2017
10.09

龍田山伝承の地

Category: 史跡
雁多尾畑に「龍田山伝承の地」の碑が建てられています。

この碑の建つ場所は「御座峰」の標石が建つ場所でもあるのですが、現在は神域につき立入禁止の立札が建てられています。

この碑は、平成二十八年(2016)に、三郷町制施行五十周年記念として「龍田大社」と三郷町観光協会によって建てられたものですが、何故か奈良県の三郷町によって建てられています。

それで、私が今回この場所を訪れた際、NPO法人である 「奈良 龍田・三室山 桜の会」の理事長さんが、草刈りをされていました。

私がこの場所を訪れた旨をお話しますと、当地に関する御教示をして頂き、あと資料と名刺も頂いたのですが、柏原市ではなく何故三郷町が碑を建立したのか?その理由についても御教示頂きました。

草刈り等の忙しい作業の間を割いて、長い時間御教示して頂きましたが、その内容は今回省略させて頂きます(-.-)

詳しくはインターネットにて、奈良 龍田・三室山 桜の会のサイト等を御覧頂きたいと思います。

龍田山伝承の地1

龍田山伝承の地2

龍田山伝承の地3

かなり詳しいお話しを伺いました(於 柏原市)
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2016
07.31

抜塚

Category: 史跡
大窪にある「来迎寺」の墓地内に「抜塚」があります。

御覧の通り、本来は古墳だそうで「大窪・山畑7号墳」と名付けられていますが、完全な状態ではありませんで、通り抜ける事が出来る様になっています。

それが、抜塚の名の由来だそうですが、寺地にあるので通り抜ける事で御利益がある等、地元信仰の対象となっているのかと思い調べてみましたが、詳しい事は分りませんでした。

それで、私のブログでは古墳や遺跡を取り上げる事は殆んどありませんが、その理由はそれ程関心が無いとでも言いましょうか(笑)やはり石造物を主に記事を更新しています。

一応、資料の方は収集しておりますが、実際に見学しに行く事は稀で、殆んど「何かのついで」状態となっています。

しかし、この抜塚は近くを通る事が多いので、その度に見学しております。

これからぼちぼちと、古墳も見にゆく事にしていますが…

因みに、どこかの記事にも記したと思いますが、私が生まれて初めて見た古墳は、小学校の遠足で訪れた山畑古墳群の古墳でした。

抜塚1

抜塚2

抜塚3

抜塚4

抜塚5

抜塚6

抜塚7

抜塚8

抜塚9

抜塚10

抜塚11

ここは何かよう行きます(於 八尾市)
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2015
11.22

長栄寺

Category: 史跡
高井田元町にある「長栄寺」には度々お参りに訪れていますが、長栄寺の境内は大阪府の文化財保護条例により史跡に指定されています。

詳しくは境内に説明板がありますので、そちらを御覧頂きたいと思います。

それで、境内には多くの石造物がありますが、今回その説明は省略し写真での御紹介とさせて頂きますが、以前取り上げました「後生車」は、ここ長栄寺の境内にあります。

あと、境内には「禅那台」があり、こちらも説明板を御覧頂きたいと思いますが、生駒山中にある「長尾の滝」の上流にはかつて慈雲尊者が建立した「雙龍庵」があり、約十五年間隠棲していた事が知られています。

雙龍庵は現在廃滅していますが、その遺構(礎石)は残っているそうで、雙龍庵の一部であった禅那台が移築修復され、境内と同じく大阪府の文化財保護条例により「建造物」の文化財指定を受けています。

それで、雙龍庵跡には現在「天龍院」があり、境内はハイキングコースの一部となっていまして、私もこれまで度々訪れていますが、この場所には「慈雲尊者住山雙龍庵遺址」と刻まれた石碑と「座禅石」があります。

あと「善根寺春日神社」「大津神社」の扁額は慈雲尊者の筆によるものだそうで、それと最近気が付いたのですが、禅那台の前にある標石に「當道 北一丁 長栄寺内」とありましたので、これは以前案内の為に道標として建てられたものかと思われます。

