2016
08.13

中野の廃祠

Category: 神社仏閣跡
中野に廃祠があります。

大きな銀杏の木の下に祠がまつられていますが、詳しい事は分りません。

以前、お祓いをしたので廃棄しますと張り紙がしてありましたが、現在は剥がれてしまっています。

それで、祠の横を通る道は「旧河内街道」で、私の通勤路でもあります。

張り紙に気が付き、もう数年経ちますが、祠はそのままにされています。

中野の廃祠1

中野の廃祠2

中野の廃祠3

中野の廃祠4

中野の廃祠5

銀杏の木の神様でしょうか?(於 東大阪市)
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2016
08.13

額田神社跡

Category: 神社仏閣跡
「額田神社」は額田大仲日子命を祭神とし「額田大明神」とも呼ばれていたそうですが、明治五年(1872)に「枚岡神社」の境内末社である「天神地祇社」に合祀されています。

鎮座地は額田寺の東側、額田会館のある場所が跡地だそうですが、神社だった名残は現在全くありません。

それで、額田には額田神社以外に応神天皇の妃であり、額田大仲日子命の母である「高木之入日姫命」をまつる「高木社」あと「棟高大明神」「高佐美社」「皆人社」等の諸社がまつられていたそうです。

尚、高木社は同じく天神地祇社に合祀されていますが、現在「鎮宅霊符神社」の境内には、玉垣に囲まれた石造の小祠があり、祠の前には「高木入姫の尊」と刻まれた碑が建てられています。

今回、額田神社の由緒等については省略させて頂きましたが、参考にした手持ち資料には「高城」と記述されているもありました(天神地祇社にある被合祀神社一覧にも高城社とあります)

それで、最近の資料と石碑には「高木」と記されていましたので、記事においては「高木」とさせて頂きました。

額田神社跡1

高木社1

高木社2

高木社3

高木社4

高木社5

高木社6

高木社7

長い間調べていました(於 東大阪市)
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2015
11.29

橋本神社跡

Category: 神社仏閣跡
私の地元である「稲田」の鎮守は「稲田八幡宮」ですが、かつて稲田には「橋本神社」があったそうです。

これは、私が地元で聞いた話を後日、手持ち資料で確認したのですが、橋本神社は明治五年(1872)に「稲田八幡宮」に合祀されています(大正六年との記述もあり)

それで、稲田には「橋本」と呼ばれる地区があり、稲田本町にある道標には「橋本丁中」とあり、稲田村の橋本町の人々によって建てられた事が分ります。

鎮座地については、私が地元で聞いた話によりますと、北町会の自治会館のある場所だったそうで、自治会館前には以前取り上げました「おかげ地蔵尊」があります。

現在はどうなのか分かりませんが、この自治会館前では地車囃子が囃されるそうで、その理由はこの場所にかつて神社が鎮座していたからでは?と伺いました。

あと、橋本地区には現在「愛宕神社」があり、橋本神社との関係については分かりませんでしたが、稲田の北には「橋本新田」と呼ばれた、江戸時代に行われた大和川付替え工事後に新田開発された土地があり、そちらとの関係も気になりましたが、詳しい事は分かりませんでした。

神社やそれに関する事については、それ程詳しい事は分かりませんでしたが「ちょっと耳にした話」を基に自分の生まれ育った場所を歩くのもなかなか楽しいものがあります。

神社跡から南へ宮さんへと続く道は「中道」と呼ばれ、私の通学路でもありましたが、かつて流れていた「菱江川」も今は埋立てられ、そこに架けられていた橋の親柱だけが残され、道沿いには新たに建てられて住宅が目立ちます。

私いわゆる「田舎」と言うものがありませんで、子供の頃夏休み等に「田舎に帰る」と言う事はありませんでしたが、今は地元を離れましたが同じ東大阪市で暮らしていますので、いつでもすぐに帰る事の出来る「田舎」がある事はある意味、幸せな事かも知れません。

記憶にある昔の風景が時と共に変わっていくのが、少々寂しく思う事もありますが…

橋本神社跡1

中道1

中道2

もうちょっと調べてみます(於 東大阪市)
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2015
08.23

道生寺跡

Category: 神社仏閣跡
木の本に「道生寺跡」と刻まれた石碑が建てられています。

跡碑の銘文によりますと、慶長年間より大正時代末期まで浄土宗の寺院として存在したそうです。

それで、手持ち資料中の大正時代の記録には廃寺ではなく、浄土宗の寺院として記載がありましたので、銘文にもあります様に大正時代末期に廃寺になったと推測出来ます。

山号その他の詳しい事は分かりませんでしたが「樟本神社」に隣接する場所に跡碑が建てられていますので、樟本神社の神宮寺(宮寺)だったのか?とも思いましたが、それについても詳しい事は分かりません。

あと、すぐ側には地蔵堂があり、道生寺と何か関係があるのでしょうか?

今回は何も分からずじまいでしたが。

道生寺跡1

明治初期ではなく大正後期に廃寺となった理由が気になります(於 八尾市)
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2015
06.27

河内国分寺塔跡

Category: 神社仏閣跡
「河内国分寺塔跡」は国分東条町の大和川を見下ろす丘陵にあります。

柏原市内にある廃寺跡については、ここ数年訪れる事が多く、資料を収集をしてあれこれ調べておりますが、今回は現地に説明板が設置されていますので、そちらを御覧頂きたいと思います。

それで、実際にどれ位の規模の塔が建てられていたのか?と言う事になりますが、資料によりますと約50m以上の高さだったと推定出来るそうです。

50mとはかなりの高さだと思うのですが、かつてこの場所にその様な建造物が建っていたと言うのは、ほんと不思議な感じがします。

現在、塔の基壇は地下に保存され、礎石が六基残されているとの事です。

更に詳しく知りたい方は、私と同じく資料を入手して頂くか、インターネット等でお調べ頂きたいと思います。

河内国分寺塔跡1

河内国分寺塔跡2

河内国分寺塔跡3

河内国分寺塔跡4

河内国分寺塔跡5

河内国分寺塔跡6

河内国分寺塔跡7

河内国分寺塔跡8

河内国分寺塔跡9

河内国分寺塔跡10

河内国分寺塔跡11

河内国分寺塔跡12

河内国分寺塔跡13

ここほんま見晴らしがええです(於 柏原市)
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2015
05.17

