Category旧大和川 1/2

長瀬川(その15)

これは最近気が付いた事なのですが、以前JR志紀駅の東側付近を流れる長瀬川では、護岸から水を放水(?)していました。最近は全く見ていませんが、中止となったのでしょうか?それ自体にどんな理由があったのかも分かりませんが、噴水の様な親水施設的なものだったのか?水の吹出口は現在も残っています。それで、過去に撮影した写真を探してみますと、2枚だけありましたが、この写真は私が人生で生まれて初めて購入した『デジ...

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長瀬川(その14)

長瀬北小学校の校内、道路に面して東大阪市が「吉松新田会所跡」の説明板を設置しています。この場所は御存知の様に旧長瀬川を新田開発した「吉松新田」だった場所で、大和川付替え後の宝永五年(1709)に新田開発が竣工しています。詳しくは説明板を見て頂こうかと思いましたが、フェンス越しで少々見辛いので、今回は説明させて頂きます(…)吉松新田は説明にもあります様に「末吉甚兵衛」によって開発された町人請負の新田...

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長瀬川(その13)

長瀬川には多くの橋が架けられていますが、今回は吉松にある「昭和橋」を取り上げたいと思います。「昭和橋」は昭和三年(1928)に御大典を記念して架けられたコンクリート製の橋で、橋の西側にある長瀬尋常高等小学校(現長瀬北小学校)の全校生徒により、渡り初めが行われたそうです。それで、江戸時代中期にはこの辺りに「渡し」があったそうですので、それは大和川の付替え以前の事かと思われ、あとこの場所には明治時代、...

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菱江川(その11)

今回は直接、菱江川に関しての記事ではありませんが、かつて菱江川の洪水から流路南側にある村々を守る為に築かれた堤防を取り上げようかと思います。長田東公園の南側を東西に通る道がありますが、その道を東に行くと周辺の道路とは違い、不自然にカーブして変電所に突き当たっているのが分かります。この道は「内介堤」と呼ばれ、長田から荒本、新家、横枕まで築かれた堤防の跡なのだそうです。堤防上には石が置かれ、その石の高...

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長瀬川(その12)

中小阪に鎮座する「弥栄神社」の境内に「根上がりの木」と呼ばれる木があります。神社にある市の設置した説明板によりますと、神社の鎮座する場所は旧長瀬川の増水時の支流で「溝」と呼ばれる場所だそうで、その支流の堤防上に生えていた木が土が取り除かれ、根が浮き上がった状態からそう呼ばれているのだそうです。あと、説明には北参道付近の一段高くなっている場所は、中小阪村を洪水から守る為の新堤の跡で、その堤跡を「馬立...

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長瀬川(その11)

前回「その10」にて「二番樋」と「三番樋」の合流点までの事を記しましたが、今回はその続きで、合流点より下流について記したいと思います。二つの取水口から取水された長瀬川は、JRの鉄橋の下をカーブしながら下流へと流れて行きます。それで、これまで取水口から合流点まで都合上、長瀬川としていましたが、この合流点から二俣の分水樋までは「十間井路」または「中堀川」と呼ばれ、この十間井路(中堀川)は、大和川付替え...

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菱江川(その10)

「菱江川」もそろそろ書く事(ネタ)が少なくなって来ました。これは、現在この川が既に無いと言う事も理由の一つなんですが、あと「吉田川」も同じく付替え後、その川床跡に井路(用水路)を設けませんでしたので、同じ理由で更新の方も滞り気味となっております。菱江川の記事に関してはその殆どが「私の思い出」ばかり記しておりますが、それはいつもここで申しております様に、この川は私にとって一番身近な川であり、その川の...

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玉串川(その9)

「御野縣主神社」の境内に旧玉串川の堤防跡が残っています。興味のある方なら御存知だと思いますし、私は御野縣主神社と言えばこの「堤防跡」と言う感があります。それで市の設置した説明板がありますので、詳しくはそちらを見て頂きたいと思いますが、三百年以上前の旧玉串川の堤防跡とはどんなものかと言いますと、御覧の通りです(笑)この場所だけに残っていたのは、おそらく社地に隣接していた為だろう(?)と思われますが、...

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長瀬川(その10)

最近「旧大和川」の記事の更新がおろそかになっておりましたので、本日は久しぶりの更新となります。それで、今回は柏原の「築留二番樋」と「築留三番樋」からその合流点辺りまでの事を書きたいと思います。「二番樋」と「三番樋」については、それぞれ「その1」と「その2」で記事にしておりますのでそちらをご覧頂く事にしまして、二つの取水口から取り込まれた大和川の流れは北に向かい一つの流れとなります。二番樋からの流れ...