長栄寺1

長栄寺2

長栄寺3

長栄寺4

長栄寺5

長栄寺6

長栄寺7

長栄寺8

長栄寺9

長栄寺10

長栄寺11

長栄寺12

長栄寺13

長栄寺14

禅那台1

禅那台2

禅那台3

禅那台4

禅那台5

禅那台6

禅那台7

禅那台8

禅那台はかなり修復されているみたいです(於 東大阪市)
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2015
05.10

慈雲尊者座禅石

Category: 史跡
額田谷の中腹に「慈雲尊者座禅石」があります。

この場所には「天龍院」があり、寺地内には東大阪市の史跡名勝指定を受けている「長尾の滝」があります。

この座禅石は高井田にある「長栄寺」を再興させた「慈雲尊者」が、この地に「雙龍庵」を建て、十五間隠棲し修行を行った所で、その傍らには昭和二十五年(1950)に建てられた「慈雲尊者住山雙龍庵遺址」と刻まれた石碑が建てられています。

尚、雙龍庵の遺構である「禅那台」は現在、長栄寺の境内に移設されています。

額田谷は私の生駒山歩きの下山ルートで度々歩いておりますが、普段この座禅石のある場所には囲いがあり、間近で見る事は出来ませんでした。

ですが、今年いつもの様に下って来ますと、この場所を清掃されている方がいらっしゃたので、見学させて頂きたい旨を伝えますと、快く承諾して下さいまして、いつも囲い越しで見るより、かなり大きな石と言うか岩でして、幅2.4m、長さ4.3mあるそうです。

それで、摂河泉ハイキング道から分岐して、水の涸れた額田谷を下りますと石段があり、その下にこの座禅石が見えます。

私いつも場所まで来ると「下りてきたなぁ」って感じでして、天龍院より下は簡易舗装の道となっていますが、これが結構きついものがありまして、やはり舗装路に比べ未舗装の山道は足に負担が少ないと言う事が良く分かります。

暗峠の下りも同じで、足の何処かがいつも痛くなります。

私個人的には上りより、下りの方が少々苦手かも知れません。

慈雲尊者座禅石1

慈雲尊者座禅石2

慈雲尊者座禅石3

慈雲尊者座禅石4

慈雲尊者座禅石5

慈雲尊者座禅石6

慈雲尊者座禅石7

慈雲尊者座禅石8

慈雲尊者座禅石9

慈雲尊者座禅石10

「慈雲尊者旧跡」東大阪文化財保護条例により史跡名勝に指定(於 東大阪市)
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2014
06.21

鬼虎川遺跡

Category: 史跡
「鬼虎川遺跡」は大阪外環状線と中央大通りが公差する付近に広がる、縄文時代から江戸時代にわたる複合遺跡で、特に弥生時代中期の大集落(拠点集落)としては近畿地方有数の集落遺跡として知られています。

詳しくはインターネット、または発掘調査概要の刊行物等が多くありますので、図書館等で閲覧出来るかと思います。

それで、ここでは殆ど取り上げる事の少ない「遺跡」ですが、何故今回取り上げたかと申しますと、実は私先週末から今週の初めまで入院しておりました(…)

私が入院していたその病院が鬼虎川遺跡の中心部にあるそうで、町名である「弥生町」もそれに因んだものだと言うのも知られた話です(同じ理由で池島にも「弥生橋」があります)

院内には大きな説明板と出土品の一部が展示されていまして、自由に見学出来る様になっています。

私はこれまで外来受診していましたが、この展示の事は全く知りませんで、今回入院して初めて展示がある事を知りました(展示場所は少々分かり難いかと?)