東山神社跡

Category: 神社仏閣跡
髪切にある「慈光寺」の境内には、かつて鎮守社として「東山神社」がありました。

由緒等の詳しい事は分かりませんでしたが、明治五年(1872)に「枚岡神社」に合祀され、明治十二年(1879)に復社したそうです。

しかし、その後の明治四十年(1907)に再び、枚岡神社の「天神地祗社」に合祀され、境内は東西四十間、南北十九間二尺、七百七十四坪あったそうです。

それで、この神社に関して以前より調べていましたが、私の最終手段であります「現地で聞く」のが、やはり一番確実と言う事で、慈光寺の方でお尋ねしました(御住職の奥様に丁寧な説明をして頂きました)

慈光寺には説明の為に「河内名所図会」の慈光寺の掲示があり、今回それを撮影したものを使用させて頂きますが、御説明によりますと図会の右上、本堂の上に鳥居と社殿が描かれているのが分かります。

尚、現在本堂は図中の観音堂の辺りにあり、本堂のある辺りには「開山堂」がありますので、おおよそ開山堂の裏側にある竹藪の中に平坦な場所があると言う事でした。

と言う訳で、許可を頂き裏山に入ってみましたが、御覧の通りの急斜面でハイキング道とは違い、歩くのもままならず、とりあえず「ここかな?」と言う場所はありましたが、そこが本当に東山神社の社殿があった場所なのかは分かりませんで、慈光寺の方でもその場所を特定していないと言う事でした。

それで、文化財指定されている梵鐘の側に一基の燈籠があります。

これは、東山神社にあった燈籠で、寛文九年(1669)の年号があり、東山神社は祭神から「十一社権現」とも呼ばれていた事から「十一社神前 石燈籠」と刻まれています。

合祀先の枚岡神社には私が調べてみた範囲では、この神社に関連する石造物はありません(?)でしたので、この燈籠が東山神社の唯一の遺構となります。

あと、他の石造物については河内名所図会にも描かれています鳥居があり、高さ一丈だったそうですが、明治初期迄は存在していた様です。

慈光寺は生駒山歩きの際に訪れる事が多いので、またお話しを伺えたらと思っています。

東山神社跡1

東山神社跡2

東山神社跡3

東山神社跡4

東山神社跡5

東山神社跡6

東山神社跡7

東山神社跡8

東山神社跡9

東山神社跡10

東山神社跡11

東山神社跡12

現在の慈光寺とかつての慈光寺は様子が違いますので判断し難いです(於 東大阪市)
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2015
05.04

大蓮寺跡

Category: 神社仏閣跡
「大蓮寺」とはその名の通り大蓮にあった寺院で、明治六年(1873)に廃寺となりました。

大蓮寺は京都妙心寺末禅宗の寺院だったそうで、本堂、庫裏、薬医門等の建造物と四方を瓦葺の土塀で囲まれ、境内に鎮守として牛頭天皇、天満宮、稲荷宮の小宮、あと門前には知足庵、桃林庵もあった、かなり規模の大きな寺院だった様です。

大蓮にはかつて大蓮寺を含めて三つの寺と六つの庵があったそうですが「大蓮寺」と「真福寺」は安政の大地震で大きな被害を受け、その後無住となり廃寺となりましたが「大念寺」は地震後再建、廃寺を免れ、現在も大蓮にある唯一の寺院なのだそうです。

あと、大蓮寺の寺宝は村の庄屋に預けられ、その後の明治四十五年(1912)に先の大念寺に委託され、現在は大念寺の所蔵となっています。

それで、廃寺跡には祠堂と「石経法華経」と刻まれた石塔が一基あります。

これは、中将姫所縁の石塔で宝暦四年(1754)の年号が刻まれ、供養塔と言われているそうですが、中将姫に関する銘文はないそうです。

今回、中将姫についての説明は省かせて頂きますが、実はこの石塔は大正時代にこの土地の所有者が祟りを恐れ、近村の人の勧めによって中将姫をまつる為に、元々大蓮寺にあり長瀬墓地に移された墓石の一つを再び長瀬墓地から移し、祠を建ててまつったものだそうです(この話には少々驚きましたが…)

その後、昭和四十年頃に当時の土地の所有者が祠堂の壁をブロック塀に修繕した際、墓石は建物の中でまつるものではないと、外に出されてまつられ現在至っているそうです。

以上、石塔にまつわる話を記しましたが、大蓮寺は「大塩の乱」との関わりもある寺院だったそうですが、明治時代の廃仏毀釈で廃寺となりました。

それで、大蓮に関してですが、大蓮村にはかつて池がとりまく様にあり、その中で一番大きな池は「大蓮池」で、この池は村持ちで「渕側池」とも呼ばれたそうで、大蓮村の名はこの池に由来するのだそうです。

あと、私大蓮で思い出すのが、兄弟の小学校の時の担任の先生が大蓮の方で、その当時「おおはす」と言っていましたが、昭和四十六年(1971)の町名改正以前は「おばつじ」または「おわつじ」と呼ばれていたそうです。

私、昔から「おおはす」と思っていましたが、旧布施市出身でも知らない事がほんと多いです。

大蓮寺跡1

大蓮寺跡2

大蓮寺跡3

大蓮寺跡4

偶然初めて通りがかった時は何やろ?と思いました(於 東大阪市)
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2015
02.20

西善寺旧跡

Category: 神社仏閣跡
中野の「旧河内街道」沿いに「西善寺旧跡」の石碑が建てられています。

「西善寺」について手持ち資料で調べてみますと、山号を「龍沼山」と称し、寺地が御徐地(年貢免除の土地)となっており、二十一歩あったそうです。

それで、これ以上の詳しい事は分かりませんでしたが、この寺跡は現在自治会の施設となっており、現在の施設は昨年建替られたのですが、以前の施設が使用されているまで、敷地内には梵鐘はありませんでしたが、鐘楼が残っていました。

ですので、かつてこの場所にお寺があった事は分かっていましたので、以前より調べていましたが、施設が新築される際にその遺構である鐘楼は取り壊され、撤去されてしまいました。

