2017
07.09

楠根川(その12)

Category: 河川・水路
今回は「その10」の続きとなりますが、御厨の交差点西側から南へと楠根川の旧流路を辿ると、現在その流路跡には自動車学校があります。

更にその自動車学校と隣接している、私立高校の敷地内を楠根川は流れていましたが、南側にある私立幼稚園を過ぎた所で東にカーブしている道路があり、これが楠根川の流路跡となります。

実際には東から流れて来た楠根川が、この場所で北に向きを変えていたのですが、地区に設置されている町内商工案内地図(調べるとそう言うそうです)に、現在道路として表示されていました。

楠根川12-1

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楠根川12-3

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楠根川12-10

あと、この場所にはかつて揚水機が設置されていたそうです。

それで、八戸ノ里駅南側周辺はよく知る場所ですが、楠根川がこの場所を流れていた時代の事は知る筈も無く、私の最も古い記憶は万国博覧会が開催されていた頃で、その当時既に「第二寝屋川」は開削されていました。

流路跡を東へ行くと「旧大阪中央環状線」を横断し、更に東へ行くと第二寝屋川の堤防が見えて来ます。

周辺は高層住宅が建設され、私が幼少の頃とは風景は変わってしまい、あと以前近くに市民病院があった事も御承知かと思います。

楠根川12-11

楠根川12-12

楠根川12-13

それで、第二寝屋川は大正時代に河川改修工事が行われた楠根川を取り込む形で開削されたものですので、巨摩橋付近から御厨まではほぼ同じ流路ですが、今回取り上げています、改修工事以前の楠根川は近鉄の鉄橋西側付近を南北に流れ、東大阪アリーナ東側を通る道路が流路跡となっています。

八戸ノ里ポンプ場より南へ通ずる道がそれにあたりますが、この場所にポンプ場が設置されている理由は分かりません。

楠根川12-14

楠根川12-15

楠根川12-16

今回はこれまでにしたいと思いますが、おさらいとして楠根川は「江戸時代の新田開発以前まで」「新田開発以降、大正時代の改修工事まで」「大正時代以降、第二寝屋川開削まで」の大まかに三つの時代をそれぞれに分けて記事を更新していますので、御理解の程宜しくお願いしたいと思います。

続きます。

楠根川12-17

今は道路となり殆んど川跡と分からなくなってます(於 東大阪市)
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2015
04.05

一生濠

Category: 河川・水路
「一生濠」とは善根寺町の東側にある「足立家屋敷跡」近くを流れる、大川の砂防ダム辺りから西へと流れる水路(井路川)で大阪外環状線を越えた所で北に迂回し、現在は「銭屋川」に流れ込んでいます。

それで、善根時の西部は水路や水路跡が多く、実際にどれが一生濠だったのか?実は私、正確には分かっていませんで、かつて「原始ハス」が自生していた水路もこの地区を流れ、おそらく一生濠と交差していたかと思われます。

しかし毎度の事ながら、今回も分からないなりに記事にさせて頂きますが「味岡新田」の記事でも簡単に記しております「足立家」は、大阪城石垣普請に従事し、生駒山から切り出された石は足立家の屋敷の北側から一生濠を通り、大坂へ運ばれたのだそうです。

かつてこの水路は大雨の際、水が氾濫し洪水に悩まされたそうですが、平成時代に改修工事が行われ、ポンプ場が設置されました。

それで、地図を見て頂きますと分かりますが、大東市の南新田と東大阪市の善根寺町との境界付近、大阪外環状線のすぐ西側で水路は北に迂回して流れています。

この場所は「ろくろ場」と呼ばれたそうで、先に記しました様に足立家屋敷付近からこの水路を通り、この場所まで運ばれたそうです。

「ろくろ」と言うのは、重い物を動かす為の滑車装置の事だそうで、この場所にあったろくろで運んだので、それが字名として残ったとの事です。

尚、この場所はラブホテルの敷地に沿って流れている為、全景は写真撮影出来ませんでしたが、以前銭屋川との合流点から撮影した写真がありましたので、併せて掲載させて頂きます。

それで、かつて善根寺の西端には「深野池」が存在し、深野池から恩智川、寝屋川を経由し大坂まで生駒石は運ばれました。

日下村の庄屋家に残る、天和三年(1683)の古文書には、日下村では剣先船を二隻所有し、六十年以上前に大阪城築城の石垣普請の際に日下村の山から栗石を大坂へ運ぶ為に使用したものと記されているそうです。

これは、元和時代の徳川秀忠の大阪城改築工事の際に、剣先船で大坂に栗石を積み出していた事が分かる貴重な資料だそうです。

かつて、生駒石を運んだ井路川も、現在は遊歩道等に整備されています。

一生濠1

一生濠2

一生濠3

一生濠4

一生濠5

一生濠6

一生濠7

一生濠8

一生濠9

一生濠10

一生濠11

調査継続中です(於 東大阪市)
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2014
12.14

楠根川(その11)

Category: 河川・水路
江戸時代の新田開発以前の「楠根川」とはどの様な川だったのか?

そんな私の疑問から地元稲田を中心に素人レベルではありますが、ここ数年探索を続けております。

楠根川が菱屋中新田(後に藤戸新田)へと開墾された当時の様子を書き記したものがあり「葭嶋のところは有りの姿のまま田地にし、両川堤を過半地ならし畑にしたところもあり、また新堤は古提の所々を見合わせ船で土を運んで築き立てた」のだそうです。

葭嶋とは河川敷内の葭が生えている場所の事だそうで、あと「島」とは河川敷を指し、旧長瀬川跡にも「外島」と呼ばれる場所があり、同じく水の流れていなかった場所と言う事になります。

現在、御厨より下流に整備されている「楠根川緑地」と比較すると、その規模の違いが良く分かるかと思いますが、新田開発以前の楠根川はそれほど河川敷の広い川だったと想像する事が出来ます。

それで、楠根川跡の「藤戸新田」として町名が残っているのは第二寝屋右岸側、藤戸小学校付近だけとなっていますが、府道15線と中央大通りの交差点には「藤戸新田」と交差点名が表示されています。

楠根川59

楠根川60

この場所は現在、町名としては長田西、川俣本町の境界付近となっていますが、この場所もかつて楠根川の河川敷だった場所です。

交差点の所に長田村の墓地(長田西河墓地)がありますが、この場所は長田の旧村部から少し離れています(長田の小字名に「西川」があるのでおそらくこの場所かと思われます)

これは墓地の立地条件として、村から離れている事や川の近くの小高い場所が等が挙げれ、これは中河内の旧大和川流域の村々の多くにも当てはまり、友井墓地の様に見上げる程の場所に墓地が作られている所もあります。

楠根川61

ですので、それら条件を踏まえた上で推定すると、この墓地のある場所は楠根川の右岸側縁辺と言う事になるそうで、そのすぐそばを府道15号線が通っています。

府道15号線は地元ではかつて「新道」と呼ばれ、徳庵・小阪間を近鉄の路線バスが運行されていますが、この道路は大正八年(1919)に建設されたもので、以前ここで取り上げました「長田の道標」は新道開通を記念して建てられたものです。

この道は楠根川の右岸縁辺(堤防跡)だと思われ、北に行きますと川俣を経て稲田へと続きます。

墓地より北は私の小学校の校区で隅々まで熟知しているつもりですが、川俣を過ぎ稲田に入った道路西側も昭和時代後期の行政区画による町名変更以前は「藤戸新田」だった場所で、私の小学校の同級生も住んでいました。

あと、路線バスの停留所に「桃江橋」「鷺島橋」がありますが、これは楠根川に架けられていたものなのか?詳しい事は分かりませんが、桃江橋はかつてこの辺りが桃の産地(稲田桃林)だった事に因むと思われます。

鷺島橋については小字名なのか?こちらも詳しくは分かりませんが、地元では何故かこの辺りだけは「鷺島橋」と呼ばれています(町名では稲田・楠根となりますが…)

楠根川62

楠根川63

地図を見て頂くと分かりますが、鷺島橋の停留所の手前、石材店のある場所から西へ斜めに続く道が楠根川跡だと思いますが、その道は私の通っていた小学校の正門前へと続き、廃川となった楠根川跡に整備された「楠根川緑地」が正門の前を通っています。

