Category石橋 1/2

永久橋の親柱

先週に引き続き、今週も石橋の親柱を取り上げたいと思いますが、今回は平野川に架けられていたと思われる「永久橋」の親柱です。御覧の様にブロック塀に囲まれて一基が保存され、正面に「六反 永久橋」と刻まれ、文化八年(1811)の年号があります。それと、世話人が連名で刻まれていますが、太子堂村、川邉村、六反等の村名が見られます。それで、この親柱は「六反」と刻まれている事から、平野区にあるものと思い込んでいた...

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好美橋の親柱

串川沿いに「好美橋」の親柱が残されています。親柱は二基残され、それぞれに「好美橋」「与しみ橋」と刻まれていますが、年号等は確認出来ません。それで、一基には橋名が漢字、一基にはひらがなで表示され、これは現在架橋されている橋にも同様の表示がされている事が多いのですが、ひらがな表示の親柱には変体仮名が使用されているのが、古い時代の石橋の特徴と言えるかと思います。あと、橋の袂に保存されていますので、この橋...

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桜橋の親柱

「長瀬川」にはかつて架けられていた石橋の親柱が残されています。八尾市内を流れる長瀬川に「桜橋」が架けられていますが、その橋詰に「櫻橋」の親柱があります。詳しい事は全く分かりませんでしたが、穴があけられ金属製の欄干の一部が残っていましたので、現在の橋に架け替えられるまで、石橋を改造し金属製の欄干を取付けて使用していたのかも知れません。しかし、最初からこの状態だったかも知れませんが?それで、この桜橋以...

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寿町の橋の石材(その2)

寿町の道端に橋の石材がありました。この石材は以前取り上げました「寿町の橋の石材」のすぐ近くにあり、石材のある地蔵堂から見えています。石材には「中小路」と刻まれ、詳しい事は分かりませんでしたが、この石材は大きさや材質(あくまでも私の見た目ですが…)等が地蔵堂前にある石材と非常に良く似ています。おそらく、同じ石橋に使用されていた石材かと思われますが、確認はしておりせん。多分同じ石橋に使われていたのでし...

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矢矧橋の親柱

八尾市の公共施設の前庭に保存されている道標と並んで「矢矧橋」の親柱が一基保存されています。この場所は「八尾街道」と「恩智街道」とが公差する場所ですので、街道歩きされている方は御存知の方も多いかと思います。それで、いつの時代に架けられた石橋なのか?その詳しい事は分かりませんでしたが、それ以上に何処に架けられていたのか?その件についても気になるところです。しかし、手持ち資料にこの石橋についても記述が見...

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金岡橋の親柱

長瀬川に架かる「金岡橋」の袂に親柱が残されています。石造の親柱は二基残されており、それぞれに「金岡橋」「かなをかばし」と刻まれています。年号等は確認出来ませんでしたが、大蓮村と友井村を通ずる道が長瀬川と交差する場所に金岡橋が架けられ、明治十八年の仮製地図に金岡ではこの金岡橋だけが記されているとの事です。それで、金岡は「村」ではなく、御存知の様に旧長瀬川床が新田開発された「金岡新田」と呼ばれた開墾地...

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しんばし

本町に「しんはし」と刻まれた石橋の親柱があります。おそらく「新橋」であろうかと思われ、年号等は確認出来ませんでしたので、いつの時代に架けられたものなのか?詳しい事は分かりませんでしたが、八尾寺内町の環濠に架けられた石橋だそうで、手摺を差し込む為の枘穴があけられています。それで、親柱だけがこの場所に残されているのだと思いましたが、すぐそばに石橋も残っていましたので、今回「親柱」ではなく「石橋」として...

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一条橋の親柱

近鉄布施駅のすぐ近く、足代に「一条橋」の親柱があります。親柱は一基のみ残され、表面に「いちでうはし」と刻まれ、裏面には欄干をはめ込む柄穴があけられています。年号等は確認出来ませんでしたが、周旋人(世話人)として刻まれている四名の方の名前等から明治時代のものと推測されているそうです。それで一応、布施は東大阪一の繁華街なんですが、この辺りに川(水路)が流れていたと言うのは私、感覚的にあまりピンときませ...

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東石切町の石橋の石材

生駒山を流れる谷川、音川沿いに石橋の石材があります。この石材を初めて見た際「大きな石板が置いてあるなぁ」と不思議に思いましたが、すぐそばに橋が架かっていますので、石橋の石材だと気が付きました。実は、この石材が実際に橋に使用されていたのかは確認していないのですが、ちょうど川を跨ぐ事の出来る長さと、三本ありましたのでおそらく間違いないでしょう(?)ですので、いつの時代のものなのか?詳しい事は分かりませ...

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山畑川橋の親柱

旧大阪外環状線が山畑川を越える場所に「山畑川橋」の親柱があります。親柱が石造ですので、かつてこの場所に石橋が架けれていたと思われますが、現在は旧外環状線の一部の様になってしまっていますので、橋を渡る感じは殆どありません。私、訳あって(?)この場所に来る事が多いのですが「言われてみればこれ橋やな?」といつも思います。あと、この親柱は珍しい事に二面に橋名が刻まれています。普通、一つの橋に四基ある親柱で...

