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2016
09.04

岩田井路(その3)

Category: 水路跡
これまで「岩田井路」について、二回に分けて記事としましたが、この水路は岩田地区から北西に流れ、新家地区で暗越奈良街道と並行して西へ流れていました。

それで、説明の為の地図を作製しませんので、既出の「楠根川」や「暗越奈良街道」の記事を参照して頂きたいと思いますが、第二寝屋川の東側に五差路があり、そこから北の方向、以前取り上げた楠根川の副提跡である「新家堤」の西側を並行して岩田井路は北へと続いていました。

現在、水路は埋立てられ道路となっていますので、この道が水路だった痕跡は殆んど残っていないかと思います。

しかし、途中に駐車場があり、道路に対して駐車場のある方が土地が高くなっている事からも、新家堤と並行にこの水路が流れていた事が分ります。

水路は長田の南端まで来ると、東から流れて来た水路と合流していた様ですが、この東から流れていた水路も現在埋立てられ、道路となっています。

その合流点の手前、地元では有名な剥製屋さんの北側に進入禁止の道路標識が設置されていますが、その辺りにかつて橋が架けられていたそうで、橋を渡って西へ行くと「新堀川」に突き当たっていた様です。

岩田井路は水路と合流後西へと流れ、今度は楠根川と合流していましたが、この場所では新堀川と長田から流れて来た水路も合流し、四本の水路の合流点となっていたそうです。

現在、楠根川を含む四本の水路は全て埋立てられていますが、旧大阪中央環状線沿いの岩田井路と水路の合流点(水路跡)だった場所から西側を見ると、楠根川跡(楠根川緑道)と藤戸小学校の校舎が見えています。

楠根川はその後、長田・西堤・川俣を経て、私の通っていた小学校の前を流れていました。

それで、岩田井路に関して調べている内に岩田・新家・御厨・長田・西堤には、かつて多くの井路川(水路)が流れていた事を知りました。

私の地元である稲田でもかつて多くの水路が流れていましたが、現在その殆どが埋立てられています。

長田周辺等は実家から近い事もあり、土地勘もありますが、記憶を頼りに水路が流れていた場所を訪れてみると、既に水路は埋立てられ、道路に整備されている事が多々ありました。

私は東大阪西部の出身ですので、幼少の頃周辺に溜池等が殆んど無かった事から、水辺の遊び場と言えば水路が身近な存在でした。

しかし、当時既に「第二寝屋川」等の近代河川も開削されていましたので、私は菱江川や田畑の間を流れる水路、またコンクリート護岸の第二寝屋川、共に川の原風景と言えます。

私はそんな時代を幼少期で過ごし、現在に至っている訳ですが、当時多くの水路は水質の悪化でドブ川状態にあり、その結果暗渠化や埋立てが行われました。

水路の数は当時と比べ減少してしまいましたが、長瀬川の様に地区単位での美化活動や大和川の水質向上等で、あらためて身近な水辺として親しまれる様になったり、あと水路跡が遊歩道等に整備されています。

個人的に水路は身近な水辺であって欲しいと願っています。

ですので、河川にゴミ等を捨てる行為は絶対にやめて頂きたいと切に思います。

岩田井路25

岩田井路26

岩田井路27

岩田井路28

岩田井路29

岩田井路30

岩田井路31

岩田井路32

岩田井路33

岩田井路34

岩田井路35

岩田井路36

岩田井路37

岩田井路38

岩田井路39

岩田井路40

岩田井路41

岩田井路42

清流は今の世代が残すもの

岩田井路と他の水路との位置関係が分かり難い事を御了承願いたいと思います(於 東大阪市)

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2016
04.10

岩田井路(その2)

Category: 水路跡
東大阪市内を「暗越奈良街道」が東西に通っています。

自宅近くには「松原宿跡」があり、休日に地図を片手に街道歩きをされる方を見かけける事が度々ありますが、以前街道からそれてしまい、迷っていた方を案内した事もあります。

それで、前回の続きとなりますが、新家の旧村の南側を旧街道が通り、南から流れて来る「岩田井路」が、かつて街道に沿って西へ流れていた事を御存知の方は少ないかと思います。

地元の方は当然御存知かと思いますが、他地区の出身である私も勿論知りませんでしたし、東大阪以外にお住みの方はなおさら御存知の方は殆んどいらっしゃらないかと思います。

現在、岩田井路は埋立てられてしまいましたが、それでは岩田井路は何処を流れていたのか?と言う事になります。

それに関して私は全く分かりませんでしたので、以前地元の方に伺ったところ、現在歩道となっている場所に岩田井路が流れていたと言う事でした。

現在、水路だった名残は殆んど残っておらず、全く知らなければごく普通の道路と歩道にしか見えません。

その水路跡(街道)を西へ行きますと「第二寝屋川」の手前で五差路となり、手前の北に通る道が「旧楠根川」の右岸堤防跡である「新家堤」で、道なりに行くと暗越奈良街道、新家堤と並行して北へと続く道が、岩田井路の跡で藤戸新田内を長田付近まで流れていました。

因みに更にその西側を「新堀川」と呼ばれた水路が流れていましたが、現在その殆どが第二寝屋川となっています。

それで、今回当時の様子等の詳しい事は殆んど分かりませんでしたが、もしこの記事を御覧なり、街道を歩かれる機会があれば、御参考にして頂ければと思います。

また違った視点で街道歩きが出来るかも知れません。

岩田井路16

岩田井路17

岩田井路18

岩田井路19

岩田井路20

岩田井路21

岩田井路22

岩田井路23

岩田井路24

次回に続きます(於 東大阪市)
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2015
11.14

岩田井路(その1)

