2017
10.09

平野屋新田会所跡(その13)

Category: 名所旧跡
今回は平野屋新田会所跡周辺に残る石樋を取り上げてみたいと思います。

会所跡東側には「銭屋川」が流れていますが、その途中で繋がる水路との合流点に樋門が残されています。

この樋門は「三反物の樋」と呼ばれるそうで、笠石に弘化二年(1845)の年号が刻まれていますが、現在水路は埋立てられています。

しかし、埋立てに伴い樋門は撤去されず、そのまま埋め込まれてしまい樋門は遮水シートの下にあります。

地区の歴史を伝える石造物ですので、行政等で保存して頂きたいとは思いますが、その前に会所跡の遺構を大東市に整備して頂かないといけません。

同じ大東市内でも樋門を保存している自治会もあるのですが…

三反物の樋1

三反物の樋2

三反物の樋3

三反物の樋4

三反物の樋5

三反物の樋6

三反物の樋7

あと、会所跡東側に「どんばの伏せ越し樋」があります。

伏せ越し樋(伏樋)とは、地中に埋設している樋の事ですが、現在樋の上には道路が通っています。

樋の両端には樋の石組が見えますが、こちらは現在も使用(?)している様です。

しかし、何故ここで伏樋にする必要があったのか?疑問に思いましたが、以前地元自治会の方にお話しを伺った際に「鍋田川」の流路はこの場所で変えられたと仰っていました。

確認はしておりませんが、水利権の問題で鍋田川と水路を交差を交差する事が出来なかった為、伏樋が設置されたのでしょうか?

現在樋の上を通る道路は鍋田川の旧流路だった様ですが。

以上、平野屋に残る石樋を取り上げましたが、かつて用水を管理する為に樋門等の石樋はどれ位の数が設置されたのでしょうか?

現在はその一部が残されているだけです。

どんばの伏せ越し樋1

どんばの伏せ越し樋2

どんばの伏せ越し樋3

どんばの伏せ越し樋4

どんばの伏せ越し樋5

新田も含めて多くの樋があったのでしょう(於 大東市)





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2017
07.17

平野屋新田会所跡(その12)

Category: 名所旧跡
久しぶりに「平野屋新田会所跡」へ行ってみました。

毎回同じ事を記しますが、状況は以前として変わらずそのままとなっています(-_-;)

写真の方も毎回、同じ様な写真となっていますが、今の季節は雑草が生い茂り「草ぼうぼう状態」となっています。

周濠も底が見えない程、雑草が生い茂げり「農民感謝碑」周辺は鬱蒼とした感じです。

それで、現地のフェンスに「スタンプラリー実施中」の貼り紙がありますが、スタンプを押印する「大坂府四会所集印地図」を作成された方と以前お話しした事があります。

その方によりますと、府内に現存する(平野屋会所は除く)会所跡を広く知ってもらおうと言う主旨で企画されたそうで、四会所全て訪れると記念碑が贈呈されます。

私、これまでに四会所を全て訪れましたので、その事をお話ししますと、御好意で記念品を頂きました。

記念品は四会所のポストカードと解説書を合わせたもので、手持ち資料として使用させて頂きたいと思います。

尚、平野屋新田会所のスタンプはこの場所から離れた場所にある「歴史民俗資料館」で押印して貰います。

歴史民俗博物館って サーティホールから移動して野崎にありますよね。

ここからだと、ちょっと不便かと思いますが…

平野屋新田会所跡12-1

平野屋新田会所跡12-2

平野屋新田会所跡12-3

平野屋新田会所跡12-4

平野屋新田会所跡12-5

平野屋新田会所跡12-6

平野屋新田会所跡12-7

平野屋新田会所跡12-8

平野屋新田会所跡12-9

東大阪では河内寺廃寺跡が今月史跡公園として整備されました(於 大東市)
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2017
04.08

第一万葉植物園

Category: 名所旧跡
「恩智城址」の東側、隣接して「第一万葉植物園」があります。

第一万葉植物園は昭和五十九年(1984)に開園し、万葉集に詠まれた草花や樹木を集めて、展示植物毎に歌と作者が記された説明碑が設置されています。

八尾市によると、市民に万葉の心とロマンを偲びながら、植物に親しむと言う趣旨で建設され、約80種500本が植えられているそうです。

園内はそれ程広くはありませんが、池や築山等が配置されています。

あと、大竹に「第二万葉植物園」がありましたが、現在は閉園となっています。

それで、以前地元の方に何処にあったのか?伺った所「大竹観音堂」の東側だと言う事でしたが、そう言われてみると何となく記憶があります。

水呑みさんや十三峠へ行く際には、必ず側を通っていますので。

閉園の理由は何だったんでしょうか?

第一万葉植物園1

第一万葉植物園2

第一万葉植物園3

第一万葉植物園4

第一万葉植物園5

第一万葉植物園6

第一万葉植物園7

第一万葉植物園8

第一万葉植物園9

第一万葉植物園10

第一万葉植物園11

公園ではなく植物園と言うのが珍しいかと思いますが(於 八尾市)
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2017
03.27

平野屋新田会所跡(その11)

Category: 名所旧跡
久しぶりに平野屋新田会所の記事の更新となりますが、相も変わらず遺構はそのままの状態で保存(?)されています。

それで、いつ設置したのか分かりませんが、ごくごく簡素な説明板と遺構に表示がしてあります。

個人的には「今さら」と言う感が否めないのですが…

それで、最近になり明確に分かった事があるのですが、大東市はこの平野屋新田会所跡を現状のまま保存する意向だと言う事と保存整備の為の予算が無いと言う事です。

これはおそらく正解だと思いますが…

個人的には無造作に放置されている歌碑ぐらいは、何処か適切な場所へ移設保存して頂ければな思います。

私が初めてこの場所を訪れた際、まだ長屋門も千石蔵も現存していました。

今後の大東市の対応に期待したいです。

平野屋新田会所跡67

平野屋新田会所跡68

平野屋新田会所跡69

平野屋新田会所跡70

平野屋新田会所跡71

平野屋新田会所跡72

平野屋新田会所跡73

平野屋新田会所跡74

平野屋新田会所跡75

平野屋新田会所跡76

今後も定期的に訪れます(於 大東市)





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2016
10.16

大師清の瀧

Category: 名所旧跡
「大師清の瀧」は鳴川谷にあります。

写真では水が枯れている様に見えますが、御堂の後ろにあるのが大師清の瀧だと思います(?)