あと、出土品の一部は大阪府の文化財保護条例で考古資料に指定されていまして、郷土博物館等でも保管されているそうです。

それで、嬉しい事(?)に来月も入院予定ですので、また出土品を見る機会に恵まれまして(?)その際は更にじっくりと見てみようかと思っています(笑)

尚、写真はスマホで撮影したものですので、いつも掲載しております写真より「横長」になっております。

鬼虎川遺跡1

鬼虎川遺跡2

鬼虎川遺跡3

鬼虎川遺跡4

鬼虎川遺跡5

池島弥生橋

入院中も「郷土を見にゆく」です(於 東大阪市)
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2013
12.12

生駒山人・貞靖森先生墓

Category: 史跡
生駒山の「来照山」と呼ばれる場所に「生駒山人・貞靖森先生墓」があります。

ここは森家の墓地となっており、入り口階段脇に市の設置した説明板がありますので、詳しくはそちらを見て頂きたいと思いますが、ごく簡単に説明しますと「生駒山人」は正徳二年(1712)に日下村で生まれた江戸時代の漢詩人で本名を森文雄と言い、宝暦二年(1752)に四十一歳の若さで亡くなったのだそうです。

その生駒山人の墓に並んで、父の「森貞靖」と母の佳世(静室太孺人墓)があり、母佳代は足立家出身の方だそうです。

それで生駒山人と言いますと、ひとつ思い出す事があるのですが、河内名所図会に「稲田桃林」が紹介されています。

かつて、旧菱江川周辺に広がっていた稲田桃林は私の生まれ育った場所で、河内名所図会には「まるで周辺の景色が中国の武陵渓の桃林に迷い込んだような気がするほど…」と表現した生駒山人の漢詩が添えられています。

現在、桃林は消滅してしまいましたが、私の通っていた小学校のそばを流れる第二寝屋川の堤防で「稲田桃」が育てられています。

生駒山人・貞靖森先生墓1

生駒山人・貞靖森先生墓2

生駒山人・貞靖森先生墓3

生駒山人・貞靖森先生墓4

生駒山人・貞靖森先生墓5

生駒山人・貞靖森先生墓6

生駒山人・貞靖森先生墓7

江戸時代に文雄って名の人がいたんですね(於 東大阪市)
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2013
11.03

山畑古墳群

Category: 史跡
私、これまで古墳についてはそれ程興味がありませんで、その時代も自分の興味のある時代ではありませんでしたので、あえて休日に古墳を見に行くと言う事もありませんでした。

ですので、いつも通りがかりに古墳があっても「ああ、古墳あるなぁ」って感じでほぼ素通りしていました。

しかし、最近古墳を「石造物」と捉えてみると、重機など無い時代に「こんな大きい石どうやって運んだんやろか?」「ほんま上手い事石積んどんなぁ」と思う様になってきました。

東大阪、八尾、柏原で山歩きされる方なら良く御存知かと思いますが、ほんとやたらめったら古墳があると思う程、その数はかなりのものだと思います。

それで、東大阪市立郷土博物館周辺に「山畑古墳群」があります。

詳しくは説明板を見て頂きたいと思いますが、その博物館の前に綺麗に整備された「山畑22号墳」がありますが、昔の写真を見ると草ぼうぼうの小山と言う感じです。

山畑古墳1

山畑古墳2

山畑古墳3

山畑古墳4

山畑古墳5

山畑古墳6

山畑古墳7

山畑古墳8

こちらも説明板がありますので、詳しくはそちらを見て頂きたいと思いますが、あとその周辺には墳丘の無い古墳もあり、自由に見学出来る様になっています。

それで、山畑古墳群は65号墳まであるそうですが、郷土博物館の南側を通る私の定番コースでもある「客坊谷」の道を登って行くと「山畑21号墳」があり、その少し先の道沿いに「山畑20号墳」があります。

実はこの山畑20号墳、私が生まれて初めて中に入った古墳でして、それは小学校の遠足でここを訪れた時の事でした。

その際、確か瓢箪山駅から徒歩でここまで来たと思いますが、途中「瓢箪山稲荷神社」にも立ち寄って「この神社は瓢箪の形をした古墳の上にある」と教わりました(今もちゃんと覚えています)

最近、古墳があると今までの様に素通りせずに、お決まりの「中を覗いて」から写真撮影し、帰宅後手持ち資料で調べる様になりました。

一応、資料は揃えているんですが…

山畑古墳9

山畑古墳10

多くの古墳が開墾等で破壊されたそうです(於 東大阪市)
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2013
07.27