Category: 水路跡
「暗越奈良街道」の記事中、かつて新家から御厨の街道沿いを流れていた水路について少しふれています。

現在、水路は埋立てられその痕跡は殆んど認められませんが「新家菅原神社」には東大阪市が設置した説明板があり、そこに掲載されている写真には街道沿いを流れる水路を確認する事が出来ます。

この写真は「新堀川跡」の記事に掲載している写真と同じもので、同じ写真を「楠根川」の記事で説明していますので、そちらを参照して頂きたいと思いますが、この水路は「岩田井路」と呼ばれていたそうです。

それで、岩田井路と聞いて一つ思い出した事があるのですが、以前取り上げた「茅葺の家」には説明板が設置され、その説明文に岩田村と御厨村が排水が原因で村争いとなった事が記されています。

岩田井路1

岩田井路2

この当時、井路川の排水と言えば農業用排水路の事であるかと思われ、これは悪水井路と呼ばれていました。

この岩田井路が悪水井路だったのか?詳しい事は分かりませんでしたが、結論を言いますと産業道路(大阪枚岡奈良線)以南、岩田地区までの流路について詳しい事は分かりませんでした。

ですが、手持ち資料で江戸時代の岩田村と新家村の記録を調べてみますと、両村には悪水出樋が一ヵ所あった事が記され、悪水は楠根川を経て大坂京橋で大和川に合流するとありましたが、もしかしたらこれは私の解釈違いかも知れません

しかし「楠根川」は当時農業用の排水路で、この岩田井路は楠根川に合流していました。

それで、現在水路跡はどの様な状態かと言う事になりますが、新家を通る旧街道に南から続く細い道が合流してきます。

岩田井路3

岩田井路4

岩田井路5

岩田井路6

岩田井路7

岩田井路8

岩田井路9

岩田井路10

岩田井路11

岩田井路12

この道は車が通行出来ない幅の狭い道ですが、これが岩田井路の跡で言われてみなければ、誰もが路地と思う様な細い道でして両側には民家が建ち並んでいます。

この道を南へ行くと産業道路に続き、ここから岩田方面へはどこを流れていたのか不明ですが、先の航空写真の菅原神社の下(南)に旧意岐部小学校が見えその南側を水路が流れています。

岩田井路と直接関係ないかも知れませんが、この水路は現在の市立総合病院と大型量販店の西側を流れ、現在は写真の様に道路となっています。

あと、近くに「五百石公園」がありますが、この辺りは「五百石」と呼んだそうで、かつて耕地整理が行われ、その際土砂を採取した後に池が出来たそうですが、現在その場所には自動車学校があります(以前何処かの記事で書いた様に思いますが失念しました…)

岩田井路に関しては数年に渡って調べておりますが、所詮私は素人ですので以上が今回の件について知る事が出来る限界かと思います。

数回続きます。

岩田井路13

岩田井路14

岩田井路15

ふとした事から水路跡と気付きました(於 東大阪市)
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2014
07.20

新堀川跡

Category: 水路跡
「新家菅原神社」に東大阪市の設置した説明板があり、そこに昭和十七年頃に撮影された航空写真が掲載されています。

この写真を見て頂きますと、御厨の旧村の東側を流れる「旧楠根川」とここで以前取り上げました「新家堤」との間にある、藤戸新田(旧菱屋中新田)の中央を南北に水路が流れているのが分かります。

この水路(井路)は「新堀川」と呼ばれていました。

新堀川は明治二年(1869)に灌漑用に掘られた水路で、水源は現在の意岐部中学付近にあった池だったそうです。

それで、新堀川と堺布施豊中線(旧大阪中央環状線)が建設される以前にあった道とが交差する場所には「菱沼橋」が架けられていたそうで、当時その辺りは「菱沼」と呼ばれ、ヨシやアシが群生し、沼では菱の実が沢山とれたのだそうです。

新堀川はその後、先の堺布施豊中線の建設や第二寝屋川の開削により、現在殆んどその水路跡と言えるものは確認出来ません。

暗越奈良街道と第二寝屋川が公差する場所には現在「新御厨北大橋」が架けられていますが、その橋から見える第二寝屋川の流路に新堀川は取り込まれ、開削されています。

しかし、当時新堀川に設置されていた樋門が残っていまして、ここから西堤へと水路が続いていたそうです。

樋門は当時と同じ状態ではなく、一部が残されているかと思われますが、他の水路の設備でも時折見られる様なレンガ造りの樋門で割れ等の破損があり、写真左側の樋門は住宅建設の為、半分以上撤去されている様です。

只、車が駐車している場所が唯一、水路跡だと確認する事が出来まして、そのすぐそばには旧楠根川(現楠根川緑地)が流れていました。

この辺りは楠根川を含む、当時幾本も流れていた水路の合流点だった様で、周辺にある道路もかつては水路だったものもあります。

それで、この場所にあった水路の樋門が現在も残っている理由は分かりませんが「身近な場所の歴史を知る」事から始めた中河内探索の基本の一つがこの水路跡探索ですので、これからも地道にコツコツと(笑)水路跡探索を続けて行きたいと思っています。

新堀川跡1

新堀川跡2

新堀川跡3

新堀川跡4

新堀川跡5

新堀川跡6

新堀川跡7

新堀川跡8

新堀川跡9

いつの時代につくられた樋門でしょうか?(於 東大阪市)
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2014
01.13

用水路の移りかわり(その6)

