2017
10.29

谷川の樋門石材

Category: 樋門
「平野屋新田会所跡 その13」で、石の樋門を取り上げましたが、大東市の谷川に樋門の石材が保存されています。

地元の公民館前に二基の笠石が保存され、一基には嘉永四年(1851)の年号が刻まれています。

この樋門は、以前取り上げました樋門の少し西側に設置されていたそうで、周辺は「深野池」を新田開発した「深野新田」と呼ばれた開墾地です。

新田開発後、新田内には多くの井路(水路)が開削され、主要箇所に樋門を設置し用排水の管理したそうですが、かつては木製であったものを江戸時代後期に石造の樋門に取り換えられたとの事です。

水路の多くは埋立てられてしまいましたが、現在も水路と樋門が残る場所があり、当時の風景を思い描く事が出来るかと思います。

今回は北河内にある新田開発に因む石造物を取り上げました。

谷川の樋門石材1

谷川の樋門石材2

谷川の樋門石材3

谷川の樋門石材4

谷川の樋門石材5

谷川の樋門石材6

谷川の樋門石材7

谷川の樋門石材8

谷川の樋門石材9

大東市には貴重な石造物の保存を検討して頂きたいのですが(於 大東市)


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2016
06.25

服部川総池 南樋ノ口

Category: 樋門
服部川公民館前に「服部川総池 南樋ノ口」と刻まれた石材が保存されています。

樋ノ口とありますので「竪樋」の一部だと思われますが、竪樋の構造についてそれ程詳しい訳ではありませんので、どの箇所に使用されていた部材かは不明です。

竪樋の下部は池の中にありますので、普段目にする機会が少ないのですが、この部材は池床に埋め込んで使用されていたのでしょうか?

それで、地元の方にお話しを伺いましたが、その方は部材に関して詳しい事は分らないとの事でしたが、公民館の建つ場所は服部川総池の南側を埋立て敷地としたそうで、現在池の西側に沿って通る道路も昔は畦道の様な狭い堤防道だったそうです。

ですので、公民館建設時に池の南側に設けられていた竪樋が撤去され、その一部が保存されているものだと思われますが、部材に刻まれている文字は撤去後にこの場所に竪樋があった事を後世に伝える為に刻まれたものかと思われます。

あと、池の北側には現在も竪樋がありますが、竪樋についてあらためて調べますと、池の底に設置する樋の事を「底樋」と言うそうで、私もこの樋が「竪」「底」どちらの樋にあたるのか、詳しい事は分りません。

今も時折、昔から使用されている石造や木造の樋を見る事がありますが、それも非常に数が少なく、現在その殆どがコンクリートや金属製の排水設備が設置されています。

珍しい竪樋の部材が保存されていましたので、今回取り上げさせて頂きました。

服部川総池南樋ノ口1

服部川総池南樋ノ口2

服部川総池南樋ノ口3

服部川総池南樋ノ口4

服部川総池南樋ノ口5

服部川総池南樋ノ口6

服部川総池南樋ノ口7

服部川総池南北樋ノ口1

服部川総池南北樋ノ口2

服部川総池南北樋ノ口3

樋門のあった場所などもう少し調べてみようと思ってます(於 八尾市)
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2014
11.14

太子田の樋門石材

Category: 樋門
太子田にある「大神社」の境内に樋門の石材があります。

手持ち資料内にこの石材に関して記述が見当たりませんでしたので(殆んど中河内関連ですので)詳しい事は分かりませんでしたが、以前ここで「樋門建設記念碑」で取り上げました「太子田樋」と関係あるのでしょうか?

この樋門の笠石には「八ヶ庄弐十箇村立曾悪水落石門樋」と刻まれていますので、水利組合加入の村々の農業排水が集まる場所の井路川にあった樋門と思われます。

ですので、それが理由かどうか分かりませんが、普通見かける樋門の笠石よりかなり大きく倍くらいの大きさがあります。

中河内内ではこれより大きなものは未だ見た事がありません。

あと、神社より少し南側にも樋門の石材らしきものがありましたが、詳しくは確認していません。

それで、大神社は「古提街道」沿いにあるので、街道歩き等をされている他地域の方も御存知かと思いますが、私この太子田の地車保存会に知人がいますので、祭りの際に「うちの地車見に来いや」といつもお誘いを受けます。

残念ながら、未だ一度も見に行った事はないのですが、大晦日の夜にも甘酒が振舞われるそうで「おいでぇや」って誘ってくれます。

しかし、さすがに私も大晦日の夜に太子田までよう行きません(…)