楠根川の記事でその写真を掲載していますが、校門前には楠根川の説明板が東大阪市によって設置されています。

私の親の話ではこの辺りに堰(樋門?)があり、夏は泳いで遊んだそうですが、私の時代では既に第二寝屋川も開削され、遊具等も設置されていましたが、正門前には楠根川に架けられていたコンクリート製の橋がそのまま残されていました。

それで、これはあくまでも私も推測ですが、もしかしたら学校の敷地は楠根川の跡ではないか?と思いましたが、これはあくまでも私の推測に過ぎず、何の確証もありません。

しかし、今も学校のすぐそばには田畑が残っていまして、昔はこの辺りもこんな風景が広がっていたのだと思います。

楠根川64

楠根川65

それで、正門前の道を更に下流方向、第二寝屋川の堤防沿いに行きますと、稲田の墓地があります。

幼少の頃、亡くなった祖母に連れらて度々お墓参りに来ていましたが、やはり稲田の墓地も稲田の旧村部から離れた場所に位置しています。

ただ、ここが小高い場所でないのは、ここが菱江川や楠根川等の合流点で複雑な地形であったからと思われます。

その墓地の近くの第二寝屋川に「金五郎橋」と「新金五郎橋」が架けられていますが、この橋の西詰辺りにも私の同級生が住んでいまして、当時の住所録で確認すると住所は「藤戸新田」となっていました。

こちらも現在町名は川俣となっていますが、藤戸新田(菱屋中新田)はこの辺りまで続いていた事になります。

楠根川66

最近ようやく新田開発以前の楠根川が見えて来た様に思いますが、やはり自分が生まれ育った場所の歴史と言うものはかなり興味のある事柄でして、これからも体力と興味の続く限り探索を続けて行くつもりであります。

しかし、私の生まれ育った場所をかつて流れていた楠根川跡の「藤戸新田」あと、私の本籍地でもあった菱江川跡の「菱屋東」の町名が無くなってしまったのは少々残念な事です。

御厨にあった「菱屋中」も無くなってしまいました…

楠根川67

今回は地元の人間しか分からない様な内容となってしまいました(於 東大阪市)
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2014
09.28

三八水路(その2)

Category: 河川・水路
前回「その1」では緩衝緑地公園の跨道橋から東へと水路を辿りましたが、今回は西へと辿ります。

それで、この「三八水路」の範囲ですが、実際のところ詳しい事は分かりませんで、水走と川田地区を東西に直線で流れる場所をその流路の範囲と前提にして記事を書かせて頂きたいと思いますが、水路の範囲はあくまでも私の勝手な推測ですので御了承願います。

跨道橋から眺めるこの水路は東方向と同じく直線的に流れているのが分かり、周辺には少しですがまだ水田も残っています。

農繁期、水量が多くなった水路を覗くと魚やエビが沢山泳いでいるのが見え(エビも結構泳ぎます)いつもそれを見ると「春やな」「夏やな」って季節を感じます。

三八水路20

三八水路21

三八水路22

三八水路23

あと水路と関係ないのですが、以前この水路沿いに府立高校がありました。

いつ頃廃校になったのか忘れましたが、ちょうど橋下さんが知事になった時くらいに競売に掛けられていたと思い、その間は校舎もそのまま残されていましたが、現在は取り壊され住宅が立ち並んでいます。

私が高校進学の際、ここはその学区内でしたので中学校の同窓生も何人かこの学校に進学しましたが、東大阪市内の府立高校も統合等で校数が減り、校名が新たに変更されている事があります。

幸い、私の卒業した学校(東大阪市内)は閉校とはなりませんでしたが、以前校舎があった頃の写真がありましたので今回掲載させて頂きます。

レンガ造りの校門が少し写っていますが、御卒業された方々には懐かしいかと思います。

三八水路24

それで水路の方は西へ進みますと、人気のパン屋さんのある通りの手前で暗渠になってしまいます。

先に記した様に、ここまでが私が勝手に決めた水路の範囲ですが、更に進むと再び水路が現れますが、また再びコンクリート製の蓋で覆われた暗渠となります。

三八水路25

三八水路26

そのまま進むと旧加納村の南端、道標の建つ場所へと続き、ここから水路と並行して「旧河内街道」が通っています。

その旧河内街道を進み、小学校の西を回り込む様に暗渠が続き(河内街道は小学校手前で左折)府道168号線に突き当たると、その向こうにトタン張りの家が見えています。

この民家は以前ここでも取り上げた事がありますが、民家の前には「藤五郎樋」があり、ここから水路は「五箇井路」「六郷井路」またかつて水路だった「吉原北遊歩道」「西昇遊歩道」「西の川遊歩道」「角田おかげ灯籠通り」へと続いてます。

三八水路27

三八水路28

三八水路29

三八水路30

南は吉田の本郷地区周辺まで水路は続いていますが、私が以前農家でお話を聞いたところによると、徳庵橋の第二寝屋川から取水している用水を使用していると言う事でした。

今回で「三八水路」の記事は終了とさせて頂きますが、あまり詳しい事が分りませんでしたので、中途半端な記事となった事を御了承して頂きたいと思います(笑)

また、緩衝緑地公園へ行く機会があれば、跨道橋からこの水路真っ直ぐ流れるこの水路を眺めて頂きたいと思います。

私は天国へ行った次男犬が元気な頃、早朝の日の出少し前にここから水路と生駒山を眺めるのが好きでした。

次男犬も橋の上から眺めるのが好きで、いつも一緒に眺めていましたが、今は行く機会がめっきり減ってしまいました…

三八水路31

水路ってほんま網の目の様に繋がってます(於 東大阪市)
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2014
08.17

戸堀川

Category: 河川・水路
「戸堀川」は「恩智川」と「長門川」の間を東西に開削された放水路で普段は水が流れていません。

私、普段から何気なくこの川床を歩いたり、自転車に乗って通っていましたが、ある日「もしかしたらこれ川とちゃうん?」と思いインターネットで調べてみました。

いつも川の事に関して調べる際、必ず参考にさせて頂いています「AGUA」と言うサイトがあるのですが、このサイトは中河内を流れる河川をほぼ網羅されていまして、かなり秀逸なサイトであります。

詳しくは「AGUA」を参考にして頂きたいと思います。

それで、全ての河道が通行可能ではなく、部分的に通行が出来る様になっており、あと長門川にはスロープや橋が架けられていまして、周辺住民の利便性も考慮されています。

だた、私以前はすぐ近くに住んでいましたが、実施にこの川に放水されているのは一度も見た事がありませんで、一度見てみたい気もします。

あと「水関係」の施設では近くに「枚岡ポンプ場」ありますが、こちらは水道水の送水施設で、東大阪、八尾、柏原へ送水が行われているそうです。

普段は気にも留めませんが。

戸堀川1

戸堀川2

戸堀川3

戸堀川4

戸堀川5

戸堀川6

戸堀川7

戸堀川8

戸堀川9

戸堀川10

戸堀川11

以前はよく通っていました(於 東大阪市)
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2014
07.13

三八水路(その1)

Category: 河川・水路
東大阪市内には現在も水路が流れている地区がありますが、埋立てや暗渠化によりその数も減少の一途を辿っているかと思います。

その理由は、昭和の高度成長期に工場廃水等で汚染が進んだ事や農地の減少で農業用水の需要が減少した事等が挙げられるかと思いますが、全ての水路が無くなった訳ではなく、私の住む東大阪の農家では今現在も水路から農業用水が供給されている所もあります。

それで、そんな水路の中には名が付けられている水路もありまして「三八水路」そんな水路の一つになります。

その名の由来等、詳しい事は分かりませんが、水走と川田を東西に流れるこの水路はコンクリート護岸され、現在も農業用として利用されているかと思われます。

緩衝緑地公園の跨道橋から三八水路が良く見えますが、先ずここから東へと水路を辿ってみたいと思いますが、水路の幅はそれ程広くありませんで、その両側に道路が敷設され、水路が中央分離帯の様になっています。