Category: 水路跡
今回で最終回となります「用水路の移りかわり」は「夜、田に水をあてる図」です。

説明板には「晴天が続いて水不足になったときは作付面積に応じ、昼夜を通して取入口に張り番しながら時間割により水をあてる」とあります。

それで今回、写真が用意出来ませんでしたが、これには「香盤」と呼ばれるものが使用されていました。

香盤とは田に水を入れる時間を「香」を焚いて計る道具で、20センチ程の方形の箱に灰を入れ、灰ならしの道具で灰をならした後、灰の上に香道をつくり、その香道に抹香の粉を入れ、香道の寸法で給水時間を割り当てる仕組みとなっています。

香盤は近畿地方では広く用いられたものだそうで、あと水田の水を管理する為に「番水小屋」と呼ばれる建物も建てられました。

あと、地区にもよるそうですが、この水の割り当てには「水株」と言うものがあり、田の売買は多く水株と共に売買されたそうですが、水株だけでも高値で売買され、その水株に応じて香道の寸法が分けられたのだそうです。

それで以前自宅近くの農家の方とお話した際、現在も同じく水利組合から水を購入している様な事を仰っていまして、水に関しては昔も今も農家の負担は然程変わらないものだと嘆いておられました…

水がないとお米や野菜はつくれませんからね。

用水路の移りかわり6-1

用水路の移りかわり6-2

東大阪市立郷土博物館に香盤が展示してあったと思うのですが?(於 東大阪市)
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2013
11.25

用水路の移りかわり(その5)

Category: 水路跡
「はねつるべ」とは御存知の方もいらっしゃると思いますが、畑などにある井戸から水を汲む為のもので、私がまだ子供の頃にはごく普通に見かけたものでした。

それで子供の頃、このはねつるべはのつぼから肥えをすくうものだと思っていました(勿論子供の頃の話ですが…)

「何ちゅう事を言うとんねん」と怒られてしまいそうですが、そのはねつるべも何か知らない間に見かけなくなったと言いますか、時代の流れで田畑が工場や住宅に変わっていったのも、その理由のひとつであるのは間違いないと思います。

私の実家周辺、楠根辺りでは田んぼが多く、菱屋東(旧菱江川跡)では川跡の砂層であった為だと思いますが、殆ど畑だった様に思い、稲田はその昔河内名所図会にも掲載されております『稲田桃林』でありました。

あと今回、はねつるべの写真を掲載しましたが、右のものはいつ頃かは分かりませんが、昔撮影された写真だそうで、左のものは近年に復元されたはねつるべだそうで、井戸は百年以上前に掘られたものが残っていたそうです。

それで、はねつるべと直接関係ありませんが、稲刈りのあと稲を円柱状に積み上げているものは昔から今現在も見かける事が多いと思います。

私これを「かさ」とか勝手に呼んでましたが、以前家の近くの農家で伺ったところ「すすき」と言うのだそうです。

稲を刈った後にこの様な干し方をするのは河内地方特有だそうで、確かに他地域では横に並べて干している事が多いのではないかと思います(私の知る限りですが)

よく農家で長い木とか竹が沢山積んであるのは、すすきの芯に使うからでしょうか?

用水路の移りかわり5-1

用水路の移りかわり5-2

用水路の移りかわり5-3

用水路の移りかわり5-4

今も畑に井戸が残っているのをよく見かけます(於 東大阪市)
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2013
08.02

用水路の移りかわり(その4)

Category: 水路跡
今回の「用水路の移りかわり」は「昔の用水路の姿」と題したものです。

説明には当時、用水路の行き交った川船について説明があり「井路川船」または「剣先船」とあります。

「剣先船」とは御存知の様に近世の新旧大和川筋で活躍した川船の事で、詳しく説明しますと長くなりますので、大幅に省略しごく簡単に説明したいと思います。

それで、一口に剣先船と言っても四種あったそうで「古剣先船」「新剣先船」「在郷剣先船」「井路川剣先船」と運行するその流域で分けられていたそうです。

説明板にあります剣先船は「在郷剣先船」の事だと思われ、年貢米の輸送等や村用の荷物輸送等に使用されていたそうですが、絵にある様に人を乗せて水路を行き交う事もあったのでしょうか?

因みに元禄五年(1692)の各村々の所有数は、私の地元である稲田村が四艘、森河内村一艘、川俣村一艘、御厨村一艘で、自宅周辺では水走村の八艘となっています。

あと「井路川剣先船」とは大和川付替え後、井路川(用水路)となった長瀬川で運行された船の事で、流域二十三村の所有でした。

用水路の移りかわり4-1

用水路の移りかわり4-2

用水路の移りかわり4-3

用水路の移りかわり4-4

用水路の移りかわり4ー5

久しぶりの更新となりました(於 東大阪市)
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2012
07.22

水路の跡(その7)

Category: 水路跡
学校も夏休みに入りましたが、私は子供の頃(今もですが…)虫や魚を捕りに行くのが好きで、夏休みになると網を片手に近所の友達と原っぱや水路へ良く行ったものでした。

その中で「ザリガニ釣り」は、夏休みになるとほんと良く行ったものでしたが、どなたも幼少期にはザリガニを釣りをする、定番の「釣り場」があったと思います。

私の場合、家から程近い七軒家にある小さな池でしたが、現在その池の水は枯れてしまいましたが、池跡は残っています。

しかし、そこは池だと長年思っていたのですが、実は水路跡だったと言う事を数年前に初めて知りました。

勿論、当時は水路跡と分かりませんでしたが、この周辺には昭和四十二年(1967)に大阪府開発事務所により区画整理事業が行われるまで使用されていた水路(井路川)が幾本も流れていたそうで、私が池と思っていたのはこの水路跡だった言う事が分かりました。