休日の探索やと別にどないって事無くて、歩いて行っても全然平気なんですけど。

太子田の樋門石材1

太子田の樋門石材2

太子田の樋門石材3

太子田の樋門石材4

太子田の樋門石材5

太子田の樋門石材6

太子田の樋門石材7

太子田の樋門石材8

太子田大神社1

太子田大神社2

年内に一度行こうかと思っていますが今のところ予定です(於 大東市)
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2014
06.29

南木の本の樋門

Category: 樋門
南木の本に樋門があります。

枠石のみが二基残っていますが、現在は使用されていない様で、笠石には明治四十年(1907)と刻まれています。

これまで幾つかの樋門を見て来ましたが、その殆どが江戸時代のものが多く、後年に改造された際にその年号が刻まれている事もありますが、この樋門は明治時代に建てられたものなのか?詳しい事は分かりませんでした。

あと、実はこの辺りの水路に関して今回殆んど調べず記事を書いておりますので、この場所に樋門が設置された経緯等の詳しい事についても詳しい事は分かっていません。

それで、昔設けられた石の樋門も使用されなくなると撤去されたり、現在見かける様な近代的な樋門(水門)に付け替えられる事が多々あります。

私の知っている別の場所にある樋門は撤去されずに、そのまま水路と共に埋立てられたものもあります。

埋立てや暗渠化が進む水路(井路)ですが、通りすがりにふと見ると水路に樋門が残っているのを見ますと、その場所のかつての風景が目に浮かんでしまいます。

見た事の無い風景なんですが…

南木の本の樋門1

南木の本の樋門2

南木の本の樋門3

南木の本の樋門4

南木の本の樋門5

南木の本の樋門6

樋門も最近あまり見んようになりました(於 八尾市)
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2013
10.05

平野川の樋門

Category: 樋門
八尾市と柏原市の境界を流れる平野川に樋門があります。

年号等は無く、既に使用されていませんが、二基の樋門は笠石等の枠石が撤去されずにそのまま残されています。

この樋門について詳しい事は分かりませんでしたが、この場所に樋門があると言う事はここで用水が管理されていたと言う事になります。

この樋門のちょうど北側に水路跡がありましたので、樋門から北の地域の農業用水としてこの樋門から取水していたのでしょうか?

あと、写真を見て頂くと分かりますが、樋門横にコンクリート製の何か(?)がありますが、これは水を引き込む為の設備の跡かも知れません。

しかし、もしかしたら「魚道」かとも思いましたが、これも確認出来ていません。

それで、川釣りが好きな私には魚道はお馴染でして、大和川に合流する「石川」にある魚道で沢山の魚が泳いでいるのを見た事があります。

大和川にも堰の北側に立派な魚道が設けられました。

平野川の樋門1

平野川の樋門2

平野川の樋門3

平野川の樋門4

平野川の樋門5

平野川の樋門6

平野川の樋門7

大和川の魚道

今平野川は魚道をつくるほど魚はいないです(於 八尾市・柏原市)
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2013
07.26

田輪樋

Category: 樋門
芝山の南側一帯、現在の国分市場付近は江戸時代初期まで、大和川の氾濫水と周囲の丘の雨水等で利用価値のない沼沢地として放置されてきたそうです。

その西側には田辺から国分市場へと続く丘陵がある為に水のはけ口が無く、堤防を築いて田地を開いてもすぐに耕作不能となったそうです。

それで、この排水不良を改善する為に芝山と松岳山の中間の凹地を利用して隧道が掘削され、滞水を大和川に排水し農地が開墾されました。

この排水隧道は「田輪樋」と呼ばれています。

掘削は寛永年間(1624~44)後半から着工し、正保元年(1644)に完成したそうで、地元民以外に「金山掘」と呼ばれる鉱山を掘削する専門の技術者や人足を雇い、槌と鑿だけで掘り進んだそうです。

隧道掘削と共に芝山の東側の大和川上流に氾濫水の流入を防ぐ為に「柳原堤」が築堤され、そこに設けられた柳原樋から用水を引き入れたそうです。

それで、田輪樋は全長百二十三間(224m)内寸は五尺(150cm)四方の板張りだったそうで、各板を鎹で留めていたそうです。

尚、この木枠残材が「国分寺地蔵尊」の地蔵堂内に保存されています。

田輪樋はその後、昭和二十五年(1950)の「ジェーン台風」によって決壊するまで、約三百年にわたり使用されてきましたが、その西側に新たに隧道が設置され、ヒューム管が使用されています。