三八水路1

三八水路2

三八水路3

直線的に続く水路を東に行くと北側(左)に加納の墓地がありますが、この辺りは江戸時代の大和川付替えまで「吉田川」が南北に流れ、その後旧川床が「川中新田」となった場所です。

以前は旧川床の帯状に「川中」と言う町名でしたが、町名変更後この辺りは「加納」「川田」「水走」にそれぞれ編入されています。

ですので、約300年前に吉田川と交差し、この水路が流れていたとは考え難いと思いますので、この水路は大和川付替えの宝永年間以降に掘られた水路(井路)だと推測されます(その時期は分かりませんが…)

その墓地の過ぎますと水門が設置され、また水路内に流れるゴミ等を回収する様になっています。

三八水路4

三八水路5

三八水路6

三八水路7

途中、何の木か分かりませんが、水路沿いに一本の木があり、ガードレールはその木を覆う様に設置されています。

昔、コンクリートで護岸されていない頃からこの木はここに生えていたのでしょうか?現在のコンクリート護岸の水路からは昔のこの水路の風景は想像出来ませんが。

三八水路8

恩智川に近付くにつれ、水路の幅はやや狭くなり、加納東公園の南側で一部暗渠となり、南に直角に向きを変え、その先に排水機場があり「水走三八ポンプ場」とあります。

場内には玉垣に囲まれた立派な石碑があり、玉垣には水走の水路組合や自治会の名がありますので、水走地区の農業用水はこの水路から供給されている事になります。

三八水路9

三八水路10

三八水路11

三八水路12

それはいつの時代からなのかは分かりませんが、以前ここで取り上げました「水走の耕地整理記念碑」はこの件に関連しているのだと私は思いましたが、詳しい事は分かりません。

その排水機場から水路は再び東に向きを変え、更に恩智川の手前で南に向きを変えて恩智川沿いを南に流れています。

三八水路13

三八水路14

三八水路15

その後、府道168号線(石切大阪線)の下を流れ、水走の焼却場の東側を流れていますが、それ以南は暗渠化されています。

実は何処から何処までが三八水路なのか分からないのですが、これ以南私が調べてみますと花園中央公園近くまで流れていた様です。

三八水路16

三八水路17

三八水路18

水走地区は自宅近くですので、普段から通りすがりに気を付けて見ていますと、小さな水路が幾つも南北に流れていた事が分り「ああ、なるほどなぁ」と思います。

かつては田畑が広がっていたこの地区ですが、今は工場や民家が隣接して建つ「住工混在化」していますので、それら水路は住宅と工場の間を取り残された様に流れているのが現状でしょうか?

それら水路は殆んど水が流れていない状態の所もあり、まるで側溝の様になってしまっている所もあります。

今は排水用途で(?)使用されているのでしょうか?

~つづく~

三八水路19

焼却場近くですと流れる水はお世辞にも綺麗とは言えません(於 東大阪市)
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2014
04.29

楠根川(その10)

Category: 河川・水路
私の通っていた小学校の校門横に東大阪市が設置した「楠根川」の説明板があります。

この説明板には河内名所図会の「稲田桃林」と昭和十七年(1942)に撮影された御厨、長田付近の航空写真が掲載されています。

それで、記事説明の為に地図等は作成しませんので、今回もこの説明板の写真を使わせて頂きますが、少し説明しますと中央を流れるのが「楠根川」で下に東西に通る道が「産業道路」その産業道路にTの字に交差しているのが、当時御厨まで完成していた「堺布施豊中線」後の「旧大阪中央環状線」です。

楠根川10-1

その堺布施豊中線の北にある集落が「御厨」で東(右側)にある「新家」から「暗越奈良街道」が続き御厨の集落を通っているのが分かります。

「その9」で取り上げた楠根川副堤の「新家堤」の跡も見て取れ、その新家堤の北、中央に広がる集落が「長田」で、川沿いに下流へ行くと「川俣」の集落、続いて私の地元である「稲田」となり、この説明板が建つ小学校のすぐ前を流れていました。

それで、再度写真を見て頂くと良く分かるかと思いますが、御厨より下流域は蛇行しながら流れていますが、それに比べて御厨より上流、写真下の楠根川は直線的に流れているのが分かります。

これは以前の記事で記しましたが、昭和初期に河川改修工事が行われ、若江村と意岐部村間の流路を直線的に改修し、また河道の狭窄部に築堤が行われました。

その際、両村の一部は新たに開削された楠根川の為に斜断される事になり、それに伴い耕地整理が行われ、道路や水路の整備が行われましたが、御厨では改修工事により耕地が潰れる事で保障問題となり争議となったそうです。

その後、立ち退き料反当たり当時の金額で170円で決着したそうですが、長田でも同じく争議となったそうです。

それで、前置きが長くなりましたが、現東大阪市域の改修以前は楠根川は何処を流れていたと言う事になります。

改修後の楠根川直線部跡は現在、御厨交差点南側にある信用金庫のすぐ東側に「楠根川緑地」として整備されていますが、それ以前は旧大阪中央環状線に沿う様にその少し西側を近鉄八戸ノ里駅の手前まで流れていましたが、これは現在の地図でも確認する事が出来ます。

楠根川10-2

楠根川10-3

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楠根川10-6

その改修以前の楠根川の東側、旧中央環状線辺り、信用金庫以南が右岸堤防跡で「新田堤」と呼ばれ、これはこの辺りが江戸時代の大和川付替え時に菱屋中新田(藤戸新田)として新田開発された事に因むかと思われますが、現在旧大阪中央環状線と建物の建設等によりその痕跡は殆どありません。

それで、左岸堤防跡は「庄関堤」と呼ばれ、これは御厨交差点南側に現在も道路として残っていまして、これはおそらく楠根川跡でもあるかと思われます。

その旧流路(堤跡)を南(上流側)へと歩いてみました。

楠根川10-7

楠根川10-8

楠根川10-9

楠根川10-10

楠根川10-11

楠根川10-12

その跡は何の変哲もない通りから一本入った道と言った感じで、写真では分かりずらいですが、途中駐車場のある場所では「微妙に土地が高くなっているかな?」と言った感じです。

その先に東側から続く道が斜めに交差している場所がありますが、この道も昔は水路だった様で、河川改修後も部分的に楠根川は水路として残され、先の楠根川緑地(当時は通水?)とを繋ぐ水路だったと思われます。

楠根川10-13

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その水路跡を行きますと、旧大阪中央環状線を過ぎ、地元で言う「やえののコーナン」の横を通ると、緑地の南の端にある御厨の集会場で突き当り、楠根川と繋がっていた事が分り、その向こうに「第二寝屋川」の堤防が見えます。

再び元に戻り進みますと「商大の自動車学校」が見えて来ます。

今は「八戸ノ里ドライビングスクール」と言うそうですが、楠根川は現在自動車学校のある辺りを流れ、その自動車学校の開校以前はこの場所に池があったそうです。

楠根川10-18

楠根川10-19

この池は旧大阪中央環状線建設の為に必要な土を田圃から採土した跡に出来た水溜りの池だったそうで、この辺りは御厨の小字名で「五百石」と呼ぶそうで、耕地整理(五百石耕地整理)が行われました。

今回はこの辺りで終わりにしたいと思いますが、昔「庄関堤」にはモチの木等の大木が数本生えていたそうで、最後の一本残った木を家の中に取り込み塀で囲った飲食店あり、うどんやぜんざいを出し、村の若い人達で賑わったそうです。

楠根川10-20

五百石公園

以後、第二寝屋川とも関連させて行きたいと思ってます(於 東大阪市)
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2014
02.11

楠根川(その9)

Category: 河川・水路
「楠根川」は私の通っていた小学校のすぐ前を流れていましたが「第二寝屋川」開削後に廃川となり、現在「楠根川緑道」となっています。

私が小学校入学時は既に第二寝屋川は開削され、緑道に整備されていましたので、私は昔から今現在もこの辺りの楠根川跡の事を「公園」と呼んでいます。

ですので、私の川の原風景と言うのは「菱江川」と「第二寝屋川」なんですが、既に菱江川は無く、第二寝屋川だけが現在も私が通っていた小学校の「裏」を流れています。

第二寝屋川はコンクリート護岸の典型的な近代河川(放水路)ですが、先にも記した様に半世紀近くに渡りこの川を見て育った私にとって、今も川の原風景であり続けています。

それで、現在緑道となっています楠根川跡に関しては、私の親や地元の方にお話しを伺う機会も多く、私自身も少なからず記憶がありますので、ほぼ流路等に関して把握しているつもりですが、江戸時代の大和川付替え以前の楠根川に関しては、殆ど知らない事が多く、地元の人間としては非常に興味のある事柄でした。

この江戸時代の楠根川に関して素人の私で可能な限りの資料を集め、実際に現地に赴き非常に長いスパンでこれまでその流路の範囲等を調べてきました。

まあ東大阪流域周辺は私にとって地元ですので、地図等は全く必要は無く、あと非常に参考になったのが、実は私の小学校の卒業文集でした。

そこには住所録が掲載され、区画整理の町名変更前の住所が記載されていますが、そこには町名として「菱屋東」「藤戸新田」とあります。

「藤戸新田」とは、御存知の様に江戸時代に楠根川を新田開発した耕地で、当初は「菱屋中新田」と呼ばれ、その経緯についてはまた後の機会にあらためて説明しようかと思いますが、これによってかなり旧流路が特定出来たかと思います。

それで今回、以前「暗越奈良街道」で少し記しましたが、新家の街道沿をかつて水路が流れ、その先の第二寝屋川の手前で道が四方向に分かれています。

道なり行くと街道、南に行くと産業道路へと続ますが、街道歩きをされる方が地図を片手に市内方向から歩いてこられ、方向を確認されているのを良く見かける場所でもあります(他地域にお住まいの方だとすぐに分かります…)

私は皆さんとは逆に歩きますが、その北側に平行して続く二本の道があり、西側が先の街道沿いに流れていた水路の「岩田井路」の跡で、東側が「新家堤」と呼ばれていた楠根川右岸の副堤の跡です。

楠根川31

楠根川32

楠根川33

ここでは基本、説明の為の地図等は作成致しませんが、有難い事に(笑)電柱に地図が掲示されていましたのでそちらを見て頂きますと、二本の道が並行して南北に続いているのが分かるかと思います。

この新家堤は長田からは「小阪街道」とも呼ばれ長田村と新家村を結ぶ道を兼ねていたそうで、新家からは「こぬか堤」と呼ばれていたそうですが、その名の由来は楠根川の氾濫による水害で不作となった際に食べる米も無く、米をついた時にでた「ヌカ」を主食にして毎日働き堤防を築いた事からそう呼ばれたそうです。

この新家堤は楠根川が氾濫した際に長田村や新家村を水害から守る為に築堤され、当時は周囲より1mから1.5mほど高く、現在は土地区画整理等で殆ど分からなくなっていますが、良く観察しますと堤防跡と分かる場所もあり、現在は住宅や工場が密集しています。

楠根川34

楠根川35

楠根川36

楠根川37

それで、この新家堤の西側は「藤戸新田」となっていますが、第二寝屋川より東「三井会所跡」がある楠根川跡からもかなり距離がありますので、江戸時代の楠根川が規模の広かった事が分かります。

しかし、川幅一杯に水が流れていたのではなく、広い河川敷を新田開発したとの事で、それ以前から御厨村等が農地として開墾していたそうです。

その新家堤を北に行きますと、長田の「番ノ辻」と呼ばれていた場所に出ます。

ここには昔、長田の元標が設置されていたそうで、以前ここで記事を更新しています「まんうけ地蔵尊」があります。

今回は文章が長くなりましたが、これ以降「楠根川」は江戸時代の楠根川を主に取り上げていきたいとそう思っています。

楠根川38

学校の裏を流れる第二寝屋川

やはり地元の馴染みの場所を歩くのは楽しいもんです(於 東大阪市)
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2013
08.10

楠根川(その8)

Category: 河川・水路
ほんま暑い日が続いております。

しかし、最近の暑さは昔と比べて尋常ではありませんで、それこそ人が倒れる程の暑さです。

私が子供の頃も暑い事には違いはありませんでしたが、どちらかと言うと気温が上がって体の調子が悪くなるよりは「光化学スモック」等で体の調子が悪くなった方が多かったのでは?と思うそんな時代でした。

ところで、学校も夏休みに入ると私は宿題もそこそこに好きなザリガニ釣りや虫取りに行くのが好きでそれが楽しみでした(今でもたまに行きますが…)

ザリガニなどの水辺の生き物は、家の近くの昔あった練兵場の濠跡に良く取りに行きました(今もあります)

それで、虫取りは夏休みだと特別に枚岡公園に連れて行って貰いましたが、普段は学校の前を流れていた「楠根川」に良く行ってました。

楠根川と言っても当時既に「第二寝屋川」が開削され、楠根川は廃川となっていましたので公園(緑道)として整備され、沢山の木々が植樹されていました。

その沢山ある木々や草花に色んな種類の虫が住んでいまして、私はもっぱらバッタ、カマキリ、ブイブイ(カナブン)ばかり捕っていました。

暑さも何処へやら、ひたすら虫取りに熱中しましたが、その思い出に加え草木の茂る匂い、そして何故か犬や猫のおしっこの匂いの記憶が今も思い出されます。

楠根川は菱江川と同様に私にとって一番身近な川でしたが、今はどちらも「川」としては存在しません。

私の親の世代では良く楠根川で泳いで遊んだそうですが、私の世代ではやはり「虫のいっぱいおるとこ」って感じですが、今も沢山の虫がいるのでしょうか?

それで、この楠根川についてここ数年資料を基に現地を歩いていますが、その殆どは実家周辺の昔からお馴染の地域です。

江戸時代、大和川付替えと時同じくして新田開発された楠根川はその後「菱屋中新田」「藤戸新田」となり現在に至っていますが、新田開発前の楠根川は私が想像していたより規模の大きな川だった様で、その川跡を歩く度に私の知らなかったこの川の歴史を知る事が出来ます。

今年も秋が終わる頃から川跡歩きを再開しようと思います。

まあ、今は暑うて絶対に無理ですんで。

楠根川29

楠根川30

昔は「楠根川緑道」って建ってませんでした(於 東大阪市)
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2013
05.23

楠根川(その7)

Category: 河川・水路
旧楠根川跡に「まるや橋」の親柱が残っています。

まるや橋は地元で「中道」と呼ばれる、稲田の旧村を南北に通る道と楠根川が公差する場所に架けられていた橋で、中道は私の小学校の通学路でもありました。

橋がいつの時代に架けられたのかは私知りませんが、私が小学生の頃は欄干も残り、下校時に友達と腰かけた思い出があります。

当時、既に楠根川は廃川となり埋立てられていましたが、現在の様に緑道として整備されておらず、単に人が通れるだけの状態だったと思います。

久しぶりに欄干があった場所から、第二寝屋川の方向を眺めると、当時見た風景と全く違い、昔あった家が無くなっていたり、新しい家が建っていたりします。

写真左に少しだけ写っている石垣が川の名残でしょうか?

ここへ来るといつも小学生の頃を思い出してしまいます。

まるや橋の親柱1

まるや橋の親柱2

楠根川28

たまに学校の前から川跡を通って下校してました(於 東大阪市)
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2013
04.21

平野川(その5)

Category: 河川・水路
本郷の平野川沿いに柏原船の「舟だまり跡」があります。

街道沿いに案内標識もありますし、多く紹介もされているので御存知の方も多いと思います。

柏原船については柏原の町が大好きな私にとって、非常に興味のある事柄ですので、資料を調達してかなり調べましたが、それを全てここで記す事は出来ませんので、ごく簡単に説明したいと思います。

大和川と石川の合流点に位置する柏原村は常に洪水の危機にさらされ、近世の初めの元和、寛永の時代に受けた二度の災害が最も被害が甚大だったそうです。

村人の力だけでは復旧出来ない程に荒廃した柏原村でしたが、代官末吉孫左衛門長方は思案の末、その復興策として平野川(了意川)に柏原から大坂まで船を通船させ、物資の運搬、集散によってこの地を発展させようと考えました。

寛永十三年(1636)に柏原船は創業され、その後営業は順調に進み運賃収入も予想を上回るほどであったそうです。

しかし、船仲間(船持ちと呼ばれる柏原船の運航主の組合組織)ばかりが利益を得て、本来の目的である村の復興が遅々として進展しなかった事から、寛永十六年(1639)に船仲間が再編され、新たに大坂の商人にも船を持たせ営業させる事になりました。

大坂市中から「大坂組」と呼ばれる十四人の新たな船主が加わる事となりましたが、柏原村に家屋を建て商売をする事、荒地を開墾して田地を持つ事、寛永十七年(1640)までに移住する事を条件に柏原船の営業を許可しました。

十四人の内一人でもこの事を実行しない場合は船、家屋を取り上げる事とし、請書(誓約書)を提出させたのだそうです。

この事からも当時の村の困窮の度合いを伺い知る事が出来ますが、現在も平野川沿いに古い町屋等の家屋が立ち並んでいるのはこの様な経緯があるからです。

柏原村はその後再興し、物資輸送の中継ぎ交易地として発展しましたが、明治時代の鉄道開通などにより、現在の柏原の発展をもたらした柏原船は終わりを告げる事になります。

その柏原船の船だまり(船着場)が本郷の平野川沿いにありましたが、現在この場所は児童公園に整備され、跡碑が建てられています。

公園の西側が丸く円弧を描いているのが、その名残でしょうか?

本来この記事はブログ開設初期に更新するつもりでしたが、何かと興味のある事柄が多く、調べたり実際に現地行ったりして時間が過ぎてしまい、今回の更新となりました。

去年は頻繁に足を運んだ柏原でしたが、今年も既に数度訪れています。

柏原ええとこです。

舟だまり跡1

舟だまり跡2

舟だまり跡3

舟だまり跡4

舟だまり跡5

柏原船

やっぱりちょっと長ごなりました(於 柏原市)
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2012
09.23

楠根川(その6)

Category: 河川・水路
明治三十二年(1889)「耕地整理法」が制定されました。

大阪府下の多くの農村では耕地整理組合を組織しましたが、耕地の区画形状を変更したり、道路、畔道、溝渠の変更を行う事は、然程現実的ではなかったのだそうです。

その理由は、大阪付近は従来耕地の区画も広く、当時の農商務省が「鴻池新田」を調査したところ、耕地整理を実施しても「差したる便利なからん」と結論付けたそうです。

その後、耕地整理法が改正され「灌漑排水に関する設備並工事」が追加され、その後更に全面改正された耕地整理法は灌漑排水事業を中心とする土地改良の法と成立したそうです。

そんな状況の中、大正八年(1919)に「楠根川沿岸耕地整理組合」が設立されました。

この楠根川沿岸の地域では、玉串川と長瀬川から灌漑用水を受けていましたが、大和川からの流入水量が少なかった為、常に水不足の状態であり、毎年の様に旱害を受けていたそうです。

そこで、寝屋川との合流点から揚水機によって水を引込み、楠根川の各所に揚水機を設置して段階的に逆流させる工事が実施され、大正十二年(1923)に完成しました。

この逆流により、楠根川を中心に新しい用水路を設置し、またその水路を利用する事によって排水の問題も改善されると期待されたそうです。

しかし時代の流れと共に耕地も減って行く中、昭和時代に「第二寝屋川」が開削され、楠根川は廃川となりました。

それで、私の幼少の頃はまだ楠根川も場所によってはそのままま状態で残っている所もあり、御厨に揚水機場(ポンプ施設)があった事を覚えています。

写真の場所にあったと記憶していますが、それでは何故?覚えていたかと言いますと、川沿いの道(旧大阪中央環状線)が近鉄バスの路線だったからで、あと私の通っていた幼稚園の送迎バスもここを通っていました。

これは今から40年以上前の話なんですが、それから40年以上経ったある日、御厨の暗越奈良街道沿いにあるお地蔵様の写真を撮影していた際、お地蔵様をお世話している方とお話しをしていました。

それで、その方とお話していると、通りがかりの近くにあるお寺の住職の奥様ともお話ししたのですが、その際に楠根川に水門(揚水機場)があった事を確認しますと、やはり私の記憶は間違い無かった様です。

あと、そのすぐ近くにレストランがあったのですが(現在はない)その事も訪ねてみると、やはりあったそうです。

お二人は、何故そんな40年以上前の事を地元の人間ではない私が知っているのか?不思議がっていましたが、実はレストランの息子さんも私と同じ幼稚園に通っていまして、そのレストランの前がバスの待合場所になっていたのでした(笑)

現在、その揚水機場のあった場所は「楠根川緑地」として整備され、ブランコや滑り台等の遊具が設置されています。

それで、以前取り上げました「新家の耕地整理記念碑」「西堤の耕地整理記念碑」は共にこの耕地整理事業を記念して建てられたものです。

楠根川24

楠根川25

楠根川26

楠根川27

なんぼ子供でも毎日見てたら覚えてるもんです(於 東大阪市)
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2012
09.09

銭屋川(その2)

Category: 河川・水路
平野屋と南新田の境界を通る諸福中垣内線が、銭屋川を越える場所に「平野屋橋」が架けられています。

平野屋橋は昭和三十八年(1963)に架けられたもので、銭屋川はこの橋を過ぎると更に汚れが目立つ様になります。

銭屋川11

銭屋川12

銭屋川13

銭屋川14

銭屋川15

汚れ以外にかなりの悪臭がし、これはある意味懐かしい「ドブ川」の臭いでして、私の幼少の頃の昭和40年代から50年代には、何処の川や水路でもこの悪臭がしていたと思います。

私の実家近くを流れる「菱江川」や「長瀬川」も同様で「第二寝屋川」でさえも、ブクブクとメタンガス(?)が発生し、悪臭がしていました。

それで、銭屋川は徐々に水量が減り、川の途中に澱みが出来ています。

銭屋川16

銭屋川17

銭屋川18

この澱みは、周辺に現在も残る水路から流れ込んだ水と、雨水が溜まっているもので、既に川とは言えない状態となっています。

その澱みを過ぎると、雨が降った後だけ中央に掘られた溝に水が溜まる程度で、既に川は干上がり川床を歩く事が出来ます。

川床を歩いていると、かつての川岸に土嚢が積まれていますが、簡易的に護岸を補修した様で、あと川床には所々にマンホールが設置されていました。

銭屋川19

銭屋川20

銭屋川21

銭屋川22

既に土管が埋設されているのか?その事からも、この川が既に役目を終えているかと思われますが、川床を東大阪との境界方向へ歩いて行きますと、そこでフェンスによって行き止まりとなり、フェンスの向こうには生駒山から流れる「大川」の堤防が見えます。

この場所にはかつて船着場があったそうで、ここから東に大川を経て善根寺へと船が運航されていたのでしょう。

銭屋川23

銭屋川24

銭屋川25

あと、以前銭屋川はこの大川に流れ込んでいた様で?大川のコンクリート護岸に流れ込みの跡をコンクリートで塞いだ跡が残っていました。

大川の堤防から船着場跡を眺めますと、往時の賑わいが偲ばれますが、平野屋新田会所も現在は無く、会所跡へと続くこの川の今後もどうなるのかは分かりません。

かつて存在した、広大な深野池は農地となり、そこには多くの水路が設けられましたが、農地の減少により用水が不要となり、それら水路はその役目を終えたかと思われます。

私は大東市民ではありませんが、行政による「地域の歴史を後世に伝える」そんな配慮を期待しているのですが…

銭屋川26

「深野南新田」と「河内屋南新田」を流れていた井路川でした(於 大東市)

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2012
09.08

銭屋川(その1)

Category: 河川・水路
「銭屋川」は「平野屋新田会所跡」の西側を流れ、その名にある「銭屋」とは、江戸時代の大和川付替え後「深野池」を新田開発した「深野南新田」「河内屋南新田」の所有者だった高松家の屋号「銭屋」に因んでいます。

あと、町名になっています「平野屋」も、同様に新田の所有者であった、大坂今橋の両替商「平野屋」からきているもので、新田は譲渡され所有者は幾度か変わっていますが「平野屋」の地名は現在も残り、銭屋川に架かる橋の名に「会所橋」「平野屋橋」とあるのも、これに因んだものです。

それで、銭屋川は新田内に掘られた用水路(井路川)で「六間路川」とも呼ばれ、灌漑と船運に利用されたそうで、会所西側に積荷を会所へ直接積み下ろしする為の船着場が設けられていました(現在も遺構として現存)

また川の南端、東大阪市との境界を流れる「大川」との合流付近にも船着場があったそうで、善根寺の「東高野街道」沿いに金比羅燈籠が建てられている事から、この時代には既に水路網が整備されていたと思われます。

それで、現在の銭屋川ですが、会所付近では鋼矢板やコンクリート製の垂直護岸で土砂が堆積し、雑草等が生い茂っています。

北側には排水機場があり、その先で鍋田川と合流していますが、南側は水量も徐々に少なくなり、不法投棄された多くののゴミが目立ち、さらに南側は、西側から続く水路(現在は埋立てられています)と並行して流れています。

並行して流れる二つの水路は背割堤で隔てられ、堤防上は遊歩道として整備されていますが、法面に沿って側溝程度の流れがあるだけでゴミが投棄されています。

友人が南新田の団地に住んでいましたので、当時(三十年前位)の様子も少し記憶がありますが、私より年配の知人によりますと、かつてこの川には多くの魚が泳いでいたと言う事ですが、現在の状況からはとても想像出来る話ではありません。

最近、これ程汚れている川もあまり見かけなくなりましたが…

その2に続きます。

銭屋川1

銭屋川2

銭屋川3

銭屋川4

銭屋川5

銭屋川6

銭屋川7

銭屋川8

銭屋川9

銭屋川10

一枚目の写真はまだ平野屋新田会所があった時のものです(於 大東市)
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2012
08.09

平野川(その4)

Category: 河川・水路
「柏原船」には、船や積荷を管理する「会所」が設けられ、柏原、平野、天満の三箇所にあったそうです。

写真の家屋は、現在も残る柏原の会所跡で「札場」もしくは「札さし場」と呼ばれていたそうで、積荷や出入りする船を監視し易い様、中二階構造となっています。

それで、このお話は会所の所有者の方にお伺いしたのですが、以前よりこの中二階の事に関心がありましたので、たまたまその場に居合わせた方にお話しを伺うと、偶然にもその方は会所の建物を所有者されている方でした。

私が柏原の町が好きで、東大阪から度々訪れているとの旨を説明しますと、所有者の方は「ほな、ちょっと入り」と仰り、会所の建物内を拝見させて頂く事が出来ました。

私は心の中でナイス(最近、ナイスって言いませんねぇ。ラッキーですか?)と思いましたが「御迷惑と違いますか?」と一応お尋ねしますと「ええ、ええ、かまへん、かまへん」と仰り、中を案内して下さいました。

私の一番の関心事である「中二階」にも案内して頂き、そこには昔使われていたと言う「長持」が保管されていましたが、これも相当古いものでした。

所有者の方には、数々の貴重なお話を伺う事が出来ましたが、そのお話の内容は申し訳御座いませんが割愛させて頂きます(笑)

あと、ここには柏原市も見学に訪れるそうで、所有者の方は「ここ、柏原市に一億円で売ったろう思てんねん」と仰り、ニヤリと笑っておられました。

そやけどほんま、柏原市はこの建物を絶対買うとかなあかんと私は思います。

柏原市は大東市みたいな事は無いとは思いますが…

船会所跡1

船会所跡2

船会所跡3

船会所跡4

船会所跡5

この日は他にも良い事があって楽しい一日でした(於 柏原市)
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2012
04.21

平野川(その3)

Category: 河川・水路
江戸時代から明治時代にかけて、平野川では「柏原船」と呼ばれる川舟で船運が営われていました。

明治二十二年(1889)現在のJR関西線が開通後、物資を大量かつ短時間で輸送する時代が訪れると、柏原船は衰退しその役目を終えました。

その平野川筋にはかつて「使い場」と呼ばれる、物資を積み降ろした場所が流域の村々にあったそうです。

現在、唯一この場所に当時のまま残っていましたが、平野川の改修工事で流路が変更された際に整備保存されています。

あと、柏原船の縮小レプリカの展示と説明板が設置されています。

それで、手持ち資料に改修前の洗い場の写真があるのですが、南から流れて来た平野川は使い場の前でほぼ直角に向きを変え、西へ流れていたのが分ります。

石段は川岸まで設けられ、川沿いには草木が生い茂り、現在の状況からは全く想像出来ません。

平野川の様子は一変してしまいましたが、改修工事の際に撤去せず、整備保存した八尾市の文化財に対する姿勢が伺えます。

それで、平野川の更新は今回久しぶりとなりましたが、どうしても私の住む東大阪市域を流れていないので、それ程お馴染みがないとでも言いましょうか?更新の方も滞ってしまいました。

どちらかと言うと私、平野川より平野川分水路(城東運河)の方が馴染みがあるんですが…

しかし、柏原市域の平野川は、私の馴染みです。

使い場1

使い場2

使い場3

使い場4

柏原船1

柏原船2

柏原船3

使い場5

《追記》
柏原船は撤去されました。

使い場6

使い場7

今は船が通れるほど水が流れていませんが(於 八尾市)
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2012
01.03

第二寝屋川(その2)

Category: 河川・水路
私が小学校に通っていた頃、既に「第二寝屋川」は開削され「楠根川」は埋立てられ、廃川となっていました。

小学校の西側に沿って流れる、第二寝屋川の流路には、かつて水路が流れていたそうで、開削に伴いその水路は消失しましたが、その水路から分岐していたであろう小さな水路の一部が、私が小学生の当時まだ残っており、その水路跡で遊んだ思い出があります。

それで、第二寝屋川開削の為、その流路上にあった田畑は川床に、また住宅は立ち退く事となるのですが、少なからずの住民がこれまで暮らしてきた土地を離れずに、新たに開削された第二寝屋川沿いで暮らされているのだそうです。

そう言えば、私の小学校の友達の中にも、第二寝屋川の堤防沿いで暮らしている友達がいました。

しかし、治水対策に開削された第二寝屋川でしたが、それ故堤防がその住宅より高く築かれていた為、雨が降ると雨水が住宅の方へと流れ込み、大変な事になったそうです。

その後、住民の方々が寝屋川河川事務所に堤防と住宅の間に側溝を設置する様に交渉し、長い交渉の末に側溝が設置され、雨水は排水される様になったそうです。

この話は数年前に住民の方に伺った話ですが、私はそんな事は全く知らずに小学生の頃、堤防下の広場で野球をして遊んでいました。

現在は住宅が建ち並び、野球をしていた広場は無くなってしまいましたが…

今思うと、あの広場は田圃の跡だったのではないかと思います。

第二寝屋川6

第二寝屋川7

第二寝屋川8

第二寝屋川9

第二寝屋川10

堤防沿いにも多くの住宅が建ち並びました(於 東大阪市)
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2011
09.25

恩智川(その4)

Category: 河川・水路
「恩智川」は昭和時代に大規模な河川改修工事が行われ、私が知る恩智川はその改修工事後のコンクリートで護岸された現在の恩智川です。

私は改修以前の恩智川を知らないのですが、昔の写真を見ると現在よりも川幅が狭く、自然堤防だった様です。

それで、恩智川は明治時代に大規模な浚渫工事が行われましたが、その後土砂が堆積し、度々氾濫したそうです。

昭和三年(1928)に大阪府の指示により、恩智川流域の八つの村からなる「東部恩智川普通水利組合」が組織され、四年の歳月を費やして改修工事が行われ、工事竣工を記念して、昭和九年(1934)に「恩智川改修記念碑」が建てられました。

それで、現在近鉄東花園駅南側で護岸工事が行われていますが、今日たまたま通りますと、恩智川の堤防上に建てられていた、この記念碑が無くなっていました。

別の場所に移設するのか?工事終了後元の場所に戻すのか?現在、記念碑は所在不明(?)となっています。

何処にあるんでしょうか?

《追記》
以前より少し移動して、建て直されました。

恩智川改修記念1

恩智川14

恩智川15

恩智川改修記念2

近鉄の高架工事と恩智川の護岸工事でこの辺り「仮~」ってのが今多いです(於 東大阪市)
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2011
09.17

御領(その4)

Category: 河川・水路
御領に今も残る水路は埋立てられませんでした。

それは、地元の方々の思いと行動の結果であると思います。

御領の水路は現代の「濾過水を循環させる」と言う技術でよみがえりました。

それが良いのか悪いのか、私がここで言う立場ではありませんが、水路があるその風景が後世まで残る事には間違いないと思います。

私は御領の住人ではありませんが、正直のところ地元の事の様に嬉しい気持ちになりました。

これまでの様に水路を見ながらぼんやり出来るかと思うと…

御領4-1

御領4-2

御領4-3

御領4-4

御領4-5


御領4-6

御領4-7

昔はこれくらい水がきれいだったんでしょう(於 大東市)
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2011
09.17

御領(その3)

Category: 河川・水路
水辺が好きな私にとって、今も水路が残る「御領」を訪れる事は、楽しみの一つになっていました。

訪れても別に何をする訳でも無く、だた水路を見ているだけですが、日々の慌ただしい生活の中、休日にこの場所でぼんやりする事が、もしかすると贅沢な事なのかも知れないと思う時があります。

しかし、現実には水路は次々と埋立てられ、昔見た水路のある風景を記憶の中でしか見る事が出来なくなって行く事が、何か淋しく感じてしまいます。

御領の水路もそんな中「そのうち、埋立てられてしまうのでは?」と思う様になりました。

これまで私が育った場所で、多くの水路が埋立てられて行くのを目にしてきましたので、尚更そう思ったのだろうと思います。

それで、御領界隈を歩きますと、かつてそこに水路が流れていた名残のある場所があります。

そんな場所を見ると「もしかして…」そんな思いがよぎりますが、水路のある風景を後世まで残して欲しいと切に思います。

御領3-1

御領3-2

御領3-3

御領3-4

御領3-5

御領3-6

御領3-7

御領3-8

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この頃は「どうなるかな?」っていつも思っていました(於 大東市)
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2011
08.16

楠根川(その5)

Category: 河川・水路
藤戸新田にある小学校のすぐ側をかつて楠根川が流れていました。

現在は埋立てられ「楠根川緑地」として整備されていますが、小学校のある場所には昔養豚場があり、昭和40年代初期の頃は第二寝屋川開削数年後でしたので、川跡の一部がそのままの状態で残っていた所もありました。

この辺りは実家から近く、昔から土地勘があるので、当時の事を今も良く覚えています。

それで、ある休日に旧楠根川跡を辿っていますと、緑地のベンチにおばあさんが腰掛けていました。

挨拶して、この辺りの昔の話を聞かせて頂きましたが、その会話の中で少々意外な話がありました。

それは、藤戸新田(菱屋東新田)が明治の頃、日本で一番貧しい村として新聞で取り上げられたと言う話です。

その時は居合わせなかったのですが、おばあちゃんの知り合いでいつもここに散歩にくるおじいちゃんがいつもその話をしていて、当時の新聞を今も保存しており、おばあちゃんはその新聞を見せて貰ったとの事でした。

何故、ここが日本で一番貧しい村だったのか?その理由は結局分かりませんでしたが、過去にそう言った事実があった事に私は驚きましたし以外に思いました。

その理由は分りませんでしたが、地方ではなく何故この大阪のこの地が日本で一番貧しい村だったのか?これは今も不思議でなりません。

どんな理由があったのでしょうか?

楠根川5-1

楠根川5-2

楠根川5-3

楠根川5-4

楠根川5-5

楠根川5-6

「日本で一番貧しい村」に関しては今も分らずじまいです(於 東大阪市)
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2011
08.07

五箇井路

Category: 河川・水路
「五箇井路」は「六郷井路」と同様、大和川付替え以前の新開池内に開削された悪水井路(農業用排水路)で徳庵井路(現在の寝屋川)に繋がっています。

詳しくは市の設置した説明板がありましたので、そちらを御覧頂きたいと思います。

それで、最近は自宅に近い東側、古箕輪周辺へ足を運ぶ事が多いのですが、それまでは実家に近い西側、寝屋川との合流付近の方が幼少の頃より身近な川(水路)でした。

この付近は二つの水路が近接して流れ、二つの水路の間の帯状の土地には、現在も畑がありますが、風景は昔とそれ程変わらない様に思います。

あと、水質の方はかなり改善され、嬉しい事にかつてのドブ川状態だった頃に比べ、現在は多くの魚の姿を見る事が出来る様になりました。

それで、以前モロコでも釣ろうとこの水路で糸を垂らしていますと、男の子が一人で釣りにやって来ました。

子供が一人で水辺にいる事は、本来非常に危険な事ですから「僕、どこから来たん?」と声を掛けておきました。

市内から来たとの事でしたが、ここは鶴見区と東大阪市との境界付近ですので、市内と言っても程近い場所にあります。

私、子供と話するのが好きなので「僕、家でゲームせえへんのん?」と訪ねると「ゲームより釣りの方が好きやねん」と言う事で「釣りは誰に教えてもろたん?」と尋ねると「じいちゃん」との返事。

そうなんです、私も初めて釣りに連れて行ってくれたのが、亡くなった祖父でした。

実は思い出した様に釣りを始めたのが十数年前なんですが、やっぱり心の奥の何処かにじいちゃんと釣りをして楽しかった思いがあったのでしょうか?

それで、これは祖父が亡くなった後に聞いた話ですが、この近く(近畿車輛のある辺り)に以前釣堀があったそうで、祖父も良く釣りに通っていたそうです。

五箇井路1

五箇井路2

五箇井路3

五箇井路4

五箇井路5

五箇井路6

五箇井路7

五箇井路8

五箇井路9

五箇井路11

五箇井路12

今この水路には結構多くの種類の魚がいるんですよ(於 東大阪市)
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2011
07.09

平野川(その2)

Category: 河川・水路
「平野川」は大和川付替え後にその流路が分断され、下流の村々では灌漑用水が不足する事となりました。

現在、平野川は大和川に設置されている「青地樋」より取水されていますが、江戸時代に干害で農民が困窮に陥った際、弓削村の庄屋「西村市郎右衛門」が幕府に無断で新川(現在の大和川)に青地、井出口両樋を開き、平野川(了意川)へと水を引き入れたのだそうです。

詳しくは説明碑を御覧頂きたいと思いますが、その西村市郎右衛門の頌徳碑が志紀町南にあります。

玉垣で囲まれたその敷地内に当時の郡長、深瀬和直の撰と書で大正五年(1916)に建てられています。

尚、この一件については正徳四年(1714)頃に起こったものではないかと言う事です。

西村市郎右衛門頌徳碑1

西村市郎右衛門頌徳碑2

西村市郎右衛門頌徳碑3

西村市郎右衛門頌徳碑4

西村市郎右衛門頌徳碑5

西村市郎右衛門頌徳碑6

綺麗に清掃されています(於 八尾市)
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2011
07.03

恩智川(その3)

Category: 河川・水路
恩智川は昭和時代に大規模な河川改修工事が行われ、川幅の拡張、川床の浚渫、護岸のコンクリート化等、現在の恩智川はこの改修工事によるものです。

その恩智川の最下流部で流路変更が行われ、現在その旧流路が雨水の貯留施設として整備されています。

それで、私この付近は土地勘があるのですが、この場所が恩智川の旧流路だとは知りませんで、数年前に気が付きました。

どう見ても川跡に見えますから(…)

手持ちの資料の江戸時代に描かれた絵図には、北流する恩智川が、西へと向きを変える内側に二つの集落があり、その周辺に田畑が広がっているのが分かります。

この場所に集落があると言う事は、この絵図が大和川付替え(宝永元年)以降に描かれたものだと思われますが、付替え以前この場所は恩智川の流れ込み先である「深野池」だったと思われ、御供田村(新田)は大和川付替え前後に、百姓寄合持ちより新田開発されていました。

それで、歴史的な事はこれ位にしまして、昔この川跡の北側の近くを通る片町線(学研都市線)に踏切があり、そこに単車屋さんがありました。

現在ももそこには単車屋さんがありましたが、このお店は私の記憶しているお店なのでしょうか?

そうだとすると懐かしいですね(私が高校時代の話です)

恩智川3-1

恩智川3-2

恩智川3-3

恩智川3-4

恩智川3-5

恩智川3-6

恩智川3-7

恩智川3-8

恩智川3-9

恩智川3-10

恩智川3-11

御供田

今の恩智川に比べると川幅が狭いです(於 大東市)
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2011
06.26

楠根川(その4)

Category: 河川・水路
「旧菱屋中顕彰碑」は平成時代の区画整理の町名変更の際「菱屋中」の地名が無くなった事を機に、地元の方達によって建てられたものです。

東大阪には「菱屋西」「菱屋東」と菱屋と名の付く町名がありますが、これは江戸時代の大和川付替えによって新田開発された菱屋西新田(長瀬川跡)菱屋東新田(菱江川跡)が、現在もそのまま町名として残されている事によります。

それで「菱屋中」は大和川付替え後、旧楠根川を新田開発した「菱屋中新田」だった場所です。

旧楠根川は現在の東大阪市御厨より以北(下流)は河川敷が広かった為、新家村の菱屋庄左衛門・岩之助によって新田開発され、享保十七年(1732)に江戸の三井家(越後屋)に譲渡されました。

更にその後、菱江の藤戸家の所有となり、大正六年(1917)に「藤戸新田」と改称されました。

「藤戸新田」は現在も町名として残っていますが、それについては菱江川(その3)で記しておりますので、御参照して頂きたいと思います。

それで、この顕彰碑が建つ場所は三新田を管理する為、三井家によって建てられた「三井会所」のあった場所です。

顕彰碑の側には三井会所の敷地内でまつられていた「玉岡神社」が残されています。

旧菱屋中顕彰碑1

玉岡神社

三井会所跡

「菱屋中」の名がなくなったのは残念です(於 東大阪市)
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2011
05.21

楠根川(その3)

Category: 河川・水路
「楠根川」は中世に掘られた排水路(悪水井路)で、その流路の大半は古代から続く条理制の地割りに沿って、屈曲しながら現在の八尾と東大阪市域を北流していました。

その後、大正から昭和時代に流路を直線的にする河道改修工事が行われ、これが現在の「楠根川」「第二寝屋川」となっています。

改修工事後、旧楠根川跡は埋立てられ道路や遊歩道、公園等に整備されていますが、数年前まで屈曲して流れていた楠根川の旧流路が残されている場所がありました。

それは前回の記事と同じ場所に残っていたもので、屈曲して流れていた当時の流路が分かるかと思います。

赤く錆びた鉄製の橋もそのまま残されていましたが、現在この場所は「旧楠根川緑地」として整備されています。

ほんと、ジグザグに流れていたのが良く分かります。

楠根川12

楠根川13

楠根川14

楠根川15

楠根川16

楠根川17

よく見るとコンクリートで護岸されています(於 八尾市)


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2011
05.01

六郷井路

Category: 河川・水路
「六郷井路」は古箕輪から徳庵(寝屋川)まで続く、十六ヶ村組合(鴻池新田、吉原、新庄、箕輪、灰塚、加納、橋本新田等)の悪水井路(農業用排水路)でした。

寛文元年(1661)に「新開池」の中に開削された水路で、新開池の新田開発後も縦横に開削された水路と接続される事なく、現在に至っているのだそうです。

それで、東側(古箕輪周辺)は自宅から程近い場所ですが、昔はどんな風景だったのか?残念ながら私は知りません。

しかし、西側の徳庵は私の地元ですし、三島、鴻池付近にも幼少の頃から足を延ばしていたので、その当時の風景は今も良く覚えています。

既に私が子供の頃、コンクリートと矢板で護岸されていましたが、子供の頃より川幅が狭く感じた事以外は昔と殆んど変わりない様に思います。

只、周辺の風景は随分変わり、ドブの臭い?がしなくなり、ゴミは相変わらず捨てられていますが、水質の方はかなり良くなった感じがします。

最近は水路を覗き込むと、多くの魚が泳ぐ姿を見る事が出来る様になりました。

現在、この六郷井路は排水路ではなく、灌漑用途に使用されているそうです。

六郷井路1

六郷井路2

六郷井路3

六郷井路4

六郷井路5

六郷井路6

六郷井路7

六郷井路8

六郷井路9

六郷井路10

六郷井路11

六郷井路12

六郷井路13

六郷井路14

昔はほんと汚かったです(於 東大阪市)
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2011
04.15

楠根川(その2)

Category: 河川・水路
かつて、八尾市域の楠根川は農地の区画に沿ってクランク状に流れていました。

昭和30年代後半から流域の都市化が進み、第二寝屋川開削に続き楠根川も河川改修が行われました。

昭和46年(1971)から18年の歳月をかけて、流路の直線化と川幅の拡張等の工事が行われ、これが現在の楠根川となっています。

それで、旧流路は現在「旧楠根川緑地」として、4つのブロックに分けて整備されています。

今回は一番南側(上流側)にあります「第4ブロック」を取り上げようと思います。

緑地には処理水を循環させている、人工のせせらぎに沿って遊歩道が整備され、それを北(下流)に行きますと、西の方向に直角に曲がり遊歩道は続きます。

その先には楠根川の堤防があり、そこで緑地は終わりとなりますが、かつて楠根川が農地の区画に沿って流れていた事が確認出来る場所ではないかと思います。

確かに、この場所が川跡と言う事を知らなければ、不自然な遊歩道と思うかも知れませんが。

あと、残り3ブロックも取り上げる予定です(あくまでも予定です…)

楠根川3

楠根川4

楠根川5

楠根川6

楠根川7

楠根川8

楠根川9

楠根川10

楠根川11

この辺りも少し風景が変わったかなと?(於 八尾市)
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2011
04.08

恩智川(その2)

Category: 河川・水路
東大阪市域の恩智川の堤防に写真の様な親水施設(?)があります。

以前から「何でここにこれがあるんやろう?」とは思っていましたが、その後布市の方と話す機会があり、その会話の中であれは恩智川の「船着場跡」だと言う事を教えて頂きました。

恩智川にはその昔「剣先船」と呼ばれる船運が運航され、この船着場近くでは日下村、水走村、植付村が剣先船を所有していたそうです。

恩智川から寝屋川と繋ぎ、大坂市中までの水運は、恩智川流域の村々の物資輸送の重要な役割を果たしていたのでしょう。

恩智川2

恩智川3

恩智川4

通常、残念ながら川岸にはおりる事は出来ません(於 東大阪市)
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2011
02.27

御領(その2)

Category: 河川・水路
御領と言えば、水路に「三枚板」と呼ばれる木製の田舟(川舟)が浮かんでいました。

長らく使われる事も無く、このままま朽ち果ててしまうのか?と思っていたのですが、ある日訪れますとその田舟の姿はありませんでした。

長らく水路に放置されていた理由は、水運が必要でなくなった事は勿論ですが、舟を修理する職人さんがいなくなった事も、その理由なのだそうです。

それに加え「舟釘」と呼ばれる特殊な釘の入手が困難になったのだそうです。

それで、この田舟の需要の最盛期の終末は昭和二十三年頃だったそうで、地元自治会の方の話によりますと、御領の水路に浮んでいた田舟は現在、市内の学校に保存されているとの事でした。

それで「御領」の記事の一番最後に掲載している倉庫の様な建物は現在、地区のイベントで行われている水路を遊覧する際に使用する舟(田舟を復元したそうです)を収納、あと舟の乗り降りに使用されている「田舟小屋」だと言う事でした。

一度、乗船してみたいです。

御領2-1

御領2-2

御領2-3

御領2-4

御領2-5

こうやって写真を見比べると水の色が全然違うし匂いも全く違いました(於 大東市)
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