それで、堂内はお大師様がまつられているかと思いますが、確認はしておりません。

あと、水は飲まない様にとの事です。

鳴川谷は下山の際に歩く事が多いので、また後の機会に堂内のお大師様を確認しようと思います。

尚、瀧の由来等、詳しい事は全く分かりませんでした。

大師清の瀧1

大師清の瀧2

大師清の瀧3

大師清の瀧4

大師清の瀧5

大師清の瀧6

何か御利益があるのでしょうか?(於 東大阪市)
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2016
10.02

山口重信の墓

Category: 名所旧跡
若江南墓地の一角に「山口重信の墓」があります。

私、この時代に関して殆んど知識が御座いませんので、詳しくは現地に設置されています、説明板を御覧頂きたいと思います。

それで、第二寝屋川を挟んだ八尾側には「木村重成の墓」があり、説明板にも掲載されています「河内名所図会」にも、両武将の墓が描かれていますが、山口重信の墓は玉垣に囲まれ立派に見えます。

それに対し、木村重成の墓は墓石があるだけで簡素に見えますが、現在は明治時代以降に建立された石壇と石柵内にまつられ、寛保年間に描かれた絵図にはそれぞれ「木村長門守討死石碑」「山口伊豆守討死石碑」と記されています。

山口重信の墓は戦死した地である「若江堤」に建てられたそうですが、これが現在の墓地となったのでしょうか?

あと、本題と直接関係ありませんが、河内名所図会には両墓の間を井路(水路)が描かれています。

第二寝屋川開削以前も現在の流路上に水路が流れていたかと思われますが、私はどちらかと言うとこちらの方に関心がありますが…

山口重信の墓1

山口重信の墓2

山口重信の墓3

山口重信の墓4

山口重信の墓5

木村重成の墓と同じく堤防沿いの道から見えています(於 東大阪市)

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2016
05.04

森本七郎兵衛旧宅跡

Category: 名所旧跡
本町に「森本七郎兵衛旧宅跡」があります。

現在この場所には銀行がありますが、そこに八尾市が説明板を設置しています。

それで「八尾寺内町」については、中河内の歴史に関心のある方なら、当然御承知だと思いますので、今更説明する必要もないかと思います。

森元七郎兵衛が旧長瀬川の洪水敷である、荒蕪地に移り住み開拓した寺内町は、現在の八尾の基礎をなすものですが、森元七郎兵衛はその後凋落し、妻を離縁して行方不明になったと伝えられているそうです。

常光寺の境内には百五十回忌に子孫が建立した宝篋印塔があります。

森本七郎兵衛旧宅跡1

森本七郎兵衛旧宅跡2

森本七郎兵衛旧宅跡3

森本七郎兵衛旧宅跡4

ファミリーロード商店街には度々来ております(於 八尾市)


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2016
02.28

恩智左近の墓

Category: 名所旧跡
旧大阪外環状線(東高野街道)沿いに「恩地左近之舊跡」と刻まれた石碑が建てられています。

以前からこの碑が建てられているのは知ってはいましたが、墓に行くには自転車や単車を旧外の道路上に置いて行く事になるので(駐車違反?)これまで一度も訪れた事はありませんでした。

しかし昨年、上から(東側)から行く事が出来ると知りまして、初めて訪れました。

詳しくは八尾市の設置した説明碑がありますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、説明にもある様に隣接して西南戦争戦死者の墓があります。

これは官軍として従軍した旧中河内近在の戦死者の墓が十六基まつられ、感応院に位牌が安置されてと言う事です。

あと、この場所にはかつて一株が九本の幹に分れた桜の古木があったそうですが、枯れてしまったそうです。

以上、簡単な説明をさせて頂きましたが、以前より一つ疑問に思っていた事があります。

それは「恩智」か「恩地」か?と言う事です。

結論を言いますと、どちらも正解で(?)時代によってその表記が違っていた様です。

現在は「恩智」と表記するのが一般的ですが、石碑が建てられた時代(建立年は未確認です…)おそらく大正から昭和初期頃までは「恩地」と表記されていた様で「太平記」にも恩地と記されているそうです(こちらも未確認)

実は私、この件について全く気付かずにずっと「恩智」と信じて疑っていませんでした(>_<)

それで『恩智』左近の墓は地元では「御廟さん」と呼ばれているそうで、この場所から南には左近が築城した「恩智城」の跡があります。

恩智左近の墓1

恩智左近の墓2

恩智左近の墓3

恩智左近の墓4

恩智左近の墓5

恩智左近の墓6

恩智左近の墓7

恩智左近の墓8

私は恩智と言う方が…(於 八尾市)
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2016
02.11

飯島三郎右衛門の墓

Category: 名所旧跡
岩田町の河内街道沿いに「飯島三郎右衛門の墓」があります。

この辺りの河内街道は自宅から程近く、私的には「岩田の商店街」なんですが、その商店街沿いの一角に墓石があり、東大阪市が説明板を設置しています。

私、この時代(戦国時代)について殆んど知識がありませんので、飯島三郎右衛門については説明板を御覧頂きたいと思いますが、その説明文の中に気になった記述があります。

それは、飯島三郎右衛門が没したこの地は、かつて沼地で大小の水路の集合地であり、若江村と岩田村を結ぶ「雁戸樋橋」と呼ばれた細い橋が架けられ、現在も道路下には楠根川に注ぐ水が流れていると言う事です。

かつて岩田、若江周辺は幾つのもの水路が流れる水郷地だったそうで、現在も水路が残っている場所もあり、岩田村の悪水井路(排水路)であった「岩田井路」ついても記しております。

それで、雁戸樋橋について調べてみましたが、何処に架けられていたのか?その場所については分かりませんでした(…)

しかし、幕末の岩田村の記録によると「雁戸樋」と呼ばれた樋門が二ヵ所設置されていた事が記され、当時の「楠根川」に設けられていた堰まで六百八十間(約1.326km)あったそうです。

あと「下用水樋ゟ雁戸樋橋迄七百四十八間余リ」の記述がありましたので、雁戸樋橋は実在していた事が確認出来ます。

更に雁戸樋と瓜生堂村の間にも板橋が三ヵ所が架けられていたそうです。

以上、本題とは関係ない「橋」と「樋門」について記しましたが、飯島三郎右衛門の墓のある場所は雁戸樋橋の南側だそうです。

飯島三郎右衛門の墓1

飯島三郎右衛門の墓2

飯島三郎右衛門の墓3

飯島三郎右衛門の墓4

コノミヤの前です(於 東大阪市)
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2016
01.24

平野屋新田会所跡(その10)

Category: 名所旧跡
2014年の6月8日以来の更新となりますが、会所跡はその後何の動きもありません。

初めてこの記事を御覧になった方は、何のこっちゃ分からないかと思いますが、その経緯については過去の記事を御参照頂きたいと思います(>_<)

それで、長らく記事の更新をしなかったのは先の通り、会所跡に何の動きも無い事が理由でして、あえて言いますと「迷惑駐車」の掲示があった事くらいでしょうか?