しかし、施設の完成後に石碑が建てられ、その石碑によりかつてこの場所に「西善寺」と言う名のお寺があった事が分りました。

機会があれば地元の方にお話しを伺えたらと思いますが、石碑は地元有志の方々が後世までこの場所に西善寺があった事を伝える為に建てられたものです。

今後、西善寺について何か分かりましたら、追記と言う形にさせて頂きたいと思います。

西善寺旧跡1

西善寺旧跡2

西善寺旧跡3

西善寺旧跡4

通勤で毎日通ってます(於 東大阪市)
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2015
01.10

往生院金堂跡

Category: 神社仏閣跡
六万寺町にある「往生院」境内の北東山中に「字九輪塔」と呼ばれる場所があります。

往生院に関しては説明を省かせて頂きますが、その字九輪塔は狭い平坦地となっており、この場所にかつて仏堂(金堂)が建立されたと推測されています。

金堂跡地には東西15m、南北20mの土壇と礎石が残り、周辺からは梵字が入った鎌倉時代の軒丸瓦が出土し、金堂には阿弥陀如来がまつられていたと推定されているそうです。

あと、室町時代の瓦も出土し、その瓦が焼けている事や土壇上から焼けた壁土の破片が出土しているので、兵火によって焼失したとも考えられているそうです。

跡地周辺には標石が設置されていますが「府史○」と記されているものがある事からも分かります様に、大阪府文化財保護条例により史跡に指定されています。

それで、この金堂跡へ続く山道はかつてハイキング道として整備されていた様ですが、現在は快適にハイキングが出来る様な状態ではありません。

私的にはこの金堂跡も石碑が無ければ、時折生駒山で見かける様な平坦地かと思いますが「河内往生院伝承地」として府の文化財に指定されている事からも、東大阪市内に残る重要な史跡と言えるのだと思います。

しかし私、この時代の知識が殆んどありませんのが、少々お恥ずかしい話では御座いますが…

往生院金堂跡1

往生院金堂跡2

往生院金堂跡3

往生院金堂跡4

往生院金堂跡5

往生院金堂跡6

往生院金堂跡7

往生院金堂跡8

往生院金堂跡9

往生院金堂跡10

礎石を探してみましたが見つかりませんでした(於 東大阪市)
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2014
10.26

意足庵跡

Category: 神社仏閣跡
衣摺に「善久法師 意足庵跡」と刻まれた石碑が建てられています。

「善久法師」とは大和の人で、江戸時代後期に他の三人の僧と共にこの地に来てこの碑の建つ場所を買い取り庵を構え、付近を托鉢していたそうです。

その後、他の三人は大和に帰りましたが、善久法師だけがこの地で没し、その庵地は村に寄進されたそうです。

その後、この地に四基の墓碑が建てられ、墓碑の総称として「善久さん」と呼ばれていたそうですが、現在この四基の墓碑は付近にある「長覚寺」に移されています。

現在は八月に住民によって供養されているそうで、融通念仏と真言双方から僧侶が来て供養の為に経が読まれるそうです。

それで、移された墓碑にはそれぞれ梵字と「享保二年 達誉善久法師」「明和二年 持称了玄僧主霊」「元文元年 融白儀道法師」と刻まれ、この三基は同じ形状ですが、残りの一基は六角で「寛永二年 乗連社通誉上人聴髄円山和尚」「享保十六年当庵開基正徹元海善定門」「寛政元年 載連社運誉上人円空船領和尚 量岳寿永」と刻まれています。

私も詳しい事は分からないのですが、善久法師没後も庵は維持されたのでしょうか?

あと、六角の墓碑は砥石がわりに使われ、溝の側石となっていたそうですが、ある日占い師が来て建て直してこんにゃくを供えてまつれば、歯痛に御利益があると言ったので立て直したそうです。

それで、何故四人の僧侶が衣摺の地に来たのか?その理由も私には分かりませんが、資料によると布教と農業生産の指導に尽くされたと伝えられているそうです。

意足庵跡1

意足庵跡2

意足庵跡3

今も人が集まる場所として使われています(於 東大阪市)
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2014
10.12

法通寺址

Category: 神社仏閣跡
「法通寺」とは白鳳時代から室町時代頃まで存在した古代寺院で「石切剣箭神社」本殿北側にある「穂積殿」周辺が寺域の中心だったそうです。

地域には小字名「法通寺」が残り、文献によると平安時代後半にはその存在が確認出来るそうですが、享和元年(1801)版行の「河内名所図会」には掲載されていないので、江戸時代には廃寺になったと推測されているそうです。

あと、石切神社北にある「光養寺」は、江戸時代初期まで荒廃して小寺として残っていた法通寺を移して再興したものと伝えられているそうです。

それで、明治中期に神社境内北側が開墾された際に、飛鳥時代後期から鎌倉時代の瓦片や礎石が発見され、その後の昭和59年に実施された発掘調査では建物基壇等が発見され、瓦の調査から寺の創建は7世紀初頭と推測されるそうです。

現在、神社境内には「法通寺址」と刻まれた石碑が建てられ、出土した礎石が置かれています。

かつて「石切さん」のある場所にお寺があったとは少々意外に思いましたが、この事実は東大阪に住む人も殆んど知らないのではないでしょうか?(と言うか普通そんな事に関心が無い人が殆んどでしょうが…)

常にお参りする方が絶えない石切さんですが、私はもっぱら参道商店街へ行く事が主でして(笑)昨日も生駒山歩きの帰り際、馴染みの商店でせんど油を売って帰ってきました。

これから歩くには良い季節になりますので、また行く機会が増えると思います(^^♪

法通寺址1

法通寺址2

法通寺址3

法通寺址4

法通寺址5

法通寺址6

木の陰で石碑の写真が見辛いですが(於 東大阪市)
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2014
07.12

片山廃寺跡

Category: 神社仏閣跡
「片山薬師堂」のある場所には古代寺院である「片山廃寺」の塔が建てられていたのだそうです。

詳しくは柏原市の設置した説明板がありますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、薬師堂の庭はほぼ正方形に近く、塔跡として符合する平面形なのだそうです。

あと、説明板に「片山廃寺塔跡」とありますが、薬師堂前に塔心礎、四天柱礎、側柱礎石が並び実物を見る事が出来、以前(大正期以前)は旧状のままの配列が見られたそうで、地下には至る所で瓦片の堆積があるそうです。