その水路は現在、殆ど埋立られて道路に整備されていますが、私がザリガニ釣りをしていた部分のみ、理由は分かりませんが、先に記した様にその水路跡は残されています。

大阪中央環状線の西沿い、菱江川(玉串川)のすぐ北側にあり、私の使用している古い地図には表示されていますので、インターネットの地図で確認しますと、そこにも同様に表示されていました(長さは50mくらいです)

それで、私はブログを書く為の資料として、自身で購入した書籍等を参考にしています。

インターネットだと簡単に調べる事が出来ますが、それだと10人が10人調べると、ほぼ同じ結果を得られますので、そのまま調べた結果を記事に書いても殆ど意味がありません。

しかし、図書館で調べるのは、不特定多数の人々が集まる場所が苦手な私には「ちょっとなぁ」って感があります。

ですので、図書館には遠く及びませんが、数年かけてぼちぼちと集めた資料が、そこそこの数になり、私がブログを書くに関しては十分事足りる様になりました。

度々記事中で「手持ち資料」と言ってますのは、これら書籍の事でして、今もこつこつと収集しています。

話がそれてしまいましたが、その手持ち資料の中に本庄にあった「盾津飛行場」に隣接して「練兵場」があり、それについての記述がありました。

資料には両軍事施設の場所が正確に記され、それによると練兵場は旧菱江川跡(菱屋東新田)を跨ぐ様にあり、その周囲には濠を掘りそれが周囲との境界になっていたそうです。

この濠はかなり広範囲で掘られた様で、北は三島の南、西は本庄や中野辺り、南は新家近くまであった様です。

それで、この濠のあった位置を再度確認してみますと、どうも私がザリガニ釣りをしていた水路跡は、位置関係からも旧練兵場の濠跡だと思われます(多分?)

今思うと、私の親が戦後すぐの食糧難の頃、本庄にあった川にシジミやザリガニを取りに行って食べた時代があったと話していました。

私は「本庄に川なんかあったんか?」と思いましたが、それは私が物心ついた時には、既に機械団地やトラックターミナル、文具団地が建設されていましたので、それは全く知らない時代の話でした。

練兵場の濠はその後、周辺の都市化や大阪中央環状線の建設に伴い、埋立られ道路に整備されましたが、いずれにせよ私の幼少から小学生の頃、昭和40年台から50年台は何処の川や水路も汚濁が進んでいましたので、遅かれ早かれ 時代の移り変わりと共に埋立てられる運命にあったのでしょう?

かつてこの辺りに練兵場があった名残が、私が子供の頃ザリガニ釣りをした池(水路)だったと言う事が分かるまでに約6年を費やしてしまいました(>_<)

今回は「水路の跡」が「濠の跡」になってしまいました。

練兵場の濠跡1

練兵場の濠跡2

練兵場の濠跡3

練兵場の濠跡4

練兵場の濠跡5

練兵場の濠跡6

練兵場の濠跡7

一概に「昭和時代」って言えませんわ(於 東大阪市)
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2012
05.20

水路の跡(その6後編)

Category: 水路跡
ある休日、久しぶりに実家周辺をぶらぶら歩いていますと遊歩道がありました。

この遊歩道は他の地区でも見かける事がある、水路跡に整備された遊歩道です。

この遊歩道を見た時「昔ここ川流れてたなぁ」と思い出したのですが、とりあえず「前編」で記しております、この水路が「菱江川」と合流していた場所へ行ってみたのが事の始まりでした。

前回、民家と民家の間を流れていた、この水路跡の現在を御覧頂きましたが、今回「後編」はその遊歩道に整備されている場所からの続きとなります。

稲田の水路跡16

稲田の水路跡17

稲田の水路跡18

稲田の水路跡19

稲田の水路跡20

稲田の水路跡21

稲田の水路跡22

水路跡に整備された遊歩道はやはり同じ様に住宅街の隙間を縫う様に北へと続いています。

この場所は菱屋東にある、玉串川水路跡(菱江川跡)に整備されている遊歩道と周辺の環境が似ています。

下流域となる、私の実家周辺にある両水路が、この場所と同じく埋立られたのも、何となく「仕方がなかったのか?」と思えてしまいます。

民家や工場のすぐ傍を流れ、生活排水や工場排水がそのまま流された結果、著しい水質の悪化と悪臭は付近の住民にすれば、行政に何らかの対応を望むのも当然の事だったのかも知れません。

只、幼少の頃にこの時代を過ごした私は意外にこの状況を受け入れていたのかも知れませんで、別に何を考えるともなく「あれはドブ川」だったと言う認識で現在に至っているのだと、最近思う様になりました。

それで、北に続く遊歩道はそれ程長くはなく、市道に突き当たるとそこが遊歩道の出入り口となっています。

稲田の水路跡23

稲田の水路跡24

しかし、今回はこれで終わりではありませんで、もう一つ思い出した事があります。

この遊歩道の先には東大阪でも有数の企業である「近畿車両」があります。

御存知の方も多いと思いますが「近畿車両」は鉄道車両を製造している会社で、私以前工場見学もさせて頂いた事もあり、あと深夜に「新幹線」を陸路で輸送する為にトレーラーでの搬出を見た事があります。