掲載している写真も前回とほぼ同じ様なものですが、かつて濠だった場所の一部には住宅が建ち、また「銭屋川」に近い場所は草ぼうぼうとなっています。

「座摩神社」を訪れますと、まだ会所が存在していた頃の風景を思い出してしまいます。

大東市のサイトを見ますと、具体的にどうするのかまだ決まってない様ですが、大東市も予算がここまで回らんのでしょうね。

金があったらのなら会所も潰されずすんでますし…

定期的には訪れていますので、また動きががあれば記事を更新します。

平野屋新田会所跡58

平野屋新田会所跡59

平野屋新田会所跡60

平野屋新田会所跡61

平野屋新田会所跡62

平野屋新田会所跡63

平野屋新田会所跡64

平野屋新田会所跡65

平野屋新田会所跡66

市民レベルでは活動されている様ですが…(於 大東市)
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2015
10.09

木村重成陣屋跡

Category: 名所旧跡
私、基本「戦国時代」と呼ばれる時代に関して殆んど知識がありませんで、実はそれ程興味もありません(…)

東大阪市内にはそんな戦国時代の史跡名跡がありますが、その中で日常生活する上でも普段から通っています、河内街道沿いに「木村重成陣屋跡」があります。

手持ち資料によれば、木村重成は豊臣方の武将で大阪夏の陣の際、この場所に陣屋を構えたとの事です。

重成はこの地で戦死したそうですが、現在陣屋跡地には銅像と石碑が建てられています。

周囲を住宅が取り囲み、駐車場の奥の「こんなとこに?」と言う感じの場所にありますが、戦国時代に興味のある方にとっては「ほう、この場所が」って事になるんでしょう?

いつもほぼ素通りしていますが、時折写真撮影していましたので、今回は記事(?)とさせて頂きました。

また、御承知の様にお墓は第二寝屋川沿いの公園内にあります。

木村重成陣屋跡1

木村重成陣屋跡2

木村重成陣屋跡3

木村重成陣屋跡4

木村重成陣屋跡5

木村重成陣屋跡6

立派な銅像と石碑もあるんですが説明板が設置されてません(於 東大阪市)
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2015
09.26

高松信重の墓

Category: 名所旧跡
今から7、8年前の事なんですが、休日に自転車でぶらぶらしていますと、公園の一角にお墓がありました。

その時は「何でここにお墓があるんやろ?」としか思いませんでした。

それから数年経ち今年の春、同じ様にぶらぶらしていますと、たまたま同じ場所を通りがかりましたが、そこには八尾市の設置した説明板があり、このお墓は「高松信重」のお墓と言う事でした。

詳しくは説明板を御覧頂きたいと思いますが、帰宅後手持ち資料で調べ、どんな人物だったのか?と言うが分かった次第です。

あと、説明にもありす様に以前は「高松」と呼ばれた、約十五六坪程の小丘状地(塚)にあったそうです。

それで、私は中河内での歴史上の人物の墓と言えば「木村重成の墓」がすぐ思い浮かびますが、こちらはお墓と言うよりは、神社に近い感じとなっています。

こちらも後年、第二寝屋川開削工事の際、別地から現在地に移されています。

高松信重の墓1

高松信重の墓2

高松信重の墓3

高松信重の墓4

高松信重の墓5

呑んだ形跡のある一升瓶がお供えしてありました(於 八尾市)
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2015
09.12

孝養の井戸跡

Category: 名所旧跡
大窪にある「来迎寺」に「孝養の井戸跡」があります。

詳しくは八尾市の設置した説明碑がありますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、立札の周囲を見回しましても、それらしいものはありませんでした。

側には石塔が建てられていますが、その下に井戸があったのでしょうか?

それで、説明にもあります様に来迎寺の寺号はこの井戸からきているそうですが、ここ来迎寺には今年も度々訪れています。

境内には幾つかの石造物があり、井戸跡にある石塔は別の場所にもありましたが、石造部に関しては殆んど調べておりませんので、詳しい事は分かりません。

あと、遊具があり小さな児童公園の様になっています。

先週、訪れました。

孝養の井戸跡1

孝養の井戸跡2

孝養の井戸跡3

孝養の井戸跡4

来迎寺1

来迎寺2

来迎寺3

来迎寺4

来迎寺5

来迎寺6

来迎寺7

見晴らし良いです(於 八尾市)
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2015
07.10

神宮寺子太郎塚

Category: 名所旧跡
神宮寺の字石塚と呼ばれる場所に「神宮寺子太郎塚」があります。

神宮寺小太郎については現地に説明碑がありますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、その説明にもあります様に塚のある場所は元古墳で、明治末期に発掘後に破壊されたとあります。

塚は玉垣で囲まれ「神宮寺子太郎之塚」と刻まれた石碑があり、その石碑の下の石積には「南高安村 在郷軍人會 青年団…」とあり、昭和二年(1927)の建立とあります。

あと、石碑と並んで宝篋印塔が建てられ、塔身には「寳勝佛」月輪には「タラーク」と刻まれ、昭和十六年(1941)の年号があります。

石碑、宝篋印塔共に年号以外は詳しい事は分かりませんでしたが、現在の様に整備されたのは昭和時代からでしょうか?

それで、私の中河内探索は二通りあり、一つは目的地もなく行き当たりばったりでぶらぶらするのと、もう一つは結構調べてから直接目的地へと行く二通りとなっています。

因みにこの場所は、予定もなくぶらぶらしている時にたまたま通りがかったもので、玉垣に囲まれていた事から初めは「お塚」と思いましたが、帰宅後調べますと神宮寺小太郎塚だと言う事でした。

しかし、何故この場所が神宮寺小太郎塚なのか?詳しい事は分かりませんでした。

何か由縁でもあるのでしょうか?

神宮寺子太郎塚1

神宮寺子太郎塚2

神宮寺子太郎塚3

神宮寺子太郎塚4

神宮寺子太郎塚5

神宮寺子太郎塚6

神宮寺子太郎塚7

史跡の道があるので迷わずに行けると思います(於 八尾市)
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2015
05.16

鏑矢塚

Category: 名所旧跡
以前、八尾の市立病院のあった場所の西側に「鏑矢塚」の碑が建てられています。

詳しくは市の設置した説明板がありますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、以前は塚状だったそうです。

しかし、現在は石碑と木が一本あるだけで、石碑は昭和五年(1930)に当時の龍華町によって建てられています。

それで、石碑は「史蹟」と刻まれた立派な物なんですが、以前は飲食店の看板は石碑の前に置かれていましたので、国道側からは非常に見え難くい状態でした。

最近訪れますと、看板はありましたが石碑は見える状態になっていまして、更地になっていた病院跡地にも何か建物が建設されていました。

出来れば看板がない方がええかと思いますが…

鏑矢塚1

鏑矢塚2

鏑矢塚3

鏑矢塚4

鏑矢塚5

鏑矢塚6

弓矢が浮彫りされています(於 八尾市)
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2015
04.29