十三塚

Category: 史跡
私以前「十三塚」は八尾市にあると思っていましたが、現地にある説明板はお隣の奈良県平群町の設置したものとなっています。

「十三峠」や「水呑みさん」は、私達大阪に住む者にとってもお馴染ですので、今回取り上げさせて頂く事にしました。

詳しくは説明板を見て頂く事にしまして、補足的に少々説明しますと、十三塚は「大塚」と呼ばれる中央の塚の両側に六個の小さな塚が並んでおり、大塚の前には上部に石仏が彫られた嘉永三年(1850)に建てられた石碑があります。

それで、私が初めてこの場所に来た時はそれ程、地元の歴史に興味がなかったのでどれが十三塚なのかよく分かりませんでしたが、その時は夏だったので草木が生い茂っていたからだったと思います。

しかし、歴史に関係なく普通に十三峠へは山歩きに来るのですが、私の今のスタイルである「自宅から徒歩または自転車で行って帰って来る」と言う「歩き」の限界がこの辺りだと思っています(平地だともっと距離は稼げますが…)

いつも十三峠から生駒縦走路で北へ行き「鳴川谷」や「客坊谷」で下ってきますが、以前真夏にこのルートを歩いた時に軽い脱水症状を起こしてしまい「鐘の鳴る丘」で二時間ほどぶっ倒れてしまった事がありました。

それ以来、夏に山歩きをしなくなりましたが、実は今月十数年ぶりにこの季節に山歩き(暗峠まで)をしてみましたが、やはりぶっ倒れそうになりました(笑)

しかし、いつも言っておりますが、装備と言うかウェアーから靴まで昔と比べると格段に進歩していますので、そのおかげでぶっ倒れずにすんだとつくづく思います。

いつもの様に話がそれてしまいましたが、あと十三峠には石仏や道標等の石造物がありますが、こちらの方は説明を省略させて頂きます。

十三塚1

十三塚2

十三塚3

十三塚4

十三塚5

十三塚6

十三塚7

十三塚8


十三塚9

十三塚10

十三塚11

十三峠の石仏1

十三峠の石碑1

十三峠の道標1

十三峠の説明板1

神立の茶屋辻までは毎月行ってます(於 十三峠)
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2013
06.03

経塚

Category: 史跡
「経塚」は生駒山の中腹にある「花草山古墳群」の中にある古墳の一基(花草山15号墳)で「経塚古墳」とも呼ばれています。

この経塚は横穴式石室の古墳で墳丘も残っており、その石室を利用し経塚としてまつられているものです。

石室の前には祠堂が建立され、石室内の床中央に置かれた一枚石のその上に台座を据え、その上に石塔が建てられています。

石塔には宝暦十三年(1763)の年号があり「如来蔵 書寫願主沙門實通無恭建」と刻まれています。

それで、石塔の左右に石を積んで仕切り、その仕切られた石塔の奥には一つ一つに墨書きされた石が積まれ、左右の壁面にも経文または真言が墨書きされているのだそうです。

すなわち石塔の奥、仕切りの内側が経塚で、経文の書かれた石が包蔵されているこの場所が「如来蔵」となるのだそうです。

あと、近くには「白永龍王 白姫龍王」がまつられている祠があり、その他に「正常大神」と大正十四年(1925)に建てられた「楠正行公之碑」があります。

この古墳の石室を利用した経塚は珍しいものだそうで、当時の民間信仰を知る事の出来る貴重なものと言えます。

東大阪市文化財保護条例により、史跡に指定されています。

経塚1

経塚2

経塚3

経塚4

経塚5

経塚6

経塚7

白永・白姫龍王1

白永・白姫龍王2

楠正行公之碑1

楠正行公之碑2

正常大神1

如来蔵の中は見る事が出来ませんでした(於 東大阪市)
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2013
02.02

心合寺山古墳

Category: 史跡
私のブログでは、古墳やその時代のものを取り上げる事が少ないのですが、今回八尾にある「心合寺山古墳」を取り上げたいと思います。

心合寺山古墳は中河内最大の環濠式前方後円墳であり、八尾市内で最大の古墳でもあります。

詳しくは市の設置した説明板がありますので、そちらを見て頂きたいと思います。

私も詳しくこの古墳の事は知らなかったので手持ち資料で調べてみますと、昭和41年(1966)に国の史跡に指定され、この場所は国有地だそうです。

あと「心合寺山」の由来は、この古墳の西側畠地が奈良時代前期から平安時代まで存在した、広隆寺別院記に見える河内の秦寺である「秦興寺」の寺域にあたり、その寺名の訛音から来たものだそうです。