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成思橋

本町を流れる水路に「成思橋」が架けられています。これは以前「成思橋の親柱」として取り上げましたが、今回改めて「成思橋」として取り上げたいと思います。私の中河内探索は「一回行って終わり」という事はあまりありませんで、その後も定期的に訪れる事が多いのですが、今月久しぶりにこの親柱の前を通ると、そばに建っていた民家が取り壊され、更地となっていました。それで、よく見ると橋桁の石材がこの小さな水路に架けられ...

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永楽橋の親柱

日下新池の近く、日下町に「永楽橋」の親柱があります。生駒山から流れ下る谷川の「日下川」沿いに親柱一基が保存されています。日下川は小さな川でそれ程川幅もないのですが、この場所に石板を渡しただけの橋ではなく、親柱のある石橋が架けられていたその理由は分かりませんでした。あと、年号等は確認出来ませんでしたが、江戸時代後半のものでしょうか?日下川の上には歩道が設けられていますので、川の上を歩く事になります。...

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永代橋

大阪中央環状線の歩行者・自転車専用道から少し入った場所に「永代橋」があります。たまたま自転車で通りがかった際、一瞬道標が見えたので引き返して行ってみると、それは道標ではなく石橋の親柱でした。「永代橋」と深く彫られたその親柱には、文化三年(1806)の年号と世話人の名が刻まれていました。世話人には「龜井」「川邊」「長原」と三つの村人の名が刻まれ、あと「願主 長原村 妙光」と刻まれています。この石橋の...

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利生橋の親柱

長瀬川が近鉄奈良線と交差する場所に「利生橋」の親柱があります。この場所では長瀬川が暗渠となっていますので、一見普通の道路に見えますが、親柱が残されていますので、かつてこの場所に橋が架けられていた事が分ります。それで、以前は三基の親柱が残っていたそうですが、現在は一基のみが残されています。あと、石材の違いなのか?普通見かけます親柱とは違い、黄色の様な色をしていまして、ブロンズ製の銘板が埋め込まれてい...

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信念橋の親柱

春になると水路等で川浚えしているのを見かける事があります。そんなある春の日、八尾の市街地を通っていますと、水路際に川浚えした後の土砂が積まれているのが目に入りました。それで、その土砂の中に大量のタニシやシジミの貝殻が混じっていましたので、市街地を流れる水路にこれだけ沢山の貝が棲んでいるのか?と思い、ちょっと水路を辿ってみる事にしました。最終的にこの水路は長瀬川と繋がっていたのですが、その取水口の手...

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許麻橋の親柱

久宝寺寺内町に明治十一年(1878)の年号が刻まれた「金比羅燈籠」が建てられています。今回はその燈籠の基壇に使用されている石材についてですが、これ実は橋の親柱が使用されています。初めは全く気が付きませんでしたが、自宅でこの石碑の写真を見ていると、何か文字が刻まれている事に気が付きました。後日、再び寺内町を訪れた際に確認しますと「許麻橋」と刻まれ、この基壇は橋の親柱と確認出来ました。それで、親柱は四...

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新橋

「八尾寺内町」の東側、東本町に「新橋」が架けられています。橋にはアスファルトが敷かれていますが、現在の道路事情に合わせて改修されている様で、親柱には「新橋」「志んはし」あと小さく「澤之川」と刻まれています。現在、沢の川は商店街では暗渠となっていますが、新橋の架かる場所は暗渠ではなく、護岸が整備されています。それで、八尾の商店街(私が勝手に商店街の総称としてそう言っているのですが…)には足を運ぶ事が...

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すじかい橋の親柱

足代南に「すぢかひはし」と刻まれた橋の親柱があります。地蔵堂の横に親柱が一基保存されていますが、造立年代等の詳しい事は分りませんでした。あと、この石橋が何処に架けられていたのかは不明ですが、もしかしたら地蔵堂をはすかいに通る道のどちらかに水路が流れていたのでしょうか?それで、地蔵尊の写真を撮影している際、ふと隙間を見ると石材が置いてあり、よく見るとそれは石橋の親柱でした。「すぢかひ」の由来は何でし...

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新喜多橋の親柱

「新喜多橋」は暗越奈良街道が長瀬川を越える場所に架けられていた石橋です。現在、その親柱が三基保存され「志紀多はし」「新㐂田橋」と刻まれています。年号は確認出来ませんが、同じ書体の二基は江戸時代に伊勢参りが盛んだった頃のものと推定されているそうで、違う書体の一基はやや磨かれた石材が使用され、明治時代のものと推定されるそうです。それで、この石橋は大和川付替え後、井路川(用水路)となった長瀬川に架けられ...

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福栄橋

「福栄橋」は福万寺の東「十三街道」が恩智川を渡る場所に架けられていました。八尾市の設置した説明板によりますと、この石橋は明治九年(1876)に架けられたもので、その後昭和四十八年(1973)の恩智川改修に伴う工事で解体され、現在八尾市内の公園に保存されています。それで、東大阪市にも同様にかつて恩智川に架けられていた「とくさ橋」が保存されていますが「福栄橋」の方が幅員が広いかと思います。橋脚部分は横...