それで、私ここへは一年を通じて訪れていまして、片山、玉手周辺へ行く際は必ずと言って良いほど訪れています。

以前「智識寺」の礎石を見て以来、この大き目の手水鉢が古代寺院の建物の柱を支える石だと言う事で興味を持ちまして、分かる範囲内で柏原市内にある廃寺を見てまわりました。

最近は地元、東大阪の廃寺跡をぼつぼつ見てまわっていますが、柏原市内にある廃寺の様に礎石を実際に見る事が出来るのは少ないかと思います。

礎石も私の好きな石造物ですので。

片山廃寺跡1

片山廃寺跡2

片山廃寺跡3

片山廃寺跡4

片山廃寺跡5

片山廃寺跡6

片山廃寺跡7

片山廃寺跡8

片山廃寺跡9

片山廃寺跡10

片山廃寺跡11

礎石は手水鉢と形状が似ているので後の時代に再利用されたんでしょうね(於 柏原市)
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2014
03.07

杜本神社

Category: 神社仏閣跡
国分東条町に「杜本神社跡」があります。

由緒等の詳しい事は分かりませんでしたが、杜本神社は明治四十年(1907)に「国分神社」に合祀されています。

その後、昭和四十七年(1972)に旧鎮座地である現地に社殿が再興されましたが、国分神社に合祀されていますので、神社跡もしくは元神社と言う事になります。

現在、社殿は造営されていますが、鳥居、狛犬、燈籠等の石造物はありませんで、境内と参道階段そばに石碑などの石造物が建立奉納されているのみです。

神社下には柏原で良く見られる風景である、ぶどう畑が広がっています。

杜本神社1

杜本神社2

杜本神社3

杜本神社4

杜本神社5

杜本神社6

杜本神社7

杜本神社8

杜本神社9

たまたま訪れました(於 柏原市)
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2013
10.30

五条宮址

Category: 神社仏閣跡
私、八尾は「~塚」と名の付いたところが多いなと以前より思っていまして、ここでも「大塚」などの塚を幾つか取り上げていますし、これ以降他の「塚」も記事を更新する予定でいます。

今回取り上げます「五条宮址」も塚状の史跡で「五条宮址」の標石が建てられています。

それで、この場所は割と通る場所なんですが、標石が交番の前に建てられていますので、いつも素通りしていました(これと言った理由はありませんが…)

ですので当初、交番のある場所が五条宮址と思っていましたが、手持ち資料で調べてみますと、田んぼの中にある塚がそうだと言う事でした。

それで、現地に八尾市の説明碑がありませんので、ごく簡単に説明しますと、この場所は旧長瀬川左岸縁辺にあたる場所で、奈良時代の古瓦である「細弁蓮華文鐙瓦」が出土したそうです。

この地では「五条宮寺」と呼ばれ、寺名は伝わっていないそうですが、現在は「老原廃寺」と呼ばれているそうです。

塚には祠がまつられているそうですが、田んぼに無断で立ち入る事は出来ませんので、確認はしていません。

道路からだと写真の様にこんな感じに見えます。

五条宮址1

五条宮址2

五条宮址3

五条宮址4

五条宮址5

最近ブログ書くのがしんどくなってきましたわ。そやけど頑張って書かんと(於 八尾市)
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2013
09.22

西高井田八幡神社跡

Category: 神社仏閣跡
高井田西に児童公園があり、かつてここには西高井田村の氏神であった「八幡神社」が鎮座していました。

手持ち資料で調べてみますと「品陀別命社」ともあり、明治五年(1872)に「鴨高田神社」に合祀されました。

破損して少々見辛くなっていますが、詳しくは市の設置した説明板がありますので、そちらを見て頂きたいと思います。

現在の跡地は先にも記した様に遊具等が設置され、あと地区の集会場(?)が建てられ、神社の名残である石造物は全くありませんが「戦捷記念」と刻まれた、昭和十三(1938)に建てられた旗台石柱があります。

あと説明板にもあります様に神社跡地の西側を南北に通る道は、古くから「摂津国」と「河内国」の国境だったそうで、現在も大阪市と東大阪市の境界となっています。

それで私、平野部を通る旧街道を意識して歩く事はあまりないので、これに関しては知らない事が多いのですが、この道は「中高野街道」だそうで、これは街道沿いに建つ石碑によって初めて知りました。

しかしそれ以前、昔から高井田のホワイトハウス近くから放出辺りまで続くこの道を「放出街道」と普通に呼んでいましたが、地元ではそう呼ぶ方が多いと思います。

私もそれこそ、子供の頃から通っていた道です。

あと、手持ち資料に高井田村にも八幡神社があり、明治五年(1872)に鴨高田神社に合祀後、同十四年(1881)に復社し、その後再び明治四十年(1907)に鴨高田神社に合祀されたそうですが、鎮座地等の詳しい事は分かりませんでした。

西高井田八幡神社跡1

西高井田八幡神社跡2

西高井田八幡神社跡3

西高井田八幡神社跡4

西高井田八幡神社跡5

中高野街道の碑

現状で見ると社地はそれ程広くないみたいですが(於 東大阪市)
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2013
07.22

釈迦寺山

Category: 神社仏閣跡
「釈迦寺山」は高さ1m、周囲6m四方の土壇状の地だったそうで、現在は周囲を建物に囲まれ、あたかも中庭の様になっています。

詳しくは市の設置した説明碑を御覧頂きたいと思いますが、かつては榎木の大木が茂り、朱色に塗られた木の玉垣が張り巡らされていたそうです。

それで、説明にもあります様に「千光寺」の遺址であるこの場所には、現在「白髪大神」「釈迦丸大神」がまつられ、一石二尊仏と一石五輪塔が残されています。

石仏に関して詳しい事や、年号等は確認出来ませんでしたが、一石五輪塔には天正三年(1575)の年号と発心門の梵字が陰刻され、火輪の一部が欠損しています。

所在地が少々分かり難いかと思いますが、史跡の表示板が設置されています。

釈迦寺山1

釈迦寺山2

釈迦寺山3

釈迦寺山4

釈迦寺山5

釈迦寺山6

釈迦寺山7

釈迦寺山8

釈迦寺山9

釈迦寺山10

昔は田圃の中だったそうです(於 八尾市)
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2013
06.18