それでこの古墳はかなり以前、地元の歴史に殆ど興味の無い頃から知っていました。

現在は公園の様に整備され、古墳に上れる様になりまして、そこからの眺めはなかなか良いものがあります。

説明板に整備前の写真が掲載されていますが、その当時私は釣りが好きなのでここへ時折釣りに来ていました。

今は釣り禁止となっていますが、当時は割と自由に釣りをする事が出来て、歴史の事には殆ど興味の無かった私は周濠を池と思っていました。

その後、周濠で釣りをする事はなくなりましたが、最近は八尾東部を探索する際には先ずここへ来ます。

「水呑みさん」へ行く時にも必ずここを通って、十三峠へと向かいます。

私には馴染みの古墳(?)と言えます。

心合寺山古墳1

心合寺山古墳2

心合寺山古墳3

心合寺山古墳4

心合寺山古墳5

心合寺山古墳6

心合寺山古墳7

心合寺山古墳8

心合寺山古墳9

心合寺山古墳10

心合寺山古墳11

心合寺山古墳12

心合寺山古墳13

心合寺山古墳14

心合寺山古墳15

心合寺山古墳16

心合寺山古墳17

心合寺山古墳18

心合寺山古墳19

ここは釣り場で知り合った中学生に教えてもらいました(於 八尾市)
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2012
10.12

環山楼

Category: 史跡
「環山楼」は江戸時代中期、八尾の豪商であった「石田利清」の設けた学舎(郷塾)で、河内の中心地である八尾にあった唯一の郷塾でした。

享保十二年(1723)京都堀川塾の儒学者「伊藤東涯」が、平野郷の町人によって開かれた「含翠堂」に遊説に来た際、石田家へ招かれて別荘で講義した後、小楼に登り生駒、高安、金剛山までの山々が連なっている風景を見て「環山楼」と命名したそうです。

「環山楼」は創建時、旧八尾町の通称「産屋」と呼ばれる場所にあったそうで、その後昭和二十四年(1949)に八尾税務署建設の為に移転、その後市役所前の道路整備により市役所正門前へ、更に昭和四十四年(1969)に市役所庁舎増築により、八尾小学校敷地内へ移築されました。

しかしその後、昭和五十六年(1981)にプール建設による、度重なる移転問題が起きた時、旧朽化と建設資金の面から、取り壊しか保存するかとなった際、河内唯一の郷塾である事が分かり、移築保存される事になったそうです。

その後、全面解体して学術調査した上で、北へ約10メートル移動させ、昭和五十七年(1982)に復元工事が完了したそうです。

その際、原形材を45%使用して、昔のイメージを保ったそうです。

とまあ、調べるとこの様な経緯があった訳ですが、以前から私良くこの前を通っていましたが、最初何なのか良く知りませんでした。

どちらかと言うと、後ろの鉄筋三階建ての校舎の方が気になっていたんですが、実は私が初めて学んだ鉄筋校舎が三階建てでした。

小学校入学時は木造校舎(笑)でしたが、すぐプレハブの仮校舎となり、その後鉄筋三階建ての校舎で学ぶ様になりました。

それで、調べた訳ではありませんけど、建築年代にもよるかも知れませんが、小学校の校舎は三階建てが多い様な気がします(?)

私の通っていた小学校は140年の歴史があり、現在取り壊されましたが、かつて鉄筋二階建ての校舎もありました。

やはり、私は鉄筋三階建ての校舎の方が身近な感じがするのですが、現在は三階建て以上の校舎の方が多いのかも知れません(?)

あと建物は現存しませんが、同じく八尾市内には「麟角堂創建遺址」「簷葡舎跡」の石碑があります。

環山楼1

環山楼2

環山楼3

麟角堂創建遺址

簷葡舎跡

鉄筋二階建て校舎

環山楼は一般公開されています(於 八尾市・鉄筋校舎は東大阪市)
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2012
08.05

お手洗い

Category: 史跡
「お手洗い」とは御承知の通り「便所」「トイレ」の事ですが、今回記事を書くにあたり、タイトルをどうしようか迷った挙句「お手洗い」とさせて頂きました。

これが最も差し障りが無い様な気がしましたもので(笑)

それで、このタイトルで「何を書くねん?」って事となりますが、私少々「お手洗い」に興味がありして、古民家を見かけますと、その位置等をすぐ確認してしまいます(あくまでも外観からです)

因みに私の世代だと、和式の汲み取り式から始まり、その後は和式の水洗、現在は洋式の水洗と、使用するトイレの形式は時代と共に移り変わって行きました。

私の暮らす東大阪の東部は、現在でも汲み取り式が結構多い様で、平日に「バキュームカー」を見かける時があり、あと実際には空き家で使用されていないかと思われますが、長屋や文化住宅等で「臭気筒」が並んでいるのを見かけますと、幼少の頃に見た同じ風景を懐かしく思い出す事があります。

そして、興味を持ったきっかけなんですが、かなり以前「県立琵琶湖博物館」で昔の民家を再現した展示があり、そこで当時の「お手洗い」を見てかなり興味を持ってしまいました(笑)

それ以前にタイトルは忘れてしまいましたが、滋賀県の琵琶湖畔の村が作中に出てくる小説を読んだ事があり、そこに当時の汲み取り式のお手洗いのリアルな描写が記され、そのイメージと実際に博物館で見たお手洗いのイメージが、ほぼ一致して妙に感激した事を覚えています(…)

それで、現在のお手洗いとは言いますと、和洋問わずに便器は陶器製のものが殆どですが、江戸時代から昭和時代にかけて使用されたと思われるトイレをたまたま見学(?)する機会がありまして、非常に感激した次第です。

これを見て以来、ここで「何か書いたろう」と常々思っていましたので、今回この記事を書く事が出来、非常に自己満足しております(嬉)

このお手洗いは木製でいつの時代のものか分かりませんが、国の重要文化財に指定されています。

しかし、実は興味があるだけで殆どこの類の知識は御座いません。

はばかりながら。

お手洗い1

お手洗い2

お手洗い3

お手洗い4

お手洗い5

「史跡」とさせて頂きました(於 東大阪市)
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2012
06.23

長尾の滝

Category: 史跡
生駒山にある長尾谷の上流に「天龍院」があり、その寺地内に「長尾の滝」が流れています。

詳しくは説明板がありましたので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、その説明にもあります様に「長尾の滝」は上方の雄滝(白竜王)と雌滝(黒竜王)の二条からなります。

寺地内には、慈雲尊者が建てた「雙龍庵」の跡地に「慈雲尊者住山雙龍庵遺址」と刻まれた石碑が建てられ「慈雲尊者座禅石」と呼ばれる自然石があります。

あと「東南窟」と言う御堂がありますが、このお堂は山肌に突き出た岩に沿って建てられていまして、写真を御覧頂いても分かります様に、芸術的な建て方とでも言いましょうか、ほんと驚く程岩肌に沿って隙間なく建てられています。

さぞ手間のかかった事でしょう?

それで、昨年の真冬に「慈光寺」へ行った際、その後の予定も決めていなかったので、久しぶりに長尾の滝を訪れようと思い、ハイカーの姿も殆どない冬の生駒山を下って行きました。

私的には麓から長尾谷を上がって行くより、上方から下って長尾の滝に行く方が、雰囲気があって良い感じに思えます。

途中、足場の悪い山道を下って行くと視界が開け、そこには霊場でもあり、修行の場でもある山岳寺院の天龍院があり、滝から流れ落ちる水の音が聞こえてきます。

「長尾の滝」「慈雲尊者旧跡」は東大阪市文化財保護条例による名勝・史跡に指定されています。

長尾の滝1

長尾の滝2

長尾の滝3

長尾の滝4

長尾の滝5

長尾の滝6

長尾の滝7

長尾の滝8

長尾の滝9

確かに生駒山は滝が少ないです(於 東大阪市)
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2012
05.18