あと、樋門石材の一部が水路に残されているのですが、石材は田畑の中にあるので農家の方に写真を撮らせて頂ける様、お願いすると快く田畑へと入れて下さいました。

写真撮影後、少しその方(高齢の男性)とお話したのですが、樋の事については殆ど御存知ない様でした(笑)

しかし、休日の天気の良い日に田畑の広がる中で農家の方と世間話するのも、なかなかええもんでございます。

柏原と言うところは色んな風景を見せてくれるところです。

田輪樋1

田輪樋2

田輪樋3

田輪樋4

田輪樋5

田輪樋6

田輪樋7

田輪樋8

田輪樋9

田輪樋10

田輪樋11

田輪樋12

田輪樋13

ええ休日でした(於 柏原市)
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2013
06.21

深野南町の樋門

Category: 樋門
深野南町を流れる水路に樋門が残っています。

この樋門は「かみなり樋門」と呼ばれているそうで、嘉永四年(1851)に設けられたものです。

それで、良く見られる樋門が二基並んでいるもので、東側の樋門はほぼ原形をとどめているかと思われますが、西側の樋門は笠石が取り払われ、コンクリートで改修してあります。

尚、取り払われた笠石は真っ二つに折れ、すぐそばに放置されています(さすが大東市でございます)

見ての通り現在、樋門は使用されていませんが、水路の方は周囲を工場に囲まれているとはいえ、その雰囲気は残しているのではないかと思います。

あと、ここは町名からも分かる様に「深野池」が新田開発された場所となります。

深野南町の樋門1

深野南町の樋門2

深野南町の樋門3

深野南町の樋門4

深野南町の樋門5

深野南町の樋門6

深野南町の樋門7

深野南町の樋門8

深野南町の樋門9

深野南町の樋門10

樋門の前が仕事の得意先でした(於 大東市)
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2013
04.20

元町の樋門

Category: 樋門
元町にあるポンプ場に樋門があります。

この樋門について手持ち資料で調べましたところ、この樋門は「落合橋下伏越樋」と呼ばれているとの事で、安政三年(1856)の年号があるそうです(ポンプ場には立ち入る事が出来ませんので直接確認は出来ません)

この場所は「大川」「十三川」「銭屋川」の川が交差し「落合橋」が架けられていますが、大川と十三川だけがこの場所で合流しています。

この樋門は「伏越樋」ですので、かつては銭屋川(昔は六間路川と呼んだそうです)が、大川の下を潜っているもので、この樋門は南側堰口になります。

以前取り上げた「南新田の樋門石材」は、この伏越樋の北側堰口になると思われ、銭屋川(その2)更新時は過去に大川と銭屋川は合流していたと記していたと思いますが、実際は伏越樋によって大川と銭屋川は立体交差していた事になります。

現在、大川の右岸側護岸にあるコンクリートで閉じられている箇所は、昭和期に排水する為に設けられた銭屋川の注ぎ口だったと思われます。

それで、東鴻池町にある「もじり樋」も同じく伏越樋ですが、同じ様に木製の暗渠が埋設されているのでしょうか?

現在の状態とその構造が気になるところです。

元町の樋門1

元町の樋門2

元町の樋門3

元町の樋門4

元町の樋門5

大川の改修で樋門だけが残っているのでしょうか?(於 東大阪市)
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2013
04.07

分水嶺

Category: 樋門
善根寺町の「車谷」を登って行きますと、大川に「分水嶺」があります。

この場所は中河内と北河内との分水嶺で、真っ直ぐ流れ落ちて行くのが中河内側で、分水後に北に方向を変えてから流れ落ちて行くのが北河内側となっています。

四条町にある分水樋(石室の分水)は石造ですが、この分水嶺は一部石造ですが、あとはコンクリート製でした。

分水嶺自体の設置年代は江戸時代かと思われますが、現在の分水嶺は近代に設置されたものだと思われます。

昔はここで香盤を焚いて、双方に水が公平に流れる様に水番をしていたのだそうです。

それで、車谷はかつて水車業が盛んだった所で「辻子谷」と同じく、製粉が主に行われていたそうで、水車業が行われていた谷筋では東大阪市域で最も北にあります。

善根寺町の道標は、この車谷の入り口に建つもので「左 車谷水車道」と刻まれていまして、大正時代のものです。

東大阪市域の生駒山にある水利関係の石造物として、この分水嶺と四条町の分水樋は大変貴重なものだと思います。

電力の普及による水車業の衰退や農地の減少によって、この谷川の水の価値も昔とは全く違うものとなった現在ですが、やはりこう言ったものは後世に残しておいて欲しいと思うのは私だけでしょうか?