淳慶寺跡

Category: 神社仏閣跡
玉串元町の「北之辻」と呼ばれる地域に「淳慶寺跡」と刻まれた石碑が、目立つ事なく建てられています。

この石碑の建つ場所は旧玉串川跡の東側縁辺を南北に通ずる道沿いにあり、私が八尾方面へ行く際には必ずと言っていいほど通る道です。

それで、以前より気になっていたこの石碑についてですが、実は建立年月日を確認するのを忘れてしまいましたので、いつ建てられたのか確認出来ていません。

まあ、ここは良く通る場所でもありますので、またその際にでも確認しておきたいと思います。

あと「淳慶寺」については手持ち資料に少し記述がありましたので少し説明致しますと、明治期の大政官布告による、神仏分離、廃寺統合により、無壇、無住の寺院が強制的に廃止され、現在の東大阪市市域においても多くの寺院が廃止されたのだそうです。

市場村にあった淳慶寺は、明治五年(1872)に廃寺となり、寺域は東西十間、南北七間半ありましたが、安政の大地震で堂宇が倒壊し、その後小堂が建てられたそうです。

いつも通る度に何となく気になっていた石碑でした。

淳慶寺跡1

どれくらいの規模のお寺だったのでしょう?(於 東大阪市)
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2013
01.14

松原神社跡

Category: 神社仏閣跡
松原村には村の氏神であった「松原神社」がありました。

松原神社には「春日神」と「八幡神」がまつられ「春日神社」と呼ばれていた様で、明治五年(1872)に枚岡神社に合祀され、複社する事なく現在に至り、松原地区は現在枚岡神社の氏子となっています。

それで、手持ち資料にもこの神社に関しての記述は殆どありませんで、これ以上の詳しい事は分かりませんでしたが、この神社がかつて松原村に鎮座していた事実は知っていましたので、かなり以前より何処にあったのか?と思い、自宅から近い事もあって、ぼちぼちと調べていました。

私は当初、旧村部の北にある大きな松の木のある場所に祠があり、そこが神社跡だと思っていましたが、地元の人に話を伺うとあの祠は木の神様をまつっているとの事でしたが、現在この松の木は伐採され、住宅が建てられています。

それが最近、ちょっとした事から神社のあった場所が分かりまして、そこはその松の木あった場所からもう少し北だと言う事が分かりました。

そこは現在、駐車場となっていまして私の良く知る場所(良く通る場所)でした。

実際にはどれ程の社地だったのかは分かりませんが、現在の状況から判断するとそれ程広い境内ではなかった様に思われ、この場所は旧大和川である「吉田川」の右岸堤防にあたります。

あと、この松原が枚岡神社の氏子だと分かる事が一つあるのですが、それは松原では祝日に国旗を掲げるお宅が多いと言う事です。

これは、枚岡神社が祝日に国旗を揚げる事を奨励していまして、町内の掲示板にその旨が書かれた掲示されていましたので、私も以前からこの件については知っていました。

勿論、費用は各家庭の負担となりますが、かなりのお宅が「日の丸」を玄関先に揚げておられます。

私の子供の頃、祝日やお正月に国旗を玄関に揚げる家を普通に見られたものですが、現在は殆ど見る事も少なくなりました。

あと、この松原は太鼓台(布団太鼓)ではなく「地車」の曳行が行われています。

東大阪中部以東は太鼓台と言うのが普通だと思いますが、ここ松原は珍しく地車の曳行が行われ、西部出身の私はまつりの時期になると、時間があればここへ地車を見に行きます。

何故?地車なのかその理由は分かりませんが、やはり私は地車を見ますと何かほっとした気分になります。

子供の頃から地車を見て育ちましたので…

松原神社跡1

松原神社跡2

松原神社跡3

松原神社跡4

松原神社跡5

松原神社跡6

調べ始めて何年も経ちましたがやっと跡地が何処か分かりました(於 東大阪市)
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2012
11.19

四条春日神社跡

Category: 神社仏閣跡
ここで以前取り上げました「旧四条春日神社」は、明治時代に枚岡神社に合祀後、元の鎮座地から現在地へ本殿と燈籠、狛犬などの石造物が移されました。

本殿等が移設されている場所は四条村の方の所有地だったそうで、その関係なのか?詳しい事は分かりませんが、当時建造物、石造物等はこの方の個人の所有となったそうです。

尚、本殿は覆屋を被せて保存されています。

それで、この四条春日神社は何処にあったのか?と言う事になりますが、これは数年に渡り同じく四条村の氏神だった「花草神社」の事について、地元の方にお話しを聞いた際に複数の方々に旧鎮座地の場所を伺いました。

現在その跡地には二棟の社が造営され、春日神社の祭神であった「天児屋根命」と他三柱の祭神がまつられています。

当時、社地は約五千平方メートルあったそうで、土塀に囲まれた高い一角に本殿が造営されていたそうです。

あと、この場所に四柱の祭神がまつられた経緯は、同じく地元の方のお話によると、春日神社が現在地へ移された後も、やはり元の場所に神様をおまつりしたいと言う事になり、地元の方が土地を寄贈されそこに神様をおまつりしたと仰っていました。

それで、この四条地区は私が地元の歴史に興味を持つ様になった頃から訪れている場所でして、その当時まだ菊水学園がありましので、かれこれ十五年位になるでしょうか?