お初徳兵衛墓

Category: 名所旧跡
教興寺にある「大通寺」の境内に「お初徳兵衛墓」があります。

先週、大通寺にお邪魔させて頂いた際、私御住職から御説明を頂きましたが、門前にある説明碑にはこの墓の事について記されています。

それで、少々説明させて頂きますが、教興寺村の宗二の娘である「お初」は、大坂曾根崎の廓の遊女で「徳兵衛」は大阪内本町の木綿問屋「平野屋」の養子であったそうで、その家主には「おきた」と言う娘があったそうですが、いつの頃からか曾根崎のお初の許へ通い、夫婦の約束をしたと言います。

そんな中、お初の父親が病となり、二人連れ立って教興寺村に帰り、その際二人の仲を話したところ、父親は驚き教興寺の住持、覚彦和尚に相談してその世話を頼んだそうです。

お初はそのまま大坂へ帰り、徳兵衛はそのまま教興寺に残り寺の下人となり、お初の年季のあけるのを待ってめでたく夫婦となったそうです。

その後、徳兵衛は病気の為に亡くなり、その後を追う様にお初も亡くなりましたが、覚彦和尚は二人を憐れみ、合葬して石碑を建てて回向したと伝えられているそうです。

それで、浄瑠璃作者であった「近松門左衛門」が高野山に上がった際、たまたま上り合わせていた覚彦和尚と知り合い、その縁で教興寺に寄寓する事となった時、このお初と徳兵衛の話を聞き、これを脚色して「曾根崎心中」を著わしたと言われているそうで、この墓は「夫婦塚」や「縁つなぎの墓」と呼ばれています。

以上、少々が長くなりましたが、その墓である六字名号板碑については、自然石の表面を舟形にして周囲に枠を帯状にめぐらし、根部に蓮華台を彫って南無阿弥陀仏(六字名号)と陰刻されています。

あと、その前に手水鉢(?)がありますが、枠に窪みがあったので御住職に「これは盃状穴ですか?」とお聞きしますと、実はこれ燈籠の石材(基礎か中台?)をひっくり返して使用しているとの事でした。

確かに良く見ると燈籠でした(笑)

その他に板碑や五輪塔等の石造物も写真撮影させて頂きましたので、その幾つかを掲載させて頂きます。

お初徳兵衛墓1

大通寺の石造物1

大通寺の石造物2

大通寺の石造物3

御住職ありがとうございました(於 八尾市)
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2015
02.28

長曽我部物見松遺址

Category: 名所旧跡
「今口地蔵尊」の境内地に「長曽我部物見松遺址」があります。

この場所はこれまで度々訪れているのですが、詳しい事はあまり知りませんので、現地にある説明板を御覧頂きたいと思います。

あと「慶春五輪塔」があり、こちらは八尾市の設置した説明碑があります。

それで、他の石造物に関しては顔の部分と右側が欠損した石仏一体があり、並んで「南無地蔵尊」「久新田」と刻まれた花立があります。

この石仏は以前、地蔵堂でまつられ、台石に梵字の「アン」が刻まれていたそうで、室町時代前期のものと推測されているそうです。

燈籠は二基ありますが、一基は基礎に「地蔵講」と刻まれていますので、地蔵講による建立と思われ、嘉永七年(1854)の年号があります。

もう一基は「太神宮」と刻まれた伊勢燈籠で、寛政三年(1791)の年号があります。

あと、神輿台の様な石板に足が付いたものがありますが、これは何でしょうか?

詳しい事は分かりませんでした。

それで、久宝寺寺内町はその古い町並みで名の知れた場所ですが、私はどちらかと言うと様々な石造物がある事に興味がある事から、度々訪れています。

春頃に訪れようかと思っています。

長曽我部物見松遺址1

長曽我部物見松遺址2

長曽我部物見松遺址3

長曽我部物見松遺址4

長曽我部物見松遺址5

長曽我部物見松遺址6

長曽我部物見松遺址7

長曽我部物見松遺址8

長曽我部物見松遺址9

長曽我部物見松遺址10

慶春五輪塔1

慶春五輪塔2

長曽我部物見松遺址11

私戦国時代は苦手です(於 八尾市)
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2015
02.07

俊徳丸鏡塚

Category: 名所旧跡
「俊徳丸鏡塚」は現地に設置されています説明板にもあります様に、謡曲「弱法師」浄瑠璃「摂州合邦辻」の主人公である「俊徳丸」の塚(墓)と伝えられているものです。

実は私も殆んど詳しい事は知りませんでしたが、山畑には「俊徳丸屋敷跡」と呼ばれる一角があり、近年まで屋敷林の一部と思われる小さな竹藪と石垣が残っていたのだそうです。

あと、鏡塚の近くにはかつて「箸塚」と言う名の塚もあり、これは信吉長者(山畑長者)が毎日使った箸を捨てた場所と言われ、その箸を捨てた為に長者は没落したと伝えられているそうです。

それで、説明にもありますが、実際この塚は高安千塚古墳群に属する六世紀代の横穴式石室を持つ円墳であり、俊徳丸の墓とは考えられませんが、それ以前に俊徳丸が伝承上の人物で、実在したかどうかも分かりませんので…

しかし、俊徳丸の伝説が古墳と結び付き、鏡塚や箸塚となって古くから語り継がれてきたのも何故か不思議な感じがします。

この鏡塚を現地でを見ますと、他所でも見かける事のあるごく普通の古墳なんですけど。

俊徳丸鏡塚1

俊徳丸鏡塚2

俊徳丸鏡塚3

俊徳丸鏡塚4

俊徳丸鏡塚5

俊徳丸鏡塚6

俊徳丸鏡塚7

俊徳丸鏡塚8

俊徳丸鏡塚9

俊徳丸鏡塚10

俊徳丸鏡塚11

俊徳丸鏡塚12

昔の人はこれが古墳って分かってたんでしょうか?(於 八尾市)
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2015
01.11

安岡正篤旧宅

Category: 名所旧跡
善根寺町に「安岡正篤旧宅」があります。

詳しくは現地に説明板がありますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、人物に関しては、私がここで説明するよりもインターネットでお調べ頂いた方が、より詳しく知る事が出来るかと思います。

と言っても、私も殆んどこの方について知りませんでしたが、平成の年号の発案者と言う事でした(これも数年前まで知りませんでした)

それで、旧宅は茅葺を銅板で覆った入母屋造りで、敷地内には氏の母校である孔舎衙小学校創立百周年記念に出席の為、善根寺に帰られた際に読まれた歌を刻んだ功徳歌碑が没後に建てられています。

歌碑には「雲白く 山は霞みて 故郷の花の小径を辿る楽しさ」と刻まれ、現在旧宅は「善根寺春日神社」の曼荼羅祭や地域の会合等に使用されているそうです。

それで、私かなり以前から旧宅がある事は知っていましたが、それは善根寺浜にある金比羅燈籠の後ろにあった火の見櫓に案内図が取付けられていたからでした(火の見櫓は撤去されました)