残して欲しいものです。

分水嶺1

分水嶺2

分水嶺3

分水嶺4

分水嶺5

分水嶺6

分水嶺7

分水嶺8

分水嶺9

かつて水利権の厳しい時代があった事が良く分かります(於 東大阪市)
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2013
03.08

南新田の樋門石材

Category: 樋門
大東市と東大阪市の境界「銭屋川」の南端にあった船着場跡付近に樋門の石材があります。

大東市の事ですので保存しているのではなく、放置されている状態です。

この石材は樋門上部の笠石の部分で年号等は確認出来ませんでしたが、サイズはやや大きめで水量調節の板を上下させる為にあけられた四角の穴が二ヶ所あります。

それで、長年この状態で放置されていますが、後に銭屋川が完全に埋立てられ、道路などに整備されるとなると処分されてしまうかも知れません。

大東市はここ以外にも樋門や石材が残っていますが、一部を除いてその殆どがそのままの状態であり、いつ撤去され処分されないとも限りません。

市域の約2割近くが深野池の干拓地である「新田」であり、今も多くの水路(井路川)が残ります。

これら現在に続く基盤を作った「新田開発」と、それに伴い設けられた「樋門」等の歴史遺構を良好な状態で保存して頂きたいものです。

大東市には改めて熟考願いたいです。

南新田の樋門石材1

南新田の樋門石材2

南新田の樋門石材3

南新田の樋門石材4

南新田の樋門石材5

南新田の樋門石材6

これではあまりにも…(於 大東市)
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2012
08.31

竪樋

Category: 樋門
溜池で石造、もしくは木造の樋門の様な設備を見かける事がありますが、これは池の水を取水する為に設置された「竪樋」と呼ばれるものです。

規模の大きな溜池では、池の堤防の斜面に沿って複数の樋を設置し、あと池床に「底樋」と呼ばれる樋も合わせて設置して、水位に応じて取水したそうです。

それで、中河内東部で見られる溜池では、底樋のみが設けられている事が多いかと思いますが、一カ所以上設置されている溜池もあります。

実は竪樋に関して、私は詳しい事は知りませんが、水路等に設置されている樋門と違い水中にありますので、構造的な事を確認する事は減水時以外では難しいと思います。

しかし、現在も使用されているものもある様で、また使用されずにそのままのもあり、それは池床や堤防内に埋設されている為、撤去せずにそのままの状態で放置(?)しているのかも知れません。

水位の調節(満水時)は殆ど「余水吐」で行われているかと思われますが、現在はどの溜池にも近代的な取水口が設けられています。

農地の減少により農業用水が不要となり、溜池の必要性が低くなった現在、埋立てられ別の用途に転用される溜池が多くなりました。

竪樋1

竪樋2

竪樋3

竪樋4

竪樋5

竪樋6

竪樋7

竪樋8

はじめは「何やろう?」と思っていました(於 東大阪市・八尾市)
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2012
04.23

山本樋

Category: 樋門
柏原市にある長瀬川の取水口「築留二番樋」のある場所、大和川堤防下に「山本樋」と刻まれた樋門の石材があります。

ここで少し大和川の樋門について簡単に説明したいと思いますが、築留には「一番」「二番」「三番」と三つの樋門があり、二番、三番は直接大和川から取水しています。

しかし、一番樋は直接大和川から取水するのではなく、その上流にあった「古白坂樋」「新白坂樋」「八尺樋」から取水し、その三つの樋から取水された用水は大和川堤防のすぐ外側を平行して流れる水路(井路)となった後、一番樋へ流れ込んでいました。

それで、山本樋は一番樋と八尺樋の間にあり、太平寺・大県・平野・法隆寺・神宮寺の五村の用水をまかなっていました。

現在、築留の上流にあった三つの樋門は堤防内に埋められてしまいましたが、一番樋の名残が二番樋のすぐ横にある小さな水門となっています。

「山本樋」は樋門の石材だけがこの場所に保存されています。

山本樋1

山本樋2

山本樋3

築留一番樋跡1

一番樋は必要性がなくなったんでしょう?(於 柏原市)
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2012
03.08

谷川の樋門

Category: 樋門
大東市には石の樋門が数基残されていますが、、この谷川にある樋門もその内の一つです。

谷川は江戸時代に「深野池」を新田開発した開墾地で、新田内には多くの井路川(水路)が掘られました。

各村はその井路に堰、樋門を設置し、大雨の際にはその樋門を閉じて水車を据え付け、農民総出で排水作業を行ったのだそうです。

また日常でも干害に備え、たえず水量に注意を払っていたのだそうです。

安政六年(1859)の年号のあるこの樋門は現在、枠石だけが残されています。

谷川の樋門1

谷川の樋門2

谷川の樋門3

谷川の樋門4

撤去されずに残っていますが今は使われていません(於 大東市)
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2011
09.11