この地区には多くの興味深いものがあり、訪れる度に「なるほど」と思う事が多々ありましたが、そんな中でこの「春日神社」と「花草神社」は特に興味を引く事柄でした。

花草神社に関しては当初、全く何処にあったのかさえ分かりませんでしたが、この地域を歩いている内に「この辺り」だと確信を持てる様になった時点で、私が予想していたその跡地へ訪れて見ますと、一回目で無事辿り着く事が出来ました。

案外、あっさり辿り着けので、少々拍子抜けした感もありましたが…

まだまだ、この「四条」については知りたい事が沢山あります。

四条春日神社跡1

四条春日神社跡2

四条春日神社跡3

四条春日神社跡4

四条春日神社跡5

四条春日神社

今月も2回行きました(於 東大阪市)
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2012
10.14

長楽寺跡

Category: 神社仏閣跡
岸田堂北町に「長楽寺跡」があります。

詳しくは市の設置した説明板がありますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、明治25年(1892)に廃寺となった「長楽寺」は疱瘡に御利益のある観音様として有名だったそうです。

それで説明文にもあります様に、明治以降は西洋医術が入ってきた為に帰依する人も少なくなり、衰運に傾いていったのだそうです。

現在、寺跡にはクスノキの古木と寛政年間の長楽寺住職の墓碑一基と祠、鳥居があり、移健先の神戸に「長楽寺」と刻まれた貞享三年(1686)の年号がある、手水鉢が残っています。

あと寺跡には「長楽寺跡顕彰碑」が建てられ、表面には「かの岸に たどだれ わたす 御佛の ちかひや長き 楽を江ん」と刻まれ、裏面には寺歴が刻まれています。

これは大正十四年(1925)に旧布施町によって建てられたもので、大正期の文化財顕彰の記念物と言えます。

寺域は六百六十坪の広さがあったそうです。

長楽寺跡1

長楽寺跡2

長楽寺跡3

長楽寺跡4

長楽寺跡5

神戸には行っておりません(於 東大阪市)
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2012
10.08

花草神社跡

Category: 神社仏閣跡
「花草神社」は旧四条村の山畑の集落にあった氏神で、明治五年(1873)に枚岡神社に合祀されましたが、明治十三年(1880)に復社した後、明治四十年(1907)に「瓢箪山稲荷神社」に遍座する事になり、社殿が移されたそうですが、社殿は台風で破損した為に現在は境内社に合祀されています。

それで、四条村は二つの氏神がまつられていた珍しい地区で、一社がこの「花草神社」で、もう一社が「四条春日神社」でした。

この山畑と言う集落は四条村で最も古く、元々独立した集落だったそうで、神社、寺、墓地を別に持ち、四条村はこの地区から麓(西)へと広がっていったそうです。

生駒山の中腹から麓へと集落が開けた事には理由があり、それはかつて生駒山にあった山岳寺院「神感寺」と関係があるそうですが、今回はその説明は省略させて頂きます。

それで「花草神社跡」は山畑の集落の東端にあり、現在跡地には小さな祠が建てられていますが、社地は東西一間、南北四間あり、覆屋のある桁行五尺、梁行三尺のこけら葺きの社殿が造営され、鳥居、燈籠、あと手水舎もあったそうです。

花草神社の由緒等の詳しい事は分からないそうですが「牛頭天王」とも呼ばれ、唯一神社の遺物として社殿に掲げられていた扁額が現存し、長い間山畑の集落で保存されていたものを、昭和四十七年(1972)に東大阪市立郷土博物館が開館した際に寄託され、展示保存されています。

現在の神社跡は御覧の様に、石積みの上に建てられた祠は朽ち果てていますが、複数の地元の方にお話しを伺ったところ、かつては正月等にお供え物をして、集落の方達でお世話をしていたそうです。

しかし、この集落も例にもれず、住人の高齢化や減少などで祠のお世話をする人がいなくなり、神社跡は放置された状態となり、人々から忘れられた存在となりつつある様です。

実際、この神社跡へ行く道らしい道はありませんで、かつては参道で鳥居が建てられていた場所も木々が生い茂り、私も何処に神社跡があるのか全く分かりませんでした。

あと、一旦合祀された枚岡神社ではなく、瓢箪山稲荷神社へ遍座した理由について詳しい事は分かりませんでしたが、その辺を調べてみますと、明治十二年(1879)に花草神社の氏子が、枚岡神社に復社を願い出た際、枚岡神社はすぐに許可を出さず反対したそうです。

しかし、住民の強い要望もあって止むを得ず、今後も枚岡神社を氏神とし、等閑にしない事を旨の契約書と引き換えに、復社の許可を出したそうです。

これはあくまでも私の推測ですが、こう言った経緯があったので瓢箪山稲荷神社へ遍座したのかも知れません。

神社跡に建つ小さな祠は、今は誰も目に触れる事もなく、生駒山の山中にひっそりと建っています。

花草神社跡1

花草神社跡2

花草神社跡3

花草神社跡4

花草神社跡5

花草神社跡6

花草神社跡7

牛頭天王1

体力と根性だけで辿り着く事が出来ました(於 東大阪市)
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2012
09.09

太子田太子堂

Category: 神社仏閣跡
太子田に「聖徳太子堂」があります。

元の聖徳太子像は約600年前に彫られたものだったそうですが、その後火災により焼失し、現在まつられているものはその後に新彫した、約250年前のものだそうです。

それで「聖徳太子堂」と刻まれた標石には、小さく「善根寺旧址」と刻まれていますが、かつてこの場所には「善根寺」と呼ばれる寺院があったそうで、明治六年(1873)に廃寺となったそうです。

その標石の台座に反花座が使用されていますが、これは鎌倉時代の様式で、これが唯一の寺の遺構だそうです。

廃寺後、現在太子堂を管理している「明福寺」に聖徳太子像を安置し、その後の大正十年(1921)に信者から浄財を募り、新たに御堂を建立して再び尊像をまつり、現在に至っているとの事です。

廃寺後も太子信仰は受け継がれている事になります。

それで「太子田」はこの善根寺の寺領として当てられた土地で、同じく大東市の氷野に「ホトケ田」と言う小字名があり、この田は太子田の太子堂の為に置かれたと言い伝えられているそうです。

現在は「たしでん」と読みますが、かつては「たいしでん」と呼ばれていたそうで、ここ太子田は太子堂の為の田を中心に発達した村だと考えられているそうです。

あと、境内には地蔵堂や石仏もまつられ、石碑等も建てられています。

太子田太子堂1

太子田太子堂2

太子田太子堂3

太子田太子堂4

太子田太子堂5

太子田太子堂6

太子田太子堂7

太子田太子堂8

この辺りは土地勘があります(於 大東市)
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2012
06.16

横沼子守神社跡

Category: 神社仏閣跡
「横沼子守神社」は明治五年(1872)に荒川の「鹿島神社」に合祀されました。

その後、一時複社したそうですが、大正十三年(1924)に再び合祀され、現在その跡地には「子守神社跡」と刻まれた石碑と寛保二年(1742)の年号が刻まれた燈籠一基が残されています。