その内、一度訪れてみようと思ってそのままでしたが、ある日偶然にも訪れてしまいました。

私、東大阪東部は年中ぶらぶらしていますので(笑)

旧外環状線(東高野街道)からちょっと行った所にあります。

安岡正篤旧宅1

安岡正篤旧宅2

安岡正篤旧宅3

安岡正篤旧宅4

安岡正篤旧宅5

安岡正篤旧宅6

安岡正篤旧宅7

安岡正篤記念植樹

旧宅は「水の家」です(於 東大阪市)
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2014
12.13

帝国キネマ小阪撮影所跡

Category: 名所旧跡
菱屋西にある児童公園内に「帝国キネマ小阪撮影所跡」の説明板が設置されています。

詳しくは説明板を御覧頂きたいと思いますが、大阪の「東洋商会」と言う活動写真制作、配給する会社を経営していた山川吉太郎らが、イギリスの天然色映画の独占配給権を取得して「天然色活動写真株式会社」を設立し、菱屋西(当時は意岐部村御厨)に撮影所を建設しました。

当時、大阪近郊の田園風景が広がる小阪の地に映画の撮影所が建設されたのは、天活(天然色活動写真株式会社)の大阪撮影所が鶴橋にあり、そこの責任者だった山川が当時既に開通していた「大軌」の沿線に目が向けられた為で、それは自然の成り行きだったのだろうと言う事です。

それで、帝国キネマの撮影所に至るまで数多くの映画が制作されましたが、大正十四年(1925)に事業縮小を理由に撮影所が閉鎖される事になり、俳優を含む従業員全員が解雇され解散式が行われたそうです。

撮影所閉鎖の噂さを聞いた当時の小阪町住民代表四人が、帝国キネマ本社を訪れ「今後小阪撮影所の閉鎖は小阪町の衰微を来たす事になる、何とか考慮を煩わしたい」と陳情したそうですが、近い内に再開する予定と言う事で了承、一旦引き上げたのだそうです。

その後撮影所は閉鎖され、かつて撮影所のあった場所にその名残は全くありませんで、東大阪市が設置した説明板のみとなっています。

それで、私の実家から小阪駅は最寄駅でしたので、昭和40年代以降の小阪駅周辺の事は今も覚えています。

私の幼少期の頃、まだ一部近鉄のボンネットバスも運行されていましたし、駅前にビヤガーデンもありました。

以前「ジャスコ」がありましたが、かつては「シロ」と言う店舗名だったのを覚えている方はいらっしゃるでしょうか?

あと、映画と言えば駅の北側の映画館がありましたが「ゴジラ」の映画を何度も見に行ったものです。

ただ、子供向け映画を上映していない時は成人映画がオールナイト等で上映されていましたが、こちらは一度も見に行った事はありませんでした(笑)

現在、映画館は取り壊され更地になっているのが少々寂しく思います。

帝国キネマ小阪撮影所跡1

帝国キネマ小阪撮影所跡2

帝国キネマ小阪撮影所跡3

あと小阪と言えばハウスですわ(於 東大阪市)
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2014
12.06

八尾の戦争遺跡

Category: 名所旧跡
いつも私と生駒山を歩くサークルのメンバーであるS氏からある日「八尾枚は昔、軍事物資輸送用の道路やったそうですよ」との御教示を頂きました。

それで、手持ち資料にその記述がありませんでしたので、インターネットで調べてみますと、八尾の穴太付近を通る「府道八尾枚方線」は戦時中、大正飛行場(現八尾空港)の予備滑走路として建設されたとの事でした。

インターネットで調べましたので、説明は省略させて頂きますが、現地に銘板(説明板)が設置されていますので、そちらを見て頂きたいと思います。

確かにあの辺りは道が真っ直ぐになっています。

大正飛行場予備滑走路跡1

大正飛行場予備滑走路跡2

大正飛行場予備滑走路跡3

あと、これも以前職場の同僚(同世代)に「昔、八尾飛行場の下にトンネルがあってん」との情報を頂きましたので、そちらの方もインターネットで調べてみますと、かつて「河内地下道」と呼ばれる地下道があり、上部を滑走路として使用していたとの事でした。

こちらも現地に石碑と「河内地下道」と刻まれた、石造の銘板が残されていますので、詳しくは石碑の説明を見て頂きたいと思いますが、この地下道について調べている過程で、かつて大正飛行場に隣接して「陸軍大阪航空廠」があり、その通用門の門柱が保存されているとの事でした。

こちらも現地に市の設置した説明板がありましたので、そちらを見て頂きたいと思いますが、私この施設が八尾にあった事はこれまで全く知りませんでした。

私、工廠と言えば大阪城の東側にあった「大阪砲兵工廠」を思い浮かべるのですが、ここは私の亡くなった祖父が勤務していた場所であります(祖父は「工廠」と言っていました)

以上、インターネットで調べた戦争遺跡三件でしたが、興味のある方は私と同じくインターネットで調べて頂きたいと思います(笑)

それで、ついでではありませんが、皆さん良く御存知の「久宝寺緑地」は戦時中、防空避難地域として軍に買収されたものだったそうです。

八尾市、布施市、加美村にわたる農地を軍がほぼ強制的に接収したそうで、その際軍に呼び出されて集まった地主は軍刀を手にした陸軍将校と憲兵の立ち合いのもと、有無を言わさず強制的に農地接収用の書類に捺印させられたそうです。

これは環状防空地帯設置の一環として接収されたものだそうですが、同じ様な経緯で接収されたのが現在の「鶴見緑地」でして、こちらは私の実家から近い事もあって幼少の頃よりお馴染の場所となっています。

戦後、接収された土地は農地改革により、半分程耕作者に返還されたそうですが、残りは府の所有地となり、昭和三十年代頃より都市計画に基いて久宝寺緑地に造成され、現在に至っています。

こちらは手持資料を参考に致しました。

河内地下道1

河内地下道2

河内地下道3

大阪航空廠通用門門柱1

大阪航空廠通用門門柱2

大阪航空廠通用門門柱3

大阪航空廠通用門門柱4

大阪航空廠通用門門柱5

大阪航空廠通用門門柱6

大阪航空廠通用門門柱7

大阪航空廠通用門門柱8

大阪航空廠通用門門柱9

久宝寺緑地の写真がありませんでした(於 八尾市)
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2014
11.26

弓代塚

Category: 名所旧跡
数年前のある日、自転車で八尾をぶらぶらしてますと「史跡 弓代塚」と刻まれた石碑が建てられていました。

それで、写真を見て頂くと分かります様に「ほんまにそんなんあんのん?」って感じの細い地道をとりあえず行ってみる事にしました。

地道を行きますと、送電線の下のフェンスに囲まれた真ん中に石碑が一基建てられていました。

「塚ちゃうやん!」と思いましたが、石碑には「弓代」と刻まれていました(納得)

