Category樋門 1/1

谷川の樋門石材

「平野屋新田会所跡 その13」で、石の樋門を取り上げましたが、大東市の谷川に樋門の石材が保存されています。地元の公民館前に二基の笠石が保存され、一基には嘉永四年(1851)の年号が刻まれています。この樋門は、以前取り上げました樋門の少し西側に設置されていたそうで、周辺は「深野池」を新田開発した「深野新田」と呼ばれた開墾地です。新田開発後、新田内には多くの井路(水路)が開削され、主要箇所に樋門を設置...

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服部川総池 南樋ノ口

服部川公民館前に「服部川総池 南樋ノ口」と刻まれた石材が保存されています。樋ノ口とありますので「竪樋」の一部だと思われますが、竪樋の構造についてそれ程詳しい訳ではありませんので、どの箇所に使用されていた部材かは不明です。竪樋の下部は池の中にありますので、普段目にする機会が少ないのですが、この部材は池床に埋め込んで使用されていたのでしょうか?それで、地元の方にお話しを伺いましたが、その方は部材に関し...

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太子田の樋門石材

太子田にある「大神社」の境内に樋門の石材があります。手持ち資料内にこの石材に関して記述が見当たりませんでしたので(殆んど中河内関連ですので)詳しい事は分かりませんでしたが、以前ここで「樋門建設記念碑」で取り上げました「太子田樋」と関係あるのでしょうか?この樋門の笠石には「八ヶ庄弐十箇村立曾悪水落石門樋」と刻まれていますので、水利組合加入の村々の農業排水が集まる場所の井路川にあった樋門と思われます。...

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南木の本の樋門

南木の本に樋門があります。枠石のみが二基残っていますが、現在は使用されていない様で、笠石には明治四十年(1907)と刻まれています。これまで幾つかの樋門を見て来ましたが、その殆どが江戸時代のものが多く、後年に改造された際にその年号が刻まれている事もありますが、この樋門は明治時代に建てられたものなのか?詳しい事は分かりませんでした。あと、実はこの辺りの水路に関して今回殆んど調べず記事を書いております...

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平野川の樋門

八尾市と柏原市の境界を流れる平野川に樋門があります。年号等は無く、既に使用されていませんが、二基の樋門は笠石等の枠石が撤去されずにそのまま残されています。この樋門について詳しい事は分かりませんでしたが、この場所に樋門があると言う事はここで用水が管理されていたと言う事になります。この樋門のちょうど北側に水路跡がありましたので、樋門から北の地域の農業用水としてこの樋門から取水していたのでしょうか?あと...

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田輪樋

芝山の南側一帯、現在の国分市場付近は江戸時代初期まで、大和川の氾濫水と周囲の丘の雨水等で利用価値のない沼沢地として放置されてきたそうです。その西側には田辺から国分市場へと続く丘陵がある為に水のはけ口が無く、堤防を築いて田地を開いてもすぐに耕作不能となったそうです。それで、この排水不良を改善する為に芝山と松岳山の中間の凹地を利用して隧道が掘削され、滞水を大和川に排水し農地が開墾されました。この排水隧...

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深野南町の樋門

深野南町を流れる水路に樋門が残っています。この樋門は「かみなり樋門」と呼ばれているそうで、嘉永四年(1851)に設けられたものです。それで、良く見られる樋門が二基並んでいるもので、東側の樋門はほぼ原形をとどめているかと思われますが、西側の樋門は笠石が取り払われ、コンクリートで改修してあります。尚、取り払われた笠石は真っ二つに折れ、すぐそばに放置されています(さすが大東市でございます)見ての通り現在...

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元町の樋門

元町にあるポンプ場に樋門があります。この樋門について手持ち資料で調べましたところ、この樋門は「落合橋下伏越樋」と呼ばれているとの事で、安政三年(1856)の年号があるそうです(ポンプ場には立ち入る事が出来ませんので直接確認は出来ません)この場所は「大川」「十三川」「銭屋川」の川が交差し「落合橋」が架けられていますが、大川と十三川だけがこの場所で合流しています。この樋門は「伏越樋」ですので、かつては...

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分水嶺

善根寺町の「車谷」を登って行きますと、大川に「分水嶺」があります。この場所は中河内と北河内との分水嶺で、真っ直ぐ流れ落ちて行くのが中河内側で、分水後に北に方向を変えてから流れ落ちて行くのが北河内側となっています。四条町にある分水樋(石室の分水)は石造ですが、この分水嶺は一部石造ですが、あとはコンクリート製でした。分水嶺自体の設置年代は江戸時代かと思われますが、現在の分水嶺は近代に設置されたものだと...