「横沼子守神社」が、一時期複社した経緯は詳しく分かりせんでしたが、村民にとって氏神は信仰の対象であり、古くから結びついていたものであった為に合祀は村民の望む所ではなかった様です。

合祀令が施行された後もすぐに合祀しなかった村も多かったそうで、合祀が行われた村でも氏神に対してはその旧慣がしばらく守られたところもあったそうです。

村民は政府からの命令であっても、容易に応ずる気にはなれなかった様で、社殿等の建物も敢えてそのままにしていた事もあったそうですが、それは表立って強く反対する事が出来なかった、村民の消極的抵抗の表れだと言う事です。

それで「鹿島神社」は明治四十五年(1912)に足代村から遍座された「都留弥神社」に近隣の数社と共に合祀されています。

したがって、現在の「都留弥神社」の社地は「鹿島神社」の旧社地となり「都留弥神社」の跡地「布施戎神社」となっています。

横沼子守神社跡1

横沼子守神社跡2

横沼子守神社跡3

横沼子守神社跡4

ここに神社があった名残はこの燈籠一基だけでした(於 東大阪市)
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2012
06.10

智識寺跡

Category: 神社仏閣跡
かつて太平寺に「智識寺」と呼ばれる古代寺院があったそうです。

周辺には「智識寺」についての説明板が設置されていますので、詳しくはそちらを御覧頂きたいと思いますが、私が少々驚いたのは奈良の東大寺と大仏はこの智識寺を手本に創建されたのだそうです。

この場所にかつてこれだけの規模の寺院があった事も驚きですが、智識寺の大仏は東大寺の大仏が造立されるまで、最大の仏像だったと推定されているそうです。

「扶桑略記」によると、大きな仏像の代表格として、東大寺の大仏(大和太郎)と智識寺の大仏(河内二郎)が記されているそうです。

あと、説明にもありますが、この寺には東西二基の塔が配置されていたそうで、その東塔の心柱を支えた礎石(塔心礎)が保存されています。

智識寺は応徳三年(1086)震災により倒壊し、その後は再建されなかったと言う事です。

「智識寺跡」は大阪府指定史跡「塔心礎」は大阪府指定有形文化財に指定され、昭和七年(1932)に跡碑が建てられています。

智識寺跡1

智識寺跡2

智識寺跡3

智識寺跡4

智識寺跡5

智識寺跡6

智識寺跡7

智識寺跡8

智識寺跡9

はじめはちゃんと説明板を読んでませんでした(於 柏原市)
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2012
05.13

賀茂神社跡

Category: 神社仏閣跡
「賀茂神社」は大竹の氏神で、現在の西高安町に鎮座していましたが、鎮座地は旧大竹村領の西端となり、大竹の集落からはかなり離れています。

現在は大阪外環状線が建設され、更に西側にある事から参拝者は殆んどいないと思われます(現在、大竹は玉祖神社の氏子域)

「賀茂神社」は明治四十年(1907)に「玉祖神社」に合祀され、跡地には「式内 賀茂神社跡」「大竹氏子中」と刻まれた、昭和十三年(1938)に建てられた石碑があります。

周囲を田畑に囲まれ、神社跡が窪地の様になっていますが、当初からこの様な窪地であったのか?周囲に一部石垣が残っています。

それで、水越川沿いに整備されている「水越川遊歩道」を度々通っていましたが、ある日畑の中に石柱の様なものが突き出ているのが見えました。

その時は「何やろ?」と思いつつ、そのまま通り過ぎたのですが、帰宅後に手持ち資料の地図を見ますと「賀茂神社」と記されていました。

後日あらためて訪れますと、石碑と祠が建てられ、式内社だった事を知りました。

草木が生い茂る季節には全く気が付きませんでしたが、真冬の木々に葉が落ちた時期にたまたま通りがかった事で神社跡と分かりました。

跡地は先にも記しました様に窪地になっていますので、離れた場所からだと分かり辛いかと思います。

賀茂神社跡1

賀茂神社跡2

賀茂神社跡3

賀茂神社跡4

賀茂神社跡5

賀茂神社跡6

賀茂神社跡7

賀茂神社跡8

賀茂神社跡9

賀茂神社跡10

手持ち資料には「鴨神社」とありました(於 八尾市)
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2012
05.01

八木寺跡

Category: 神社仏閣跡
「八木寺」は枚岡神社北側にあった禅宗の寺院で、明治六年(1873)に廃寺となり、跡地には河内郷土研究会により「史跡 八木寺址」と刻まれた石碑が建てられています。

かつて、寺地は約75坪あったそうですが、現在跡地には天正五年(1577)造立の十三仏板碑と、その他石仏数体がまつられています。

あと、八木寺の本尊であった「木造薬師如来立像」は、現在この場所から西側にある「浄国寺」にまつられており、保存修理の際に見つかった寛永年間の墨書により、江戸時代初期のものと判明したそうです。

尚、木造薬師如来立像は東大阪文化財保護条例により文化財に指定されています。

それで、今から十五年程前、生駒山から下山する際、暗越の道を歩いていると「八木寺跡」と表示された案内板が目に入りました。

当時はそれ程地元の歴史等に関心はありませんでしたが、何となく訪れてみる事にしました。

しかし、結局辿り着く事は出来ませんでしたが、それから十年程経ったある日、思い出した様に今度は枚岡神社側から訪れてみますと、あっさり辿り着く事が出来ました。

その際、堂前には覆屋(?)があったのですが、その後訪れますと撤去されていました。

あと、実際に本堂等の建物が何処にあったのか?詳しい事は分かりませんでした。

八木寺跡1

八木寺跡2

八木寺跡3

八木寺跡4

八木寺跡5

八木寺跡6

八木寺跡7

八木寺跡8

今は地元の地蔵尊みたいです(於 東大阪市)
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2012
04.29

都留弥神社跡

Category: 神社仏閣跡
足代に「都留弥神社跡」があります。

旧布施村に鎮座していた「荒川の鹿島神社」「長堂の大歳神社」「三ノ瀬の産土神社」「永和の子守神社」「太平寺の子守神社」「岸田堂の天神社」「菱屋西の稲荷神社」が、村内唯一の式内社であった「都留弥神社」に合祀されていますが、旧鎮座地が布施村の西端に位置していた為、町の発展と地勢を考慮し、大正三年(1914)村の中央に鎮座していた、荒川の鹿島神社の旧社地に遷座されました。