それで帰宅後、手持ち資料で調べますと、迹見赤檮が物部守屋を鏑矢をもって射た時に用いた弓を記念として埋めた場所と伝えられているとの事でした。

私、何のこっちゃ分かりませんでしたけど、そう言う場所だそうです。

苦手(あんまり興味のない)時代の事ですので…

石碑には「史蹟 弓代 迹見赤檮発箭地」と刻まれ、昭和五年(1930)に龍華町によって建てられたものです。

八尾によくある「塚」でした。

弓代塚1

弓代塚2

弓代塚3

八尾の塚はまだ御紹介する予定です(於 八尾市)
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2014
11.09

日下健康道場跡

Category: 名所旧跡
以前更新しました「日下新池」の記事に書いていますが、この場所には昭和の初めまで娯楽施設である「日下遊園地」がありました。

池の北側と東側には温泉や旅館が建ち、催し物等が行われて多くの人で賑わったそうです。

その後、菖蒲池遊園地や生駒山上遊園地の開園により、日下遊園地は閉園しましたが、その後の昭和十二年頃に北側にあった日下温泉と旅館銀水が「日下健康道場」となったそうです。

健康道場では剣道家の方が、心身鍛錬による結核治療を行っていたそうで、この健康道場で治療した京都の青年の日記を基に「太宰治」が小説「パンドラの匣」を書き下ろしています。

健康道場は昭和十八年頃、物資の不足で閉園したそうですが、現在その建物は現存せず、石垣や石段等が残っているのみです。

日下健康道場跡1

日下健康道場跡2

日下健康道場跡3

日下健康道場跡4

日下健康道場跡5

日下健康道場跡6

日下健康道場跡7

日下健康道場跡8

跡地は現在「パンドラの丘」として、ボランティア団体の方達によって整備維持管理され、健康道場のあった場所を「天羅山」と言ったそうですが、私はずっとこの辺りは「日下山」と思っていました(案内板には日下山と表示されていますが…)

あと、今も残る石段の手前に橋があり、この橋を「羽衣橋」というそうですが、かつては新池に余吐水等の排水施設があったのでしょうか?橋の下を通水させていた様な痕跡がありますが、詳しい事は分かりません。

それで、私この場所が気に入ってまして、ほぼ毎月一回程訪れてますが、自宅からそれ程遠いと言う訳ではありませんので、季節が変わる毎にこの場所にだけ来る事もあります。

そんなある日、いつもの様に訪れますと山肌に沿って側溝が整備され、そばに瓦礫が積まれていました。

日下健康道場跡9

日下健康道場跡10

日下健康道場跡11

日下健康道場跡12

日下健康道場跡13

よく見ると石の他にコンクリート片やレンガ片もあったので、これはおそらく健康道場の建物の残骸の一部ではないかと思いましたが、おそらくそうだと思います。

写真でしか見る事の出来ない、これが健康道場の建物の一部と考えると、少々感慨深いものがありましたが、太宰治の小説の舞台がここ東大阪にあるというのも、同じく感慨深いものがあります(私文学に関して殆んど知識が御座いませんが…)

その後、再び訪れますと木の周囲を花壇の様に囲う為に利用されていましたが、大き目のコンクリート片は側溝の蓋(?)に利用されていました。

日下健康道場跡14

日下健康道場跡15

日下健康道場跡16

興味のある方は一度見て頂けたらと思いますが、まあ正直ただのコンクリート片ではありますが…

あと、これ以外には石燈籠がありますが、これは当時この場所にあったものかどうかは分かりませんでした。

来週行く予定にしてますが、生駒の紅葉はまだちょっとはやい感じです。

日下健康道場跡17

日下健康道場跡18

日下健康道場跡19

日下健康道場跡20

日下健康道場跡21

ここ見晴らしがええんです(於 東大阪市)
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2014
11.02

航空灯台

Category: 名所旧跡
ある日夕方のニュースを見ていますと、見慣れた生駒山頂の風景が放映されていました。

これはニュース番組内の特集で、かつて生駒山頂に航空灯台があったとの事でしたが、その航空灯台とは以前ここでも取り上げました「生駒山天文博物館」の事だそうです。

インターネットで調べてみますと、かなり詳しい事が分りますが、今回は私が最近入手した資料を基に記事を書かせて頂きたいと思います。

現在山頂にあります、旧天文博物館の建物は鉄筋コンクリート製ですが、それ以前は鉄骨製だったそうで、昭和十五年頃に建替えられ、付属する施設は航空博物館として使用されたそうです。

その博物館には日英間の飛行時間の国際記録を樹立した「神風号」も展示されていたそうですが、私は幼少の頃から航空機にも興味ありますので、神風号の存在は以前から知ってはいましたが、かつて生駒山山頂にこの機体が展示されていたのは全く知りませんで、これについては非常に驚きました。

それで、戦争末期には灯台も点燈される事もなくなり、戦後はその役目を終えて天文博物館に転用されたのだそうです。

あと、山頂遊園地北側にある、スカイラインの広い駐車場はかつてグライダー場だったそうで、削平整備された東端には格納庫があったそうです。

ここは全国的にも有名なグライダー練習場だったそうで、生駒山脈の上昇気流を捉えて信貴山上空との間を往復するグライダーがよく見られたそうです。

最後、これはニュース内で語られていた事なのですが、生駒山頂遊園地には日本最古の大型遊具である飛行塔があります。

実はこの飛行塔は戦時中、監視塔として軍事使用されていたそうで、戦時の金属供出も免れ、軍事使用されていたのにも関わらず、戦後GHQによる撤去の対象にもならなかった様です。

軍事使用されていた件に関してGHQに「洩れなかった」様で、あくまでも「遊具」して扱われた為に撤去されずに済んだ(?)のですが、あくまでも推測との事でした。

当時撤去されずに済んだおかげで、私も幼少の頃幾度もこの飛行塔で飛行機に乗った事は今も良く覚えていますし、生駒山歩きで山頂に行きこの飛行塔を見ると当時の事を思い出します。

私が生まれるずっと前からあって、今も子供達を楽しませているって考えると、ほんま凄い事です。

《追記》
残念ながら取り壊されてしまいました。

航空灯台1

航空灯台2

航空灯台3

航空灯台4

航空灯台5

航空灯台6

グライダー場跡1

私の部屋から航空灯台も飛行塔も昼間ですと良く見えます(於 東大阪市)
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2014
06.08

平野屋新田会所跡(その9)

Category: 名所旧跡
本日、平野屋新田会所跡へ行ってきました。

記事は長らく更新していませんでしたが、今も季節毎に必ず訪れています。

それで、記事を長らく更新していなかったのは「書く事が無かった」為で、大東市が遺構の残る区画購入後は殆んど現状維持と言いますか、説明板を設置する事も無く、そのままの状態で放置されています(あえて放置と言わせて頂きます)