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吉田川(その7)

吉田川跡(川中新田)は、近鉄花園駅辺りより以北、加納の南辺りまで微高地が続き、その流路はおおよそ見当がつきます。しかし、加納以北は300年以上による時間の流れにより、明治以降の耕地整理等で川跡周辺の環境は変化しています。それで、吉田川跡は自宅から程近い場所にありますので、休日に愛犬とカメラ片手に散歩がてら探索していますが、その際に気付いた事があります。それは、以前よりその流路上にあると思われる墓地...

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長瀬川(その9)

八尾市内にある府立高校の校庭に「狐山」と呼ばれる塚があります。この塚は旧長瀬川の左岸堤防跡の一部が、大和川付替後300年以上経た今も現存しているものです。学校の敷地内にあるので、許可なく立ち入る事は出来ませんが、敷地の外側からは見る事が出来ます。かつては旧大和川の本流であった、旧長瀬川の堤防ですので、やはりそれなりの大きさがあり、高さ数メートルはありそうです。当時、この規模の堤防がずっと続いていた...

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菱江川(その9)

ここ数日、天気が大荒れで警報や注意報が発令されていますが、私が暮らす東大阪も未明に(何時頃かはっきり覚えてませんけど)雷を伴い激しい雨が降りました。それで、現在はどんなに激しい雨が降っても、こと東大阪に関して、私の知る範囲では河川や水路が氾濫したり、道路が冠水した話はここ数年聞いた事がありません。しかし、私が子供の頃(昭和40年代)の菱江川(玉串川水路)が埋立てられる以前は、台風等で大雨が降ると、...

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玉串川(その8)

八尾の都塚にある「都留美島神社」は旧玉串川の堤防跡と言われています。旧大和川跡を辿り始めた頃、たまたまこの神社の前を通りがかった際に「多分、ここ堤防跡やろ」と思いましたが、確証がありませんし、私は専門家でもありませんので、はっきりした事は分かりませんでした。その後、資料用に購入した江戸時代の土木関係の書籍に、この場所が「旧大和川自然堤防」と記されていましたので、やはりこの場所は川跡だと分りました。...

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菱江川(その8)

菱江川は私が暮らしていた家のすぐ傍を流れ、かつては一番身近な川でしたが、幼少の頃から埋立てられるまで、その風景は今も私の記憶の中にあります。しかし、私が記憶する菱江川は中央大通りより以北(下流)の菱江川であり、上流域での菱江川については殆んど知らないのですが、菱江川と八尾枚方線(府道21号線)が交差する場所から下流側の記憶が僅かにあります。当時(約25年位前)菱江川は八尾枚方線沿いにある自動車教習...

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長瀬川(その8)

植松町にある「安中新田会所跡」の近くを流れる長和川に沿って公園があります。この場所はかつて「舟庭」と呼ばれた「剣先船」の船着場跡なのだそうです。近くには会所があり、さらに南には奈良街道も通っていた事から考えても、この場所に船着場が設けられたのは当然の成り行きだったのでしょうがその後、鉄道の開通により、長瀬川の水運は衰退してしまいました。現在は公園として親水施設も整備され、綺麗な草花が植樹されていま...

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玉串川(その7)

現在、町名に「山本」と付く場所はその殆どが江戸時代の大和川付替え後、旧玉串川跡を新田開発した「山本新田」と呼ばれていた開墾地です。詳しくはインターネット等で調べる事が出来ますので、ここでは簡単に説明させて頂きますが「山本新田」の由来は、この地の新田開発権を落札した泉州の山中善兵衛とその子庄兵衛、平野の本山弥衛門重英(加賀屋)の名字より一字ずつとって名付けられたと言われています。その後、享保十三年(...

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菱江川(その7)

稲田本町にかつて菱江川に架けられていた石橋の親柱が残されています。親柱は四基あり「大和橋」「萬延元庚申年 十一月中句成之」「仙人橋」「里正 宮田澤田 石工 嘉…」と刻まれています。一本の橋に二つの橋の名がある、その理由は何故か分りませんが、大和橋は萬延元年(1860)の年号が刻まれ、仙人橋には年号は確認出来ませんが、里生として二名の方の名が刻まれている事から、明治以降に橋の修築が行われたとも考えれ...

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長瀬川(その7)

八尾市を流れる長瀬川に「常盤橋」が架けられています。「常盤橋」は昭和七年(1932)に架けられたコンクリート製の橋ですが、架橋後80年以上が経っています。当時の長瀬川は現在の様なコンクリート護岸ではなく、当然の事ながら「普通の川岸」だったそうで、あまり近付き過ぎると滑って川に転落してしまう事もあったそうです。しかし、泳げる程水は綺麗で、魚やシジミも沢山とれたそうