Category河川・水路 1/2

楠根川(その12)

今回は「その10」の続きとなりますが、御厨の交差点西側から南へと楠根川の旧流路を辿ると、現在その流路跡には自動車学校があります。更にその自動車学校と隣接している、私立高校の敷地内を楠根川は流れていましたが、南側にある私立幼稚園を過ぎた所で東にカーブしている道路があり、これが楠根川の流路跡となります。実際には東から流れて来た楠根川が、この場所で北に向きを変えていたのですが、地区に設置されている町内商...

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一生濠

「一生濠」とは善根寺町の東側にある「足立家屋敷跡」近くを流れる、大川の砂防ダム辺りから西へと流れる水路(井路川)で大阪外環状線を越えた所で北に迂回し、現在は「銭屋川」に流れ込んでいます。それで、善根時の西部は水路や水路跡が多く、実際にどれが一生濠だったのか?実は私、正確には分かっていませんで、かつて「原始ハス」が自生していた水路もこの地区を流れ、おそらく一生濠と交差していたかと思われます。しかし毎...

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楠根川(その11)

江戸時代の新田開発以前の「楠根川」とはどの様な川だったのか?そんな私の疑問から地元稲田を中心に素人レベルではありますが、ここ数年探索を続けております。楠根川が菱屋中新田(後に藤戸新田)へと開墾された当時の様子を書き記したものがあり「葭嶋のところは有りの姿のまま田地にし、両川堤を過半地ならし畑にしたところもあり、また新堤は古提の所々を見合わせ船で土を運んで築き立てた」のだそうです。葭嶋とは河川敷内の...

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三八水路(その2)

前回「その1」では緩衝緑地公園の跨道橋から東へと水路を辿りましたが、今回は西へと辿ります。それで、この「三八水路」の範囲ですが、実際のところ詳しい事は分かりませんで、水走と川田地区を東西に直線で流れる場所をその流路の範囲と前提にして記事を書かせて頂きたいと思いますが、水路の範囲はあくまでも私の勝手な推測ですので御了承願います。跨道橋から眺めるこの水路は東方向と同じく直線的に流れているのが分かり、周...

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戸堀川

「戸堀川」は「恩智川」と「長門川」の間を東西に開削された放水路で普段は水が流れていません。私、普段から何気なくこの川床を歩いたり、自転車に乗って通っていましたが、ある日「もしかしたらこれ川とちゃうん?」と思いインターネットで調べてみました。いつも川の事に関して調べる際、必ず参考にさせて頂いています「AGUA」と言うサイトがあるのですが、このサイトは中河内を流れる河川をほぼ網羅されていまして、かなり...

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三八水路(その1)

東大阪市内には現在も水路が流れている地区がありますが、埋立てや暗渠化によりその数も減少の一途を辿っているかと思います。その理由は、昭和の高度成長期に工場廃水等で汚染が進んだ事や農地の減少で農業用水の需要が減少した事等が挙げられるかと思いますが、全ての水路が無くなった訳ではなく、私の住む東大阪の農家では今現在も水路から農業用水が供給されている所もあります。それで、そんな水路の中には名が付けられている...

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楠根川(その10)

私の通っていた小学校の校門横に東大阪市が設置した「楠根川」の説明板があります。この説明板には河内名所図会の「稲田桃林」と昭和十七年(1942)に撮影された御厨、長田付近の航空写真が掲載されています。いつも記事説明の為に地図等は作成しませんので、今回もこの説明板の写真を使わせて頂きますが、少し説明すると中央を流れるのが「楠根川」で下に東西に通る道が「産業道路」その産業道路にTの字に交差しているのが、...

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楠根川(その9)

「楠根川」は私の通っていた小学校のすぐ前を流れていましたが「第二寝屋川」開削後に廃川となり、現在「楠根川緑道」となっています。私が小学校入学時は既に第二寝屋川は開削され、緑道に整備されていましたので、私は昔から今現在もこの辺りの楠根川跡の事を「公園」と呼んでいます。ですので、私の川の原風景と言うのは「菱江川」と「第二寝屋川」なんですが、既に菱江川は無く、第二寝屋川だけが現在も私が通っていた小学校の...

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楠根川(その8)

ほんま暑い日が続いております。しかし、最近の暑さは昔と比べて尋常ではありませんで、それこそ人が倒れる程の暑さです。私が子供の頃も暑い事には違いはありませんでしたが、どちらかと言うと気温が上がって体の調子が悪くなるよりは「光化学スモック」等で体の調子が悪くなった方が多かったのでは?と思うそんな時代でした。ところで、学校も夏休みに入ると私は宿題もそこそこに好きなザリガニ釣りや虫取りに行くのが好きでそれ...

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楠根川(その7)

旧楠根川跡に「まるや橋」の親柱が残っています。まるや橋は地元で「中道」と呼ばれる、稲田の旧村を南北に通る道と楠根川が公差する場所に架けられていた橋で、中道は私の小学校の通学路でもありました。橋がいつの時代に架けられたのかは私知りませんが、私が小学生の頃は欄干も残り、下校時に友達と腰かけた思い出があります。当時、既に楠根川は廃川となり埋立てられていましたが、現在の様に緑道として整備されておらず、単に...

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平野川(その5)

本郷の平野川沿いに柏原船の「舟だまり跡」があります。街道沿いに案内標識もありますし、多く紹介もされているので御存知の方も多いと思います。柏原船については柏原の町が大好きな私にとって、非常に興味のある事柄ですので、資料を調達してかなり調べましたが、それを全てここで記す事は出来ませんので、ごく簡単に説明したいと思います。大和川と石川の合流点に位置する柏原村は常に洪水の危機にさらされ、近世の初めの元和、...

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楠根川(その6)

明治三十二年(1889)「耕地整理法」が制定されました。大阪府下の多くの農村では耕地整理組合を組織しましたが、耕地の区画形状を変更したり、道路、畔道、溝渠の変更を行う事は、然程現実的ではなかったのだそうです。その理由は、大阪付近は従来耕地の区画も広く、当時の農商務省が「鴻池新田」を調査したところ、耕地整理を実施しても「差したる便利なからん」と結論付けたそうです。その後、耕地整理法が改正され「灌漑排...

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銭屋川(その2)

平野屋と南新田の境界を通る諸福中垣内線が、銭屋川を越える場所に「平野屋橋」が架けられています。平野屋橋は昭和三十八年(1963)に架けられたもので、銭屋川はこの橋を過ぎると更に汚れが目立つ様になります。汚れ以外にかなりの悪臭がし、これはある意味懐かしい「ドブ川」の臭いでして、私の幼少の頃の昭和40年代から50年代には、何処の川や水路でもこの悪臭がしていたと思います。私の実家近くを流れる「菱江川」や...

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銭屋川(その1)

「銭屋川」は「平野屋新田会所跡」の西側を流れ、その名にある「銭屋」とは、江戸時代の大和川付替え後「深野池」を新田開発した「深野南新田」「河内屋南新田」の所有者だった高松家の屋号「銭屋」に因んでいます。あと、町名になっています「平野屋」も、同様に新田の所有者であった、大坂今橋の両替商「平野屋」からきているもので、新田は譲渡され所有者は幾度か変わっていますが「平野屋」の地名は現在も残り、銭屋川に架かる...

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平野川(その4)

「柏原船」には、船や積荷を管理する「会所」が設けられ、柏原、平野、天満の三箇所にあったそうです。写真の家屋は、現在も残る柏原の会所跡で「札場」もしくは「札さし場」と呼ばれていたそうで、積荷や出入りする船を監視し易い様、中二階構造となっています。それで、このお話は会所の所有者の方にお伺いしたのですが、以前よりこの中二階の事に関心がありましたので、たまたまその場に居合わせた方にお話しを伺うと、偶然にも...

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平野川(その3)

江戸時代から明治時代にかけて、平野川では「柏原船」と呼ばれる川舟で船運が営われていました。明治二十二年(1889)現在のJR関西線が開通後、物資を大量かつ短時間で輸送する時代が訪れると、柏原船は衰退しその役目を終えました。その平野川筋にはかつて「使い場」と呼ばれる、物資を積み降ろした場所が流域の村々にあったそうです。現在、唯一この場所に当時のまま残っていましたが、平野川の改修工事で流路が変更された...

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第二寝屋川(その2)

私が小学校に通っていた頃、既に「第二寝屋川」は開削され「楠根川」は埋立てられ、廃川となっていました。小学校の西側に沿って流れる、第二寝屋川の流路には、かつて水路が流れていたそうで、開削に伴いその水路は消失しましたが、その水路から分岐していたであろう小さな水路の一部が、私が小学生の当時まだ残っており、その水路跡で遊んだ思い出があります。それで、第二寝屋川開削の為、その流路上にあった田畑は川床に、また...

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恩智川(その4)

「恩智川」は昭和時代に大規模な河川改修工事が行われ、私が知る恩智川はその改修工事後のコンクリートで護岸された現在の恩智川です。私は改修以前の恩智川を知らないのですが、昔の写真を見ると現在よりも川幅が狭く、自然堤防だった様です。それで、恩智川は明治時代に大規模な浚渫工事が行われましたが、その後土砂が堆積し、度々氾濫したそうです。昭和三年(1928)に大阪府の指示により、恩智川流域の八つの村からなる「...

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御領(その4)

御領に今も残る水路は埋立てられませんでした。それは、地元の方々の思いと行動の結果であると思います。御領の水路は現代の「濾過水を循環させる」と言う技術でよみがえりました。それが良いのか悪いのか、私がここで言う立場ではありませんが、水路があるその風景が後世まで残る事には間違いないと思います。私は御領の住人ではありませんが、正直のところ地元の事の様に嬉しい気持ちになりました。これまでの様に水路を見ながら...

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御領(その3)

水辺が好きな私にとって、今も水路が残る「御領」を訪れる事は、楽しみの一つになっていました。訪れても別に何をする訳でも無く、だた水路を見ているだけですが、日々の慌ただしい生活の中、休日にこの場所でぼんやりする事が、もしかすると贅沢な事なのかも知れないと思う時があります。しかし、現実には水路は次々と埋立てられ、昔見た水路のある風景を記憶の中でしか見る事が出来なくなって行く事が、何か淋しく感じてしまいま...

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楠根川(その5)

藤戸新田にある小学校のすぐ側をかつて楠根川が流れていました。現在は埋立てられ「楠根川緑地」として整備されていますが、小学校のある場所には昔養豚場があり、昭和40年代初期の頃は第二寝屋川開削数年後でしたので、川跡の一部がそのままの状態で残っていた所もありました。この辺りは実家から近く、昔から土地勘があるので、当時の事を今も良く覚えています。それで、ある休日に旧楠根川跡を辿っていますと、緑地のベンチに...

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五箇井路

「五箇井路」は「六郷井路」と同様、大和川付替え以前の新開池内に開削された悪水井路(農業用排水路)で徳庵井路(現在の寝屋川)に繋がっています。詳しくは市の設置した説明板がありましたので、そちらを御覧頂きたいと思います。それで、最近は自宅に近い東側、古箕輪周辺へ足を運ぶ事が多いのですが、それまでは実家に近い西側、寝屋川との合流付近の方が幼少の頃より身近な川(水路)でした。この付近は二つの水路が近接して...

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平野川(その2)

「平野川」は大和川付替え後にその流路が分断され、下流の村々では灌漑用水が不足する事となりました。現在、平野川は大和川に設置されている「青地樋」より取水されていますが、江戸時代に干害で農民が困窮に陥った際、弓削村の庄屋「西村市郎右衛門」が幕府に無断で新川(現在の大和川)に青地、井出口両樋を開き、平野川(了意川)へと水を引き入れたのだそうです。詳しくは説明碑を御覧頂きたいと思いますが、その西村市郎右衛...

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恩智川(その3)

恩智川は昭和時代に大規模な河川改修工事が行われ、川幅の拡張、川床の浚渫、護岸のコンクリート化等、現在の恩智川はこの改修工事によるものです。その恩智川の最下流部で流路変更が行われ、現在その旧流路が雨水の貯留施設として整備されています。それで、私この付近は土地勘があるのですが、この場所が恩智川の旧流路だとは知りませんで、数年前に気が付きました。どう見ても川跡に見えますから(…)手持ちの資料の江戸時代に...

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楠根川(その4)

「旧菱屋中顕彰碑」は平成時代の区画整理の町名変更の際「菱屋中」の地名が無くなった事を機に、地元の方達によって建てられたものです。東大阪には「菱屋西」「菱屋東」と菱屋と名の付く町名がありますが、これは江戸時代の大和川付替えによって新田開発された菱屋西新田(長瀬川跡)菱屋東新田(菱江川跡)が、現在もそのまま町名として残されている事によります。それで「菱屋中」は大和川付替え後、旧楠根川を新田開発した「菱...

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楠根川(その3)

「楠根川」は中世に掘られた排水路(悪水井路)で、その流路の大半は古代から続く条理制の地割りに沿って、屈曲しながら現在の八尾と東大阪市域を北流していました。その後、大正から昭和時代に流路を直線的にする河道改修工事が行われ、これが現在の「楠根川」「第二寝屋川」となっています。改修工事後、旧楠根川跡は埋立てられ道路や遊歩道、公園等に整備されていますが、数年前まで屈曲して流れていた楠根川の旧流路が残されて...

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六郷井路

「六郷井路」は古箕輪から徳庵(寝屋川)まで続く、十六ヶ村組合(鴻池新田、吉原、新庄、箕輪、灰塚、加納、橋本新田等)の悪水井路(農業用排水路)でした。寛文元年(1661)に「新開池」の中に開削された水路で、新開池の新田開発後も縦横に開削された水路と接続される事なく、現在に至っているのだそうです。それで、東側(古箕輪周辺)は自宅から程近い場所ですが、昔はどんな風景だったのか?残念ながら私は知りません。し...

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楠根川(その2)

かつて、八尾市域の楠根川は農地の区画に沿ってクランク状に流れていました。昭和30年代後半から流域の都市化が進み、第二寝屋川開削に続き楠根川も河川改修が行われました。昭和46年(1971)から18年の歳月をかけて、流路の直線化と川幅の拡張等の工事が行われ、これが現在の楠根川となっています。それで、旧流路は現在「旧楠根川緑地」として、4つのブロックに分けて整備されています。今回は一番南側(上流側)にあり...

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恩智川(その2)

東大阪市域の恩智川の堤防に写真の様な親水施設(?)があります。以前から「何でここにこれがあるんやろう?」とは思っていましたが、その後布市の方と話す機会があり、その会話の中であれは恩智川の「船着場跡」だと言う事を教えて頂きました。恩智川にはその昔「剣先船」と呼ばれる船運が運航され、この船着場近くでは日下村、水走村、植付村が剣先船を所有していたそうです。恩智川から寝屋川と繋ぎ、大坂市中までの水運は、恩...

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御領(その2)

御領と言えば、水路に「三枚板」と呼ばれる木製の田舟(川舟)が浮かんでいました。長らく使われる事も無く、このままま朽ち果ててしまうのか?と思っていたのですが、ある日訪れますとその田舟の姿はありませんでした。長らく水路に放置されていた理由は、水運が必要でなくなった事は勿論ですが、舟を修理する職人さんがいなくなった事も、その理由なのだそうです。それに加え「舟釘」と呼ばれる特殊な釘の入手が困難になったのだ...

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