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信貴橋の石材

恩智川沿いに「信貴橋の石材」が保存されています。詳しくは市の設置した説明板を御覧頂きたいと思いますが、保存されている石材一本には「信貴橋」と年号、あと石工の名が刻まれています。それで、私はこの恩智川沿いの道をこれまで数えきれない程、自宅と柏原まで往復していますが、この橋の石材がこの場所に保存されているのはこれまで全く気が付きませんでした。確かに説明板には平成22年とありますので、この場所に保存され...

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西石切町の橋の石材

西石切町の民家脇に石橋の石材があります。この場所の近く、植附村の外れにかつて水路が流れ、現在は埋立てられ道路となっていますが、この石橋はその水路に架けられていたそうです。それで、この橋の石材の裏側の割面には石仏が刻まれ、以前はなかった掲示板には「お地蔵さま」と記されています。手持ち資料で調べますと、石材の形状が砥石状である事から「砥石橋」と呼ばれているそうで、幼い子供を亡くした親が、けがれを清め、...

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寿町の橋の石材(その1)

寿町に石橋の石材が残されています。この石橋は年号のあるものとしては東大阪市で最古のものだそうです。石橋には天保十四年(1843)の年号が刻まれていますが、詳しくは東大阪市の設置した説明板を御覧頂きたいと思います。ところで、この様に橋の一部(石材)を保存するのは、慣れ親しんだ石橋が無くなってしまう事が、名残惜しいとの思いからでしょうか?私もかつて実家の近くを流れていた「菱江川」に架けられていた、名も...

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石橋(その7)

「豊浦川」に石橋が架けられています。現在も使用されていますが、いつの時代ものかは分りません。この石橋は20年程前、通りすがりに渡ったのですが、当時私は石造物に興味がある訳でもありませんでしたので「橋あるわ」程度にしか思いませんでした。その後、石造物に関心を持つ様になり、この橋が石橋である事に気付きました。それ以来、この石橋から豊浦川の流れを眺める事があります。あと、上流にも石橋があり、こちらはコン...

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石橋(その6)

柏原市内を流れる平野川沿いに石橋が架けられています。一つは他の地区でも見かける石橋ですが、橋脚が付けられていまして、もう一つの石橋は車が通れる程の幅のある橋で東大阪市にある「藤五郎橋」より少し小さいくらいでしょうか?この橋の近くに重要文化財の商家があるので、他の橋より大き目の石橋が架けられたのかと推測しましたが、どうでしょうか?あと以前「大和義擧天誅組遺蹟」の碑がある場所にも石橋がありましたが、残...

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石橋(その5)

「日下川」の上流、日下町に石橋が架けられています。二枚の石板を渡しただけの簡素なもので、御覧の通り現在は使用されていないと思います。それで、この川にはホタルが生息しているそうで、一度見てみたいものです。数年前から、日中は度々この石橋の横を通っていますが、夜は一度も訪れた事はありません(-_-;)川の中に「二匹のホタル」が置いてあります(於 東大阪市)...

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石橋(その4)

布市町を流れる「日下川」に石橋が架けられています。いつの時代のものかは分りませんが、石板を数枚川に渡しただけのもので、現在も使用されています。それで、数本の石橋が同じ地区に残っている事は珍しいかと思います。あと、他地区の石橋同様、車が通れる様に拡張している石橋もあります。四つの石橋がありました(於 東大阪市)...

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太閤橋

瓢箪山の商店街(東高野街道)に面して建つ「瓢箪山稲荷神社」の石鳥居をくぐると「太閤橋」が架けられています。太閤橋の由来等の詳細は今回省かせて頂きますが、豊臣秀吉の大坂城築城の際、巽の方三里の外に稲荷神社を勧請した事に因み名付けられたそうです。それで、この石橋は東高野街道に沿って流れる、現在は暗渠となっている「御神田川」に架けられたもので、大正十二年(1923)に神戸市の方が寄進されています。あと、...

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石橋(その3)

大東市にある「平野屋新田会所跡」のすぐ西側を「銭屋川」が南北に流れています。この川を南に行くと、東から水路が合流していますが、その場所に石橋が架けられています。いつの時代のものかは分りませんし、この石橋を渡る人も殆んどいない筈ですが、何故か撤去されずにそのまま残されています。しかし、銭屋川か水路が埋立てられる事になりますと、おそらく撤去される事になると思います。その昔は川岸を行き来する人達が渡った...

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大師橋

額田駅の南、立花町に額田谷(長尾谷)を流れる谷川に石橋が架けられています。この石橋は「大師橋」と呼ばれ、文久四年(1864)の年号と、額田村の村人よって架けられた事が刻まれています。その後、昭和二年(1927)に拡張され、低い欄干が設置されていますが、橋名の由来等の詳しい事は分りません。それで、私はこれまで幾度もこの橋を渡っていますが、ほんと小さな石橋です。しかし、小さいながら親柱もあり、立派に造...

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