それで、その思い出した事と言うのは、子供の頃鉄道好きだった私は、工場が休日の日曜日によく電車を見に行っていました。

当時、何故か道路沿いに工場の敷地内を横切る狭い道があり、私はそこを「秘密の通路」と呼んでいましたが、その道から完成した鉄道車両を間近で見る事が出来ました。

その後、その道は出入り口も閉ざされ、工場の敷地に取り込まれましたが、実はこの道はこの水路跡だった事に最近気が付きました。

稲田の水路跡25

近畿車両の敷地を横切ると「六郷井路」があり、そこには水路の護岸である鋼矢板と鋼矢板の間にコンクリートで固められた跡がありました。

おそらく、ここから水路は玉串川水路に続いていたのだと思います。

稲田の水路跡26

稲田の水路跡27

久しぶりに六郷井路側から「秘密の通路」へ行ってみましたが、現在も当時あった(?)近畿車両のコンクリート塀が残っていまして、道の幅は当時この半分程で、このコンクリート塀沿いに行くと六郷井路沿いを通る道へと続いていました。

それから井路沿いの道を通り片町線の鉄橋をくぐり、徳庵駅近くを通って家に帰るのがいつものパターンでした。

私が「秘密の通路」と呼んでいた道は実は水路跡だった訳で、偶然にせよこの歳になり初めてその真相が明らかになった(笑)事が、非常に面白おかしい出来事に思えました。

今回、地図等での説明がありませんので、各水路の位置関係の詳細はご説明出来ませんでしたが、かつて旧大和川の分流であった「菱江川」の跡に設けられた「玉川川水路」と江戸時代、新開池内に掘削された「六郷井路」との間に稲田の旧村部の東を流れる水路(井路)があったと言う事をお分かり頂けたらと思いで、今回の記事を記した次第です。

しかし、幼少より慣れ親しんだ二つの水路が、無くなってしまった事はやはり少し寂しく思います。

電車1

電車2

昔の事を思い出しながらぶらぶら歩いて楽しかったです(於 東大阪市)
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2012
05.03

水路の跡(その6前編)

Category: 水路跡
私の地元に地区の「住居表示案内図」が設置されています。

稲田の水路跡1

少し説明しますと、水色で表記された箇所が河川や水路で、案内図の上側を流れているのが「五箇井路」「六郷井路」です。

そして、左下を流れているのが「第二寝屋川」で、中央を左右に流れているのが「菱江川」となっており、右側にあるのが名も無い、以前はゴルフ練習場で現在商業施設になっている付近を流れてい水路で、子供の頃メダカをとって遊んだ事もあります。

それで、徳庵駅右側と三洋電機の社宅(現在はありません)の間にも水路がありますが、この水路は「六郷井路」と「菱江川」の間流れていたもので、稲田の旧村がある南北に続く微高地の東側縁辺を流れていました。

稲田の水路跡2

この水路は私にとって、菱江川と同様に身近な水路でしたが、菱江川が埋立てられた時期とほぼ同時期に埋立てられました。

この水路について詳しい事は分りませんでしたが、かつては「河内名所図会」の「稲田桃林」に描かれている様な桃林の間を流れる水路だったのかも知れません。

それで、現在は埋立てられ道路や遊歩道に整備されていますが、今回は現在の水路跡を御覧頂きたいと思います。

写真奥、左から右へと菱江川が流れていましたが、ここで水路と菱江川はT字型に合流し、水路が菱江川に勢い良く流れ込んでいました。

稲田の水路跡3

稲田の水路跡4

稲田の水路跡5

合流点から北に行くと、アスファルト舗装された道沿いに石積みと配水管が突き出ています。

この時代(昭和40年~50年代)は何でも川に流していた時代で、生活・工場排水も当然この水路に排水していたと思います。

あと、右側にある建物と左側にある建物の建つ場所に高さの違いがあるのは、左側が先述の通り稲田の旧村がある微高地となっているからです。

この辺りは大和川付替え以前は「新開池」の西端で「菱江川」「楠根川」の合流点だったと思われる場所で、江戸時代の絵図によっては池内にある「島」の様に描かれているものもあります。

旧大和川跡はその殆んどが周囲より土地が高くなっていますが、この付近は菱江川が流れていた場所の方が周囲より低くなっています。

それは、この周辺が旧河川の合流点だった為によるものだと思われ、高低差のある複雑な地形となっているのが良く分ります。

住宅の間を抜けると道路幅が広くなりますが、水路は鉄柵の辺りを流れていました。

稲田の水路跡6

稲田の水路跡7

稲田の水路跡8

稲田の水路跡9

それで、いつのも様に脱線しますが、この水路沿いに小学生の頃の仲の良かった女の子の住んでいた平屋建ての長屋がありました。

放課後、良く遊びに誘いに行きましたが、その当時水路は殆んどドブ川の状態で悪臭がし、水の色は黄緑色をしていました。

ここへ来るといつもその事と、周辺に林立していた(?)トイレの臭気筒を思い出してしまいます。

現在は道路となってしまった水路跡をさらに行きますと、大正三年(1914)に建設された新道(稲田小阪線)から続く、徳庵駅への道と交差します。

因みに「長田の道標」はこの「新道」建設を記念して建てられてものだそうです。

昔、この場所に鍛冶屋さんがあり、この場所は架橋ではなく暗渠化されていましたが、道路を過ぎると再び水路は姿を現し、北へと続いていました。

すると、今度は友達の家があった近くに、門で閉じられた水路跡があります。

稲田の水路跡10

許可無く立ち入る事は出来ませんが、反対側からは行く事が出来ますので(笑)行ってみました。

皮肉な事ですが、埋立てた事によって元水路を歩く事が出来るのですが、こうして見ますとこの水路は民家と民家の間を縫うように流れていた事が分ります。

稲田の水路跡11

稲田の水路跡12

稲田の水路跡13

この事は菱江川にも言えるのですが、長瀬川と違い菱江川が埋立てられた理由はそのあたりにあるのではないかと思えます。

その民家と民家の間にある水路跡には、かつて設置されていた鉄柵がありましたが、おそらく埋立て後に水路跡へと出入りする為、一部切断したであろう箇所がありました。

稲田の水路跡14

そう言えば、昔この近くの水路沿いにお風呂屋さんがありましたが、菱江川沿いにもお風呂さんが数軒ありました(現在も一軒だけあります)