ですので、前回の記事掲載の写真と然程変わっていないかと思います。

市の方も金銭的な問題で業者から会所跡を完全な形で購入する事が出来なかった事情も分かりますが、それではこの遺構を今後どのようにあつかっていくのか?具体的な事については明示されておりません。

市のホームページを閲覧してみますと一応何かやっている様ですが、私には「それがどないしてん」と言った感じでして、具体的な遺構の整備、顕彰等は行われていない様です(おそらく)

会所が取り壊され、もう数年経ちました。

平野屋新田会所跡52

平野屋新田会所跡53

平野屋新田会所跡54

平野屋新田会所跡55

平野屋新田会所跡56

平野屋新田会所跡57

ここはどうなるのか?(於 大東市)
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2014
05.24

弁財天塚

Category: 名所旧跡
都塚にある田畑の中に「弁財天塚」と呼ばれる塚があります。

手持ち資料で調べてみましたが、八尾市のホームページと手持ち資料が同じ記述となっていましたので、詳しくは市のホームページを御覧頂きたいと思います。

それで以前、文化財調査委員会の設置した説明板をたまたま見かけ、この辺りには古代「弓削遺跡」「西の京」があった事を知りました。

この弁財天塚は「弓削廃寺」の遺構、または関連のある遺構だと言う事でしたが、この地は旧大和川の氾濫により水害にあった為、周辺田畑は幾度も開墾され遺構、遺物も殆んど消失しているのだそうです。

しかし、この辺りでは鎌倉時代の布目瓦の破片が発見されているそうで、おそらくその時代まで弓削寺は存在していたと推測されているそうです。

あと、市のホームページにもあります様に「都留美島神社」の鎮座する場所を「都塚」ここでも以前取り上げました、旧村部の北にある塚を「大塚」村内にあるお寺の境内にある塚を「祇園塚」と呼んでいるそうです。

今回、祇園塚の写真も一緒に掲載させて頂きますが、こちらは現在塚状のものはありませんで、一本の木と詳細不明の石碑が一基建てられています。

少々、説明不足となりましたが、再度手持ち資料の方を見直してみようかと思います。

弁財天塚1

弁財天塚2

弁財天塚3

弁財天塚4

弁財天塚5

弓削遺跡説明板1

弓削遺跡説明板2

祇園塚1

祇園塚2

長年の間消滅せずに残っているのが不思議に思えます(於 八尾市)
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2014
05.18

味岡新田

Category: 名所旧跡
かつて中河内を流れていた旧大和川は、江戸時代の付替えにより、その川池床は「新田」と呼ばれる耕地に開墾されました。

私の住む東大阪市域にも旧長瀬川跡の「新喜多新田」私の育った場所である旧菱江川跡の「菱屋東新田」旧吉田川跡の「川中新田」は、現在私が暮らす場所から程近い場所にあります。

あと、旧楠根川跡の「菱屋中新田」後の「藤戸新田」それで東大阪では多くの方が御存知かと思います、新開池跡の「鴻池新田」があります。

新田開発後から明治に至るまで、それら新田は「~新田」と呼ばれていましたが、明治期に「新田」が外され、単に「新喜多」「菱屋東」等となりましたが、現在「藤戸新田」だけが町名として残っています。

それで、私はこれまで東大阪市域に限って「新田」とは、その殆どが旧大和川跡と言う認識だったのですが、最近それら以外に新田と呼ばれていた場所があった事を知りました。

それは、現在の東大阪東部にあった「味岡新田」と呼ばれた場所です。

「味岡新田」は東大阪の歴史に興味のある方なら御存知の「足立家」が所有していたもので、ごく簡単に説明せて頂きますと「足立家」は豊臣、徳川時代に渡って築城の為の石垣普請に従事し、生駒山から石を切り出した事で知られる豪農です。

その足立家が寛文十年(1670)に曽我丹波守(丹波神社の祭神)配下の味岡次郎佐衛門所有の十五町歩余(田地七町、芦苅捨場八町)を買受けて新田開発したもので、善根寺村と日下村の二ヵ所にあったそうです。

味岡新田は享保八年(1723)に検地を受け、享保十三年(1728)の記録では新田分として石高十六石八斗五升とあり、租税分からは除かれたそうです。

二年後の享保十五年(1730)に足立家の出費で大規模な悪水樋の工事が行われたそうですが、元は葭原で沼沢地だったそうですので、新田開発費を回収出来る程に収穫を上げるまで、長年の年月を要したのだそうです。

以上、味岡新田について説明しましたが、では味岡新田は何処にあったのか?と言う事になります。

善根寺村にあった味岡新田は「七軒家新田」と呼ばれ、大川の北側、大阪外環状線の東側辺りだそうです。

七軒家新田1

七軒家新田2

七軒家新田3

この場所は現在も畑が広がっていますが、地元でお話聞いたところこの周辺は今も「新田」と呼ばれているそうで、旧大阪外環状線(東高野街道)の「金比羅燈籠」の建つ周辺は「浜」と呼んでいるとの事でした。

あと、同じく東大阪の元町も「新田」と呼ばれているとの事で、こちらは大和川付替え後に「深野池」を新田開発した「河内屋南新田」となります。

もう一か所、日下村にあった味岡新田は絵図と現在の地図とを照らし合わせると、恩智川のすぐ東側「布市春日神社」の南側にあった様です。

味岡新田1

味岡新田2

味岡新田3

味岡新田4

それで、この場所は以前このブログで取り上げた事のある「汚泥ホッパー」のあった場所で「あぁそうやったんや」と少々驚いてしまいました。

こちらは大川の南側に少しだけ畑がありますが、周辺は工場等の建物が立ち並び、汚泥ホッパーの跡地はグランドがある以外、現在も広い更地となっています。

味岡新田は宝永元年(1704)の大和川付替え以前の寛文年間に新田開発が始まったので、市域にある他の新田に比べると歴史が古いと言う事になるでしょうか?

あと、以前布市の方に伺った話では、昔(昭和初期)新田内に池があり、子供頃は泳いだり釣りをして遊んだと言う事でした。

東大阪でもまだまだ結構知らない事が多いです。

味岡新田5

私の実家近くにも菱江川跡の七軒家があります(於 東大阪市)
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2014
02.12

宇宙科学館

Category: 名所旧跡
「生駒山天文博物館」の記事を書いた後、ふと子供の頃一度だけプラネタリウムを見に行った事を思い出しました。

私、これまでずっとプラネタリウムは閉園した「あやめ池遊園地」で見たものと思っていましたが、良く考えると当時あやめ池遊園地にはプラネタリウムがあったかどうかは確認していませんでした。

それで、インターネットで調べましたところ、生駒山頂にあった「宇宙科学館」でプラネタリウムが投影されていたとの事でした。

実は私、自分で天文博物館の記事中に「宇宙科学館」と書いていたのですが、この事に全く気が付きませんでして、子供の頃プラネタリウムを見たのは生駒山頂だったと言う事を完全に忘れていました(…)

では、宇宙科学館は何処にあったのか?と言いますと、今も生駒山上にありました(!)