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南新田の樋門石材

大東市と東大阪市の境界「銭屋川」の南端にあった船着場跡付近に樋門の石材があります。大東市の事ですので保存しているのではなく、放置されている状態です。この石材は樋門上部の笠石の部分で年号等は確認出来ませんでしたが、サイズはやや大きめで水量調節の板を上下させる為にあけられた四角の穴が二ヶ所あります。それで、長年この状態で放置されていますが、後に銭屋川が完全に埋立てられ、道路などに整備されるとなると処分...

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竪樋

溜池で石造、もしくは木造の樋門の様な設備を見かける事がありますが、これは池の水を取水する為に設置された「竪樋」と呼ばれるものです。規模の大きな溜池では、池の堤防の斜面に沿って複数の樋を設置し、あと池床に「底樋」と呼ばれる樋も合わせて設置して、水位に応じて取水したそうです。それで、中河内東部で見られる溜池では、底樋のみが設けられている事が多いかと思いますが、一カ所以上設置されている溜池もあります。実...

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山本樋

柏原市にある長瀬川の取水口「築留二番樋」のある場所、大和川堤防下に「山本樋」と刻まれた樋門の石材があります。ここで少し大和川の樋門について簡単に説明したいと思いますが、築留には「一番」「二番」「三番」と三つの樋門があり、二番、三番は直接大和川から取水しています。しかし、一番樋は直接大和川から取水するのではなく、その上流にあった「古白坂樋」「新白坂樋」「八尺樋」から取水し、その三つの樋から取水された...

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谷川の樋門

大東市には石の樋門が数基残されていますが、、この谷川にある樋門もその内の一つです。谷川は江戸時代に「深野池」を新田開発した開墾地で、新田内には多くの井路川(水路)が掘られました。各村はその井路に堰、樋門を設置し、大雨の際にはその樋門を閉じて水車を据え付け、農民総出で排水作業を行ったのだそうです。また日常でも干害に備え、たえず水量に注意を払っていたのだそうです。安政六年(1859)の年号のあるこの樋...

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地蔵谷川分水樋

生駒山から流れる地蔵谷川(鳴川谷)が、六万寺(長門川)と四条(空川)に分流する場所に分水井堰が設けられています。これは「石室の分水」と呼ばれ、両村に谷川の水を等分する為に江戸時代に設けられ、現在もこの場所に残されています。かつて、鳴川谷では水車による綿実の絞油、精米、製麦が行われ、安永年間に四条村が分水樋の上流に四基の水車の設置を申し出た際、四条、六万寺村に同等の権利がある事から、くじにより設置場...

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灰塚の樋門石材

灰塚周辺は現在も水路(井路)が残る地区ですが、時代の流れと共に埋立てられた水路も多くあります。灰塚は多少土地勘がありますので、私の過去の記憶と周辺の現状と合わせ、水路を辿って歩いていますと、樋門の石材が保存されていました。どうもこの樋門の石材がある場所は、水路が合流していた場所だった様です(私の推測ですが…)それで、樋門がこの場所にあったかは不明ですが、行政が保存したのではなく、おそらく地元自治会等...

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南新田の樋門

東大阪市と大東市の境界付近「大川」と「恩智川」が合流する場所に樋門があります。笠石に弘化五年(1848)の年号が刻まれ、現在は使用されていない様ですが、撤去せずにそのままの状態で周囲をコンクリートで塗り固められています。あと、この辺りはかつて深野池の南端にあたり、大和川付替え後は新田開発され「河内屋南新田」となった場所です。この樋門も新田内を流れていた井路川に設けられた樋門の一つだったと思われます...

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藤五郎樋

古箕輪周辺は多くの水路(井路)が流れ、現在も水路が流れています。その古箕輪の二本の水路が交差する場所に「藤五郎樋」があります。藤五郎樋には現在、三基の樋門が残っていますが、江戸時代水に「剣先船」と呼ばれる物資を運ぶ船が運航され、この場所で水位を調整した後、各村々の井路を通って物資を運んでいたそうで、船着場がありました。現在、この藤五郎樋は閘門としては使用されておらず、交差する水路も東側と西側は埋立...

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