地蔵谷川分水樋

Category: 樋門
生駒山から流れる地蔵谷川(鳴川谷)が、六万寺(長門川)と四条(空川)に分流する場所に分水井堰が設けられています。

これは「石室の分水」と呼ばれ、両村に谷川の水を等分する為に江戸時代に設けられ、現在もこの場所に残されています。

かつて、鳴川谷では水車による綿実の絞油、精米、製麦が行われ、安永年間に四条村が分水樋の上流に四基の水車の設置を申し出た際、四条、六万寺村に同等の権利がある事から、くじにより設置場所が決められ、設置者と土地所有者間で借地年貢(借地料)の取り替せが行われたそうです。

それで、水利権と言うものが非常に厳しかった時代、平野部では近隣の村同士で「水論」が起こった事が記録に残されていますが、この分水樋はそんな時代を後世に伝える、貴重な石造物であると思います。

現在は役目を終えたこの分水樋ですが、現状のままでの保存をお願いしたいものです。

分水樋1

分水樋2

分水樋3

分水樋4

分水樋5

分水樋6

無断分水禁止

時折土砂に埋もれてしまう時があります(於 東大阪市)
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2011
07.22

灰塚の樋門石材

Category: 樋門
灰塚周辺は現在も水路(井路)が残る地区ですが、時代の流れと共に埋立てられた水路も多くあります。

灰塚は多少土地勘がありますので、私の過去の記憶と周辺の現状と合わせ、水路を辿って歩いていますと、樋門の石材が保存されていました。

どうもこの樋門の石材がある場所は、水路が合流していた場所だった様です(私の推測ですが…)

それで、樋門がこの場所にあったかは不明ですが、行政が保存したのではなく、おそらく地元自治会等で保存されたかと思われます。

大東市はあまり文化財の保存に積極的では無い様ですので。

南に広大な「鴻池新田」があり、幾本もの水路が流れていたこの地区には、もしかすると保存されずにそのまま取り壊され、撤去された樋門が多くあったかも知れません。

そう考えるとこの石材は地区の歴史を伝える、貴重になるかと思います。

灰塚の樋門石材1

灰塚の樋門石材2

灰塚の樋門石材3

灰塚の樋門石材4

灰塚の樋門石材5

そこそこ大きな樋門だったみたいです(於 大東市)
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2011
05.05

南新田の樋門

Category: 樋門
東大阪市と大東市の境界付近「大川」と「恩智川」が合流する場所に樋門があります。

笠石に弘化五年(1848)の年号が刻まれ、現在は使用されていない様ですが、撤去せずにそのままの状態で周囲をコンクリートで塗り固められています。

あと、この辺りはかつて深野池の南端にあたり、大和川付替え後は新田開発され「河内屋南新田」となった場所です。

この樋門も新田内を流れていた井路川に設けられた樋門の一つだったと思われますが、現在この井路川(用水路)は遊歩道に整備され、かつては下流(北側)で「銭屋川」と合流していました。

遊歩道より北側に残っていた水路は、現在埋立てられています。

南新田の樋門1

南新田の樋門2

南新田の樋門3

河内屋南橋1

この井路川は恩智川から取水していたんでしょうかね?(於 大東市)
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2011
02.04

藤五郎樋

Category: 樋門
古箕輪周辺は多くの水路(井路)が流れ、現在も水路が流れています。

その古箕輪の二本の水路が交差する場所に「藤五郎樋」があります。

藤五郎樋には現在、三基の樋門が残っていますが、江戸時代水に「剣先船」と呼ばれる物資を運ぶ船が運航され、この場所で水位を調整した後、各村々の井路を通って物資を運んでいたそうで、船着場がありました。

現在、この藤五郎樋は閘門としては使用されておらず、交差する水路も東側と西側は埋立てられています。

それで、東側の大きな樋門に刻まれています「樋門改築記念」によりますと、この樋門は皇紀二千六百年(昭和十五年、1940)に改築されたと記され、東側にある樋門には石積がありますが、いつの時代のものか詳しい事は分りませんでした。

自宅から程近い場所ですので、散歩や会社帰りにぶらりと立ち寄る事もある場所です。

藤五郎樋1

藤五郎樋2

藤五郎樋3

藤五郎樋4

藤五郎樋5

藤五郎樋6

藤五郎樋7

藤五郎樋8

藤五郎樋9

ほんま、ここへはよう来ます(於 東大阪市)
Comment:2
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