ケーブルカーの駅のすぐ近く、遊園地北側にありますが、残念ながら現在は閉鎖されています。

天文博物館は遊園地南側にありますので、私はてっきり宇宙科学館は取り壊されていたと思い込んでいましたが、何故忘れてしまったのかは不明です。

殆どその当時の事は覚えていませんが、じいちゃんに連れて来て貰った事だけは今も覚えています。

今回、何となく撮っていた写真が二枚ありまあしたので載せておきます。

宇宙科学館1

宇宙科学館2

《追記》
残念ながら取り壊されてしまいました。

また一つ子供の頃の思い出の場所が無くなってしまい寂しく思います。

記事更新後に撮影した写真を追加しておきます。

宇宙科学館3

宇宙科学館4

宇宙科学館5

宇宙科学館6

宇宙科学館7

宇宙科学館8

宇宙科学館9

宇宙科学館10

宇宙科学館11

ここ「小さなペット館」やと思てました(於 生駒山頂)
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2014
02.02

生駒山天文博物館

Category: 名所旧跡
「生駒山天文台」の跡と向かい合い「生駒山天文博物館」の跡があります。

昭和二十六年(1951)に開館したこの天文博物館は現在、潜水艦の艦橋の様な建物のみが現存していますが、当時の写真を見ますと、縦に大きく「生駒山天文博物館」と看板が掲げられています。

周囲にあった館内施設は、大反射望遠鏡を設置する為の直径9mの銀白色のドームがあり、日中以外でも特別の天文現象があれば一般観覧者にも公開されていたそうで、直径6mのドームにはプラネタリウムが設置され、星座の解説やギリシャ神話等を聞く事が出来たのだそうです。

また「太陽の室」「惑星の室」「地球の室」「ロケットの室」等天文や宇宙に関してのさまざまな展示があり、当日の太陽黒点の観察等も出来たそうです。

あと「天文パノラマ館」「宇宙科学館」等も設けられ、おそらく現存するこの建物であろうかと思われますが、屋上には展望室があり、標高630m、地上30mの塔上に備え付けられた反射望遠鏡により、遠くは神戸、和歌山、徳島、香川付近まで見渡せたのだそうです。

この様に天文学の校外教室として親しまれた天文博物館でしたが、その後の経緯は「生駒山天文台」同様調べておりませんので、いつ頃閉館したのか?また現在の使用状況等、その詳細は分かりません。

興味のある方はインターネット等でお調べになって頂きたいと思います。

それで、手持ち資料にあった当時の写真では、かなり規模の大きな施設だった事が分り、現在ハイキングコースの一部となっている、天文台と天文博物館の間を通る道には立派なスロープがあった様ですが、現在は撤去されほぼすべての館内施設も取り壊され撤去されています。

現状からは全く想像すら出来ないほど立派な施設だった様で、説明が無ければここが写真と同じ場所だとは全く分からないと思います。

現在、東大阪市内で天文に関する施設と言えば「ドリーム21」だけでしょうか?

あまり、天文に関して知識が御座いませんので…

生駒山天文博物館1


生駒山天文博物館2

生駒山天文博物館3

生駒山天文博物館4

生駒山天文博物館5

生駒山天文博物館6

生駒山天文博物館7

生駒山天文博物館8

生駒山天文博物館9

《追記》
残念ながら取り壊されてしまいました。

生駒山天文博物館10

生駒山天文博物館11

生駒山天文博物館12

生駒山天文博物館13

生駒山天文博物館14

生駒山天文博物館15

生駒山天文博物館16

生駒山天文博物館17

一度観覧してみたかったですわ。閉館して残念です(於 生駒山頂)
Comment:4
2014
02.02

生駒山天文台

Category: 名所旧跡
テレビ塔が建ち並ぶ生駒山の山頂、暗峠や慈光寺から続く道を歩いて行きますと、円筒状の建造物が建っています。

私、これは牧場等にあるサイロの跡か何かと思い、昔ここに牧場でもあったのか?と思いましたが、これまでそんな話は聞いた事がありませんでした。

その後、最近になって手持ち資料にこの建造物についての記述があり、それによるとこの建造物は「天文台」だったそうで、京都大学所属の観測施設で主に太陽観測に使用され、昭和十六年(1941)に建設されたそうです。

太陽観測以外にも太陽熱利用等の研究も行われていたそうで、当時の写真を見ますと棟続きで「分光観測室」と「塔屋」と呼ばれる施設があり、現存しているのは「塔屋」の建物で、かつては円錐状の屋根があった様ですが、現在は撤去され単に円筒状となった塔屋が残されています。

高さ16m、外塔は直径5m、内塔は直径1mで厚さ約20cmの鉄筋コンクリート造りだそうです。

あと「分光観測室」ですが、建物自体は現存せず、僅かに塔屋にその棟続きだった跡が見受けられます。

こちらも当時の写真を見ますと、三角屋根の二階建となっており、正面には立派な玄関があります。

建物自体は現存しませんが、塔屋を良く見ますと棟続きに建てられていた、屋根の形状の通りにその痕跡が残り、また反対側(南側)にも当時あったであろう建物の痕跡が残っていました。

当時、塔屋の内塔上にシーロスタット鏡が設置され、これによって導かれた光は塔底で曲げられ、太陽分光写真儀の前面で像を結ぶ仕組みになっており、また四十五度鏡によって同じ観測室内の長焦点分光写真機にも導かれる様になっていたそうです。

それで、主な設備として先のシースロッタ鏡、太陽分光写真機、太陽分光儀、あと反射鏡、太陽直接写真機、太陽直視望遠鏡、測微分光光度計および日射計が設置されていたそうですが、私には何のこっちゃ全く分かりません(笑)

現在、分光観測室の跡には立ち入り禁止となっています、倉庫の様なコンクリート製の建物がありますが、後年になって建てられたものか?それとも施設の一部なのか?それについて詳細は分かりませんでした。

尚、その後いつ閉鎖されたのか?その後の経緯については全く調べておりませんので、興味のある方はインターネット等でお調べになって頂きたいと思います。

昔、生駒山に天文台があったんですね。

やっぱり、気になったら調べてみんと…

生駒山天文台1

生駒山天文台2

生駒山天文台3

生駒山天文台4

生駒山天文台5

生駒山天文台6

生駒山天文台7

生駒山天文台8

生駒山天文台9

《追記》
残念ながら取り壊されてしまいました。

生駒山天文台10

生駒山天文台11

生駒山天文台12

やっぱり牧場はないですわなぁ(於 生駒山頂)
Comment:7
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