東大阪市の下水道の普及率が、現在より低い時代の話です。
                 
稲田の水路跡15

後編に続きます(於 東大阪市)
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2012
04.04

用水路の移りかわり(その3)

Category: 水路跡
今回は「加納地区の昔を再現したもの」です。

再現と言っても、昔の加納の町並みを地図で表したもので、寺社の他に商店が何処にあった等、詳しく記されています。

この町並みの時代は分りませんが、そこには「米屋」「豆腐屋」「酒屋」「駄菓子屋」「乾物屋」「魚屋」等の食料品店に加え「石鹸屋」もあった事が記されています。

石鹸が日本で普及し始めた時期を調べると、明治時代後半だそうですので、この地図は明治時代後半以降の加納の町並みと言う事になります。

それで、村の南側に「吉野神社跡」とあり、吉野神社が「宇波神社」に合祀されたのが、明治五年(1872)ですので、やはり明治時代以降のものかと思われます。

あと「鴻池会所」とあるのですが、加納村は鴻池新田(新開池跡)の東端に隣接しているので、鴻池新田会所の関連施設があったと思われます。

加納の旧村内を南北に「旧河内街道」が通っていますが、この旧街道は宇波神社の参道も兼ね、休日の早朝に犬の散歩がてら歩く事があります。

現在、地図に記された様な商店は殆んどなく、街道沿いにある道標やおかげ燈籠等が、往時の名残と言ったところでしょうか?

用水路(加納井路)は、現在も北側を流れています。

水路の移りかわり3-1

水路の移りかわり3-2

加納1

加納2

加納3

加納4

加納5

加納6

加納7

散髪屋さんが一軒ありますけど(於 東大阪市)
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2012
03.10

水路の跡(その5)

Category: 水路跡
「鴻池井路」は江戸時代に鴻池新田内に掘られた灌漑用の基幹水路で、水路としての役目を終えた現在は埋立てられ、遊歩道に整備されています。

水路跡は「川田ふれあい通り」「鴻池四季彩々とおり」「徳庵希望通り」と名付けられた遊歩道となりましたが、鴻池四季彩々とおりと徳庵希望通りの間は大阪中央環状線を横切り、遊歩道は整備されていません。

鴻池四季彩々とおりを西へ、大阪中央環状線を越えてすぐのところで、水路は90度北に向きを変え、寝屋川沿いにある処理場へと続いています。

この辺りはほぼ地元ですので、私は徳庵希望通りが水路だった頃を知っていますが、かなり水量が少なかったと言え、徳庵橋方面へと流れていました。

それで、中央環状線の西側、水路は西から北に向きを変えていますが、その向きを変える場所にフェンスがあり、その向こうに細い側溝の様な水路がありました。

鴻池井路跡1

鴻池井路跡2

鴻池井路跡3

鴻池井路跡4

水路沿いを歩く事は出来ませんので、一旦府道168号線に出て西へ行き、府道2号線(旧大阪中央環状線)の河内橋本の交差点の少し南側へまわると、水路が辛うじてありました。

しかし、写真の様に草木が生い茂った状態ですので、水路床は確認出来ませんでしたが、そこにコンクリート製の小さな橋がありました。

鴻池井路跡5

鴻池井路跡6

鴻池井路跡7

「コウゼン橋」とありましたが、勿論「コウ」は鴻池の「鴻」ゼンは「善右衛門」の「善」で鴻池新田の所有者、鴻池善右衛門から名付けられているかと思います。

さらにそこから西へ行くとその先には暗渠があり、西へ続いています。

鴻池井路跡8

鴻池井路跡9

若い頃、近くの会社でアルバイトしていた際、この場所を通勤で毎日通っていたにもかかわらず、ここに暗渠がある事はこれまで全く気が付きませんでした(-_-;)

その先は砂利道が続き、再び暗渠となり、府道168号線と交差している所に橋の欄干が残されています。

鴻池井路跡10

鴻池井路跡11

鴻池井路跡12

鴻池井路跡13

府道と水路が斜めに交差していたので、向こう側の欄干の位置が真横から見ると、ずれている様に見えます。

その向こう側の橋の欄干のある場所に「徳庵希望通り」の出入り口があります。

以上、かつて東大阪の北部を東西に流れていた、一本の水路と確認出来た訳ですが、この場所に橋の欄干が残っていた事は何となく(?)覚えていました。

それで、この歳になって「地元再確認」ではありませんが、勝手知った場所でも知らない事や覚えていない事も多くあり、足を運ぶ度に新たな発見があり「えっ?」と思う事が多々あります。

しかし、今でもはっきり覚えているのは、かつてこの水路の岸辺に桜の木が植えられ、春になると綺麗な花を咲かせていた事です。

水路は水路と呼べる様な状態ではなく「ドブ川」でしたが、この場所に水路がない風景と言うのも、時の流れを感じてしまいます。

鴻池井路跡14

子供の頃から通ってたんですけど記憶って曖昧です(於 東大阪市)
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2012
03.04

用水路の移りかわり(その2)

