comment:2
2012
03.05

信貴橋の石材

Category: 石橋
恩智川沿いに「信貴橋の石材」が保存されています。

詳しくは市の設置した説明板を御覧頂きたいと思いますが、石材には「信貴橋」と文化十三年(1816)の年号、あと石工の名が刻まれています。

それで、私はこの恩智川沿いの道をこれまで数えきれない程、自宅から柏原まで往復していますが、この橋の石材がこの場所に保存されていた事に全く気が付きませんでした。

確かに説明板には平成22年とありますので、この場所に保存されたのが2年前になります。

しかし、そう言えばこの石材のある場所だけ、他の場所には整備されていない歩道が整備されたので「何でやろ?」とは思っていましたが。

石材の保存場所に決まったので、周辺が整備されたんでしょうか?

信貴橋の石材1

信貴橋の石材2

信貴橋の石材3

信貴橋の石材4

信貴橋の石材5

信貴橋の石材6

信貴橋の石材7

信貴橋の石材8

信貴橋の石材9

他の部材は残っていないんでしょうか?(於 八尾市)
Comment:0
2012
02.12

西石切町の橋の石材

Category: 石橋
西石切町の民家脇に石橋の石材があります。

この場所の近く、植附村の外れにかつて水路が流れ、現在は埋立てられ道路となっていますが、この石橋はその水路に架けられていたそうです。

それで、この橋の石材の裏側の割面には石仏が刻まれ、以前はなかった掲示板には「お地蔵さま」と記されています。

手持ち資料で調べますと、石材の形状が砥石状である事から「砥石橋」と呼ばれているそうで、幼い子供を亡くした親が、けがれを清め、今度こそ丈夫な子供に生まれ変わってくる様にと念じ、いつも人に踏みつけられている石橋の裏の地蔵に祈願したと言われているそうです。

お花が供えられていますので、今もお参りされる方がいらっしゃるのでしょう。

いつも綺麗に清掃されています。

西石切町の橋の石材1

西石切町の橋の石材2

西石切町の橋の石材3

西石切町の橋の石材4

西石切町の橋の石材5

西石切町の橋の石材6

初めて見た時は何か分りませんでした(於 東大阪市)
Comment:0
2012
01.20

寿町の橋の石材(その1)

Category: 石橋
寿町に石橋の石材が残されています。

この石橋は年号のあるものとしては、東大阪市で最も古いものだそうです。

石橋には天保十四年(1843)の年号が刻まれていますが、詳しくは東大阪市の設置した説明板を御覧頂きたいと思います。

それで、この石橋の様に埋立て等で不要となり、石材の一部が保存されている事があります。

私もかつて実家の近くを流れていた「菱江川」に架けられていた、名も無いコンクリート製の小さな橋を時折思い出す事があります。

一部が残される事も無く、今は跡形も無くなってしまいましたが…

寿町の橋の石材1-1

寿町の橋の石材1-2

寿町の橋の石材1-3

寿町の橋の石材1-4

いつ頃まで使われていたのでしょうか?(於 東大阪市)
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2011
12.25

石橋(その7)

Category: 石橋
「豊浦川」に石橋が架けられています。

現在も使用されていますが、いつの時代ものかは分りません。

この石橋は20年程前、通りすがりに渡ったのですが、当時私は石造物に興味がある訳でもありませんでしたので「橋あるわ」程度にしか思いませんでした。

その後、石造物に関心を持つ様になり、この橋が石橋である事に気付きました。

それ以来、この石橋から豊浦川の流れを眺める事があります。

あと、上流にも石橋があり、こちらはコンクリートで補強(?)されています。

小さな石橋ですが、この地区の住民の皆さんにとって、かなり必要性の高い橋ではないかと思います。

山を流れる谷川ですので、平野部にある川と違い、転落しますと山の麓まで流されて行くかと思う程、急な斜面を流れています。

石橋18

石橋19

豊浦川1

豊浦川2

子供の頃以来、生駒山登山を再開して20年近くになります(於 東大阪市)
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2011
12.24

石橋(その6)

Category: 石橋
柏原市内を流れる平野川沿いに石橋が架けられています。

一つは他の地区でも見かける石橋ですが、橋脚が付けられていまして、もう一つの石橋は車が通れる程の幅のある橋で東大阪市にある「藤五郎橋」より少し小さいくらいでしょうか?