その後、都留弥神社跡地は荒廃し、子供の遊び場となってしまったそうですが、地元有志の方々により植樹と石畳が敷かれ、昭和三年(1928)に「都留弥社址」と刻まれた石碑が建てられています。

それで、戦後の昭和二十九年(1954)に西宮神社より戎大神を勧請したのが「布施戎神社」で、社殿の東側には、都留弥神社御旅所があります。

更に昭和六十三年(1988)に、大阪の今宮戎神社から事代主命が勧請されたそうです。

都留弥神社跡1

えべっさんは子供の頃よう連れて行って貰いました(於 東大阪市)
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2012
03.20

若宮八幡宮跡

Category: 神社仏閣跡
額田町に「若宮八幡宮跡」があります。

若宮八幡宮は、明治五年(1872)に「枚岡神社」に合祀され、末社の「天神地祇社」に合祀されている、神社一覧の掲示に記されています。

尚、かつて額田村にあり、合祀された神社は「額田明神社」「若宮八幡社」「恵比寿社」「山上社」「高城社」となっていました。

由緒等の詳しい事は分りませんでしたが、境内は南北二十二間、東西二十間あったそうで、現在児童公園となっている跡地は西側に石垣が組まれていますが、当時のものかも知れません。

現在、東側に「若宮大神」がまつられ、祠の後ろには燈籠等の石造物の石材が残され、北側には「若宮寳柞社」と刻まれたお塚があります。

それで、地元の方にお話しを伺ったところ、若宮神社と呼んでおられる様で「ここは若宮神社で昔からある」との事でした。

考えると、明治時代に枚岡神社に合祀されていますので、当時の事を知る方は殆んどいないかと思われますが、合祀後も神社としてこの土地でおまつりされてきたのでしょうか?

現在は周辺には民家が建ち並び、住宅街となっていますが、昔は神社周辺一帯殆ど田んぼだったそうで、お話を伺った方は子供の頃、夜に神社の近くを通るのが怖いくらい、周囲は鬱蒼としていたと仰っていました。

あと、枝一本でも持ち帰るとばちが当たると言われていたそうで、神社跡(公園内)の木が数本伐採されているそうですが、きちんとお払いしてから木を伐採している筈だと仰っていました。

公園名は「若宮公園」となっています。

若宮八幡宮跡1

若宮八幡宮跡2

若宮八幡宮跡3

若宮八幡宮跡4

若宮八幡宮跡5

若宮八幡宮跡6

若宮八幡宮跡7

若宮八幡宮跡8

若宮八幡宮跡9

若宮八幡宮跡10

若宮八幡宮跡11

若宮八幡宮跡12

歌碑が建てられています(於 東大阪市)
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2011
12.11

市杵島姫神社

Category: 神社仏閣跡
客坊町に「市杵島姫神社」があります。

元の鎮座地は客坊公民館のある場所だったそうで、明治五年(1872)に「枚岡神社」に合祀されました。

その後、昭和十二年(1937)に社殿と石造物等が現在地に移設されたそうですが、正確には合祀によって廃社となっていますので「旧市杵島神社」となるのかも知れません。

これは、上四条町にある「旧四条春日神社」と同様に元の鎮座地ではなく、別地にてまつられているものです。

奈良時代に創建し、徳川時代には郡山藩より神宮派遣され、明治時代まで枚岡神社の旧社人であった朝平家がまつっていたそうで、弁財天と呼ばれていたそうです。

それで、鳥居には安永三年(1774)燈籠には嘉永五年(1852)と大正十二年(1923)の年号があり、狛犬は昭和四十六年(1971)の新しいものですが、台座には文政八年(1825)の年号が刻まれています。

あと、本殿前に一対の燈籠と狛犬がありますが、共に年号等は確認出来ませんでした。

市杵島神社は現在も客坊の氏神としてまつられ、地元の方々がお世話をされています。

市杵島姫神社1

市杵島姫神社2

市杵島姫神社3

市杵島姫神社4

市杵島姫神社5

市杵島姫神社6

市杵島姫神社7

市杵島姫神社8

市杵島姫神社9

市杵島姫神社10

市杵島姫神社11

市杵島姫神社12

市杵島姫神社13

市杵島姫神社14

狛犬の台座に手彫りで「何卒~」ってありました(於 東大阪市)
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2011
12.10

長柄神社跡

Category: 神社仏閣跡
東本町に「長柄神社跡」があります。

「長柄神社」は明治四十年(1908)に「矢作神社」に合祀されましたが、詳しくは市の設置した説明碑がありますので、そちらを御覧頂きたいと思います。

それで、跡地には東郷、庄之内の氏子の方達によって、昭和七年(1932)に建てられた「式内長柄神社址」と刻まれた石碑が、おそらく社殿のあった場所に建てられています。

あと、石造物も残されていますが、燈籠は二対あり、跡碑前のものは年号等は確認出来ませんでしたが「東郷村氏子中」と刻まれていますので、東郷村の氏子の方々の寄進によるものと分かります。

残りの一対には天保十二年(1841)の年号があり、竿の部分に「長柄社」と刻まれ、中台には三つ巴の社紋が刻まれています。

狛犬には天保九年(1838)の年号があり、手水鉢には安永四年(1775)の年号がありましたが、鳥居の年号は確認するのを忘れましたので、また後の機会に確認する事にします(…)

跡地には遊具が設置され、いつも訪れた際には子供や親子連れが遊んでいるのを見かけます。

それで、この跡地からすると、それなりの規模(?)であった神社と推測する事が出来ますが、何故合祀されたのか?いつもここを訪れる度にそう思います。

考えると、私の暮らす東大阪市域において明治期に多数の神社が合祀され、廃社となっていますが、その理由として東大阪、八尾共に神社の数が多かったのが、その要因では?と単純に私は考えていますが。

調べてはいませんが、中河内以外の地域ではどうなんでしょうか?

長柄神社跡1

長柄神社跡2

長柄神社跡3

長柄神社跡4

長柄神社跡5

長柄神社跡6

長柄神社跡7

長柄神社跡8

長柄神社跡9

長柄神社跡10

長柄神社跡11

前は度々通っておりますが(於 八尾市)
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