Category: 水路跡
今回は「脱穀」と題した説明板です。

現在、脱穀は機械等で行われていますが、かつては稲穂から籾をはずす際「穂扱き箸」を使用していたそうです。

その後、江戸時代の中期以降は絵にある様な「千歯扱き」が使用される様になりました。

これは稲束を歯にかけて引く事により、多くの籾を取る事が出来たそうで、その為「後家倒し」と呼ばれたそうです。

私、こんな言い回しが非常に好きなんですが、何故「後家倒し」と呼ばれたのか?インターネット等で調べるとその理由が分ります。

その後、写真の様な「足踏み式の脱穀機」が普及し、その後動力に電気やエンジンが使用れる様になり、さらに現在では稲刈りと脱穀を同時に行う「コンバイン」が主流となっているかと思います(あまり詳しい事は知りませんが…)

現在は田植えから稲刈りまで全て機械作業になり、大変な農作業も昔と比べて負担も少なくなったとは思います。

しかし、時折農家の方とお話する事があるのですが、灌漑用水の水利権の事等、何かと御苦労がある様です。

今の時代、農業を営むのは大変な事だと、いつもお話を聞く度にそう思います。

用水路の移りかわり2-1

用水路の移りかわり2-2

用水路の移りかわり2-3

用水路の移りかわり2-4

「後家殺し」とちゃうんですね(於 東大阪市)
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2012
02.26

もじり樋

Category: 水路跡
江戸時代に「新開池」は新田開発され「鴻池新田」となりましたが、新田開発する以前より、新開池内には灌漑用や排水用に水路(井路)が掘られていました。

新田開発後、水路を新たに設ける必要があり、その際に既存の水路と合流しない様、水路の下に暗渠を設置して、立体交差させている場所があります。

その暗渠の事を「もじり樋」と言います。

詳しくは現地に説明板がありますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、現在も道路下に設置されているとの事です。

それで、加納井路は現在も水路として使用され、府道168号線の下にはヒューム管が埋設されています。

加納井路は以前、昔ながらの杭に板を張り付けた護岸が一部残っていましたが、その場所は最近コンクリート製の護岸に改修され、その場所以外は鋼矢板の護岸となっています。

現在、鴻池水路は「鴻池四季彩々とおり」となっていますが、もじり樋をあえて撤去するする必要はなかったのでしょうか?

一度この「もじり樋」を見てみたいと思いますが、掘り起こすのは大変な作業となるでしょう。

江戸時代にこの様な土木工事が行われていました。

もじり樋1

もじり樋2

もじり樋3

もじり樋4

もじり樋5

加納井路1

加納井路2

加納井路3

でもいっぺん見たいです(於 東大阪市)
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2012
02.12

用水路の移りかわり(その1)

Category: 水路跡
これまで、水路跡に整備された遊歩道を取り上げてきましたが、その遊歩道に「用水路の移りかわり」と題した水路の事に関して記されている説明板が設置されています。

全ての遊歩道に設置されている訳ではありませんが、各遊歩道の内で設置されているものを取り上げてみたいと思います。

先ず始めに「用水」と題した説明板ですが、かつて水田より低い位置にある用水路や池から、田に水を入れる為に「踏車」と呼ばれる人力の揚水機が使用されていました。

この「踏車」が実際に使われているのを私は見た事がありませんが、実物が保存されています。

それで実物を見ますと、人が踏車の上に乗り足で回転させるので、これはかなりの重労働だと思いますが、現在は電力によるポンプによって、田圃に水を入れるのが普通の時代になりました。

夏の日照りが続くと「水かき」と呼ばれる田圃に水を入れる作業が毎日続いたそうです。

しかし、考えると「電気」と言うものはほんと有難いものです。

用水路の移りかわり1-1

用水路の移りかわり1-2

用水路の移りかわり1-3

用水路の移りかわり1-4

用水路の移りかわり1-5

用水路の移りかわり1-6

用水路の移りかわり1-7

同じ「用水」の説明板が二つありましたが微妙に違ってます(於 東大阪市)
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2012
01.15

水路の跡(その4)

Category: 水路跡
古箕輪周辺の水路跡を辿り始めた頃「西昇遊歩道」の南の出入り口前で、水路の埋立て工事が行われていました。

この場所は古箕輪、吉原、角田が境界を接する場所で、水路は暗渠となり南へと続いています。

私がこの場所を初めて訪れた時点で、埋立て工事はほぼ完了していた様でしたが、その後この水路跡がどの様に整備されるのか興味があり、定期的に足を運んでいました。

その後、水路跡は遊歩道と道路に整備されましたが、道路については吉原、角田地区に消防車や救急車等の緊急車両が通行する事を考慮して整備されたと、住民の方に伺いました。

この地区は旧村部で道幅の狭い道路が多い為、地区を南北に流れていた水路を道路に整備する様にと要望があったそうです。

あと、元水路だった「西昇遊歩道」と西側から続く水路がこの水門のある場所で合流しています。

その水路はコンクリート三面張りの水路ではなく、水路岸に草木が生い茂る昔ながら水路でしたが、最近コンクリートで護岸されてしまいました。

コンクリート製の護岸はやはり無機質と言いますか、味気ないものがあります。

それ程時間が過ぎている訳ではありませんが、以前の水路の風景が懐かしく思えます。

見慣れた風景も短い時間で変わってしまうものです。

水路跡16

水路跡17

水路跡18

水路跡19

水路跡20

水路跡21

水路1

水路跡2

ほんと知らなければ水路跡とは分りません(於 東大阪市)
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2012
01.05

水路の跡(その3)