この橋の近くに重要文化財の商家があるので、他の橋より大き目の石橋が架けられたのかと推測しましたが、どうでしょうか?

あと以前「大和義擧天誅組遺蹟」の碑がある場所にも石橋がありましたが、残念ながら石橋の上からアスファルト舗装されてしまいました。

しかし、柏原を流れる平野川(了意川)沿いは、ほんと風情のある場所であります。

石橋15

石橋16

石橋17

でもこの辺りも徐々に変わってきてますが…(於 柏原市)
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2011
12.23

石橋(その5)

Category: 石橋
「日下川」の上流、日下町に石橋が架けられています。

二枚の石板を渡しただけの簡素なもので、御覧の通り現在は使用されていないと思います。

それで、この川にはホタルが生息しているそうで、一度見てみたいものです。

数年前から、日中は度々この石橋の横を通っていますが、夜は一度も訪れた事はありません(-_-;)

石橋5-1

石橋5-2

石橋5-3

石橋5-4

ほたるの里

川の中に「二匹のホタル」が置いてあります(於 東大阪市)
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2011
12.22

石橋(その4)

Category: 石橋
布市町を流れる「日下川」に石橋が架けられています。

いつの時代のものかは分りませんが、石板を数枚川に渡しただけのもので、現在も使用されています。

それで、数本の石橋が同じ地区に残っている事は珍しいかと思います。

あと、他地区の石橋同様、車が通れる様に拡張している石橋もあります。

石橋4-1

石橋4-2

石橋4-3

石橋4-4

石橋4-5

四つの石橋がありました(於 東大阪市)
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2011
12.21

太閤橋

Category: 石橋
瓢箪山の商店街(東高野街道)に面して建つ「瓢箪山稲荷神社」の石鳥居をくぐると「太閤橋」が架けられています。

太閤橋の由来等の詳細は今回省かせて頂きますが、豊臣秀吉の大坂城築城の際、巽の方三里の外に稲荷神社を勧請した事に因み名付けられたそうです。

それで、この石橋は東高野街道に沿って流れる、現在は暗渠となっている「御神田川」に架けられたもので、大正十二年(1923)に神戸市の方が寄進されています。

あと、幕末の慶応四年(1868)に描かれた絵図を確認しますと、現在鳥居の建つ場所に橋が描かれていますが、絵図には燈籠が描かれています。

石鳥居は昭和二年(1927)の建立ですので、当然描かれていませんが、燈籠は嘉永五年(1852)の建立で絵図に描かれており、その一対の燈籠の間に橋が架けれれているのが分かります。

絵図には太閤橋の南側、当時存在した「一里塚」との間にも橋が描かれていますが、木橋もしくは土橋だったのかも知れません(?)

それで、私のいとこの家がすぐ近くにありましたので、この界隈は幼少の頃から訪れているのですが、ここに橋があった事は全く記憶にありませんでした。

私が記憶しているのは「おもちゃ屋さん」があった場所と、大きな池に金魚(錦鯉?)が泳いでいた事です。

少し南にヘラブナ(河内ブナ)の養魚場がありますが、その養魚場が記憶していた池なんでしょうか?

玩具屋さんは、当時流行していた「変身サイボーグ1号」を祖母に買って貰った店でした。

太閤橋とは全く関係ない、私の昭和40年から50年代の瓢箪山界隈の思い出でしたが…

太閤橋1

太閤橋2

太閤橋3

太閤橋4

太閤橋5

瓢箪山の商店街は当時と同じく今も賑やかです(於 東大阪市)
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