清浄泉

Category: 史跡
太平寺に「清浄泉」があります。

「清浄泉」は「石神社」の北側にある井戸の事で、詳しくは保存会と柏原市の設置した説明板を御覧頂きたいと思います。

あと、並んで建てられている御堂には弘法大師の石像がまつられています。

それで、私がここを訪れた際、殆んど予定を立てていなかったので、この後は何処へ行こうか思案していたところ、通りがかりの地元の方が話しかけてこられました。

地元、太平寺の事をいろいろ教えて頂き、非常に参考になったのですが、その会話の中で弘法大師は今で言う、地質学者的な要素も持った人物だったと話されていました。

確かに、暗峠越えの道の中程にも「弘法の水」と呼ばれる湧水があり、各地で弘法大師ゆかりの水場が数多く存在する様です。

違う角度で見ると、弘法大師に関してまた違う解釈もあるものだと感心しましたが、その後は戦時中の話になり、この柏原の山間部でも米軍の機銃掃射があったそうで、屋根の上で燻っている焼夷弾を屋根に上り、放り投げた事もあったと仰っていました。

この地区においての貴重な戦争体験をお伺いしました。

清浄泉1

清浄泉2

清浄泉3

清浄泉4

清浄泉5

清浄泉6

清浄泉7

清浄泉8

清浄泉9

今度行く時は水を汲んで帰ろうと思いますが(於 柏原市)
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2012
04.22

旧河澄家

Category: 史跡
日下の「河澄家」は江戸時代に庄屋を務めた旧家で東大阪市文化財保護条例による指定を受けています。

あと、敷地内にある「日下のかや」も同じく、条例によって天然記念物に指定されています。

それで、私いつも日下周辺を探索した際、帰路にこの河澄家の前を通って自宅へと帰っていましたが、長らく家屋の改修工事が行われていました。

それが昨年末のある日、いつもと同じ様に前を通ると一般公開されていました。

係の人に尋ねると、河澄家が東大阪市に寄贈されたそうで、それで一般公開する為に長らく改修工事が行われていたそうです。

観覧は「無料」と言う事でしたので、早速観覧させて頂きました。

いつもは外観しか見る事が出来なかった、古民家内を思いがけず見る事が出来ました。

観覧者は私一人だったのでゆっくり観覧させて頂き、また係の方も親切で丁寧な対応をして頂きました。

私的には「有料でもええんやないか」と思いましたが。

旧河澄家1

旧河澄家2

旧河澄家3

旧河澄家4

旧河澄家5

旧河澄家6

旧河澄家7

旧河澄家8

旧河澄家9

旧河澄家10

旧河澄家11

旧河澄家12

旧河澄家13

旧河澄家14

旧河澄家15

旧河澄家16

旧河澄家17

旧河澄家18

旧河澄家19

古民家の内部を拝見出来る事は貴重です(於 東大阪市)
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2012
02.18

垣内の一里塚跡

Category: 史跡
垣内の東高野街道沿いに「一里塚の跡」があります。

一里塚とは、街道の道程と安全の為に一里毎に設けられた塚状の築造物と説明されています。

かつて、この東高野街道には「善根寺」「四条」「楽音寺」にも一里塚があったそうですが、現在この垣内だけがその名残をとどめています。

その一里塚から街道を挟んで反対側にも「西塚跡」があり、文化七年(1810)に建てられた「法華塔」と刻まれた石碑があります。

それで、現在ある塚が当時の一部なのか?それは分りませんが、塚に植えられている松の木は石碑にもある様に後年に植樹された様です。

この「垣内一里塚跡」は八尾市の指定文化財となっています。

垣内の一里塚跡1

垣内の一里塚跡2

垣内の一里塚跡3

垣内の一里塚跡4

垣内の一里塚跡5

垣内の一里塚跡6

垣内の一里塚跡7

垣内の一里塚跡8

いつもはもっと山側か恩智川沿いを南北に移動します(於 八尾市)


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2011
11.04

木村重成の墓

Category: 史跡
「木村重成の墓」は幸町の第二寝屋川沿いにあります。

私、この時代の事に関して殆んど知識がありませんが「木村重成」は大坂夏の陣の若江の戦いで戦士した豊臣方の武将だそうで、現地に八尾市の設置した説明碑があります。

それで、墓石の角が取れて丸くなっているのですが、これは削って飲むと「勇気が出て勝負事に強くなる」と言う俗信仰があるからだそうです。

また、墓前の松の葉を布団の下に敷いて寝ると、子供の寝小便や夫の浮気に効があると言われているそうです。

あと、多くの石造物があり、さながら神社の様に手水鉢や燈籠、百度石もある事から、かつてはお参りする人も多かったと思われ「河内名所図会」にも掲載されています。

記念碑や歌碑等の石碑もありますので、講の様な組織があったのでしょうか?

大阪人の「豊臣びいき」が良く分かる場所ではないかと言う事です。

木村重成の墓1

木村重成の墓2

木村重成の墓3

木村重成の墓4

木村重成の墓5

木村重成の墓6

木村重成の墓7

木村重成の墓8

木村重成の墓9

木村重成の墓10

木村重成の墓11

木村重成の墓12

木村重成の墓13

木村重成の墓14

木村重成の墓15

木村重成の墓16

木村重成の墓17

初めて見た時は何なのか分りませんでした(於 八尾市)
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2011
06.12

鴻池新田会所

Category: 史跡
「鴻池新田会所」は国の重要文化財に指定されいている史跡です。

詳しくは鴻池新田会所のホームページ等を御覧頂くとして、ここではごく簡単に説明させて頂きたいと思います。

江戸時代、旧大和川付替え後にその川池床跡は「新田」と呼ばれる農地に開墾されました。

その中で最大のものが、新開池床跡を大坂今橋の両替商、鴻池善右衛門宗利が新田開発した「鴻池新田」で、会所とはその新田を管理、運営する為に設けられた施設の事を言います。

それで、この鴻池新田会所は幼少の頃からある事は知っていましたが、その当時は「大きな家やなぁ」と思っていました。

会所周囲にあった濠もドブ川同然で悪臭がしていましたので、長らくこれはドブ川だとそう思っていました。

かつては、水も澄んでいて会所へ物資を運ぶ舟が行き来していたそうですが、後の高度経済成長期にはドブ川と化し、現在は埋立てられてしまいました。

今年の春に久しぶりに会所を訪れた際、濠跡を見ながらふと昔見た風景を思い出しました。

しかし、実は会所内に初めて立ち入ったのは、地元の事に興味を持ち始めた数年前で、確かまだ季節公開されていた頃だったと思います(現在は通年公開)

でもやはり「大きな家やなぁ」って思いましたが…

鴻池新田会所1

鴻池新田会所2

鴻池新田会所3

鴻池新田会所4

鴻池新田会所5

鴻池新田会所6

鴻池新田会所7

鴻池新田会所8

鴻池新田会所9

鴻池新田会所10

鴻池新田会所11

鴻池新田会所12

鴻池新田会所13

鴻池新田会所14

鴻池新田会所15

鴻池新田会所16

鴻池新田会所17

鴻池新田会所18

鴻池新田会所19

鴻池新田会所20

市街地にある静かな場所で時間があると行きたくなります(於 東大阪市)
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2011
01.03

河内県庁跡

Category: 史跡
明治二年(1869)に「河内県」が設置された際、現在の八尾市に県庁(仮役所)が設置されました。

しかし、同年「堺県」の設置に伴い、河内県は堺県に統合され廃止となり、その後複雑な統廃合を経て「大阪府」が設置されました。

私、河内県は知りませんでしたが、堺県がかつて存在した事は、東大阪市立郷土博物館に堺県の制札が展示してあるのを見て知っていました。

それまでは当初から大阪府だったと思っていましたが…

しかし、河内地域が堺県に属していたと言うのも、少し違和感がありますね。

昭和四十五年(1970)に大阪府の史跡に指定されています。

河内県庁跡1

河内県庁跡2

河内県庁跡3

1970年言うたら「万博」のあった年やな。今回は八尾です(於 八尾市)
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