Category: 水路跡
いつもこのブログにコメントを頂く方から「鴻池の商店が取壊された跡に水路がある」と教えて頂き、早速確認しに行く事にしました。

現地を訪れますと、幼少の頃より見覚えのあった商店の一画が更地となり、そこに暗渠化されている水路がありました。

鴻池の暗渠1

鴻池の暗渠2

鴻池の暗渠3

その際、初めて知ったのですが、この場所にあった商店は現在ある商店も含めて、水路上にあった事になります。

建物内部はどうなっていたんでしょうか?ちょっと興味のあるところです。

それで、この水路は東側にある量販店の前を通り、灰塚方面へと続いていた様に思います。

その理由は、その量販店の前に暗渠があった様な記憶があるからなのですが、何せ40年以上前の事なので記憶も曖昧です。

西側は鴻池新田会所の周濠と繋がっており、ちょうど横断歩道の場所が暗渠となっているのが分ります。

鴻池の暗渠4

新田開発後、鴻池新田内には東西南北に水路が張り巡らされていましたが、その殆どが現在埋立てられています。

横断歩道上に暗渠がある交差点から北方向に帯状の公園がありますが、その公園は水路跡に整備されたもので、寝屋川の堤防手前まで続いています。

鴻池の暗渠5

鴻池の水路跡1

鴻池の水路跡2

元樋跡

かつて、この場所には「元樋」と呼ばれる樋があり、この場所から取水した用水は、水路経て鴻池新田会所の周濠へ引き込まれ、その周濠から会所内の庭園にある、弁天池の水にも利用されていた様です。

あと、寝屋川の元樋があった場所より少し下流に「鴻池堰」の跡が残されています。

鴻池堰跡1

鴻池堰跡2

鴻池堰跡3

私、この堰については全く記憶が無いのですが、見る限りでは現在ある様な近代的な堰がこの場所にあったと思われます。

現在、その場所にあった堰は撤去され、護岸壁となっていますが、手持ち資料の中に大正時代のこの場所の写真があり、寝屋川の川幅一杯に設置された堰と、会所内に展示されているものと同様の川舟が係留されている風景が写されています。

堰の樋門を下ろすと、10日程後に堰の上流の水が増し、この場所より上流にある各深野新田に水が行き渡ったのだそうです。

今回はそんな鴻池の昔をカメラ片手にぶらりと探索してみましたが、幼少の頃より知るこの「鴻池」も、案外知らない事ばかりだったとあらためて思った次第です。

私が幼少の頃、会所の周濠は悪臭のするドブ川同然でしたが、それが埋立てられ空堀となり、会所は東大阪市によって長期にわたる解体修理の後、現在は通年公開される様になりました。

周濠がドブ川同然だった頃から、40年以上経ってしまいました…

会所周濠

カテゴリーは「水路跡」にさせて頂きました(於 東大阪市)
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2011
10.01

水路の跡(その2)

Category: 水路跡
現在も水路が残る古箕輪とその周辺ですが、埋立てられてしまった水路もあります。

そんな水路跡の中には、長らくも更地となっていた場所がありましたが、そこに住宅が建設され道路が整備されています。

近頃の住宅建設は工期が短期間の様で、道路が整備され住宅が完成する迄、非常に短い期間でした。

「人の手で掘られた水路が、今度は再び人の手によって埋立てられ、また違う用途に使われる」

普段見る風景の一部かも知れませんが、時と共に見慣れた風景も徐々に変わって行く事を実感してしまいます。

実家周辺でも、自宅周辺でもそうなんですが、最近あるべきものがそこに行くとそこには無く「あれ?」って思う事が多くなりました。

町の風景の移り変りは、私が思っているより、もっと早いペースで進んでいるのかも知れません。

水路の跡7

水路の跡8

水路の跡9

水路の跡10

水路の跡11

水路の跡12

水路の跡13

水路の跡14

水路の跡15

最後は奥に見えるスーパーマーケットがリサイクルショップになりました(於 東大阪市)
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2011
08.28

水路の跡(その1)

Category: 水路跡
昔から身近にあった水路がその役目を終え、その多くが埋立てられています。

埋立て後は遊歩道に整備されたりと、かつてそこが水路だった名残を残す所もありますが、殆どは道路に整備されたり、あるいはそのまま埋立てられた状態で帯状の更地となっている場所もあります。

私は自宅周辺の水路跡を中心に数年前から探索していますが、水路が無くなると言う事は同時にその周辺の風景も変わってしまう事にもなります。

かつてそこに水路が存在し、その地域で暮らす人々は普段の生活においても水路とは密接に関わっていた筈ですが、時代は移り変わり、現在は普段の生活において水路を必要としなくなりました。

しかし、私はいつも水路があったそんな時代を思い浮かべながらその跡を辿っています。

それで、今回取り上げます水路跡は私が初めて訪れた際、御覧の様に埋立てただけの状態でした。

その後、この水路跡は道路に整備されましたが、地元の方に伺った話によりますと、土塀のあるお宅は酒屋(造酒屋?)だったそうで、おそらく水路を利用し船で物資等を運んでいたのかも知れません。

この水路は江戸時代から最終的には大坂市中まで繋がっており、船での物資運搬があったと十分想像出来ます。

あと、この地区は道幅が狭い為、消防車が入る事が出来ず、あるお宅で火災が発生した際に消火が間に合わなかった事があったそうです。

それで、この水路跡は道路に整備する事に至ったのだと地元の方が仰っていました。

近年、消防車も大型のものが多くなっているからでしょうか?

そのお話を伺うだけでも、時代の移り変わりと言うものを感じます。

水路の跡1

水路の跡2

水路の跡3

水路の跡4

水路の跡5

水路の跡6

道路になると水路跡って分りませんね(於 東大阪市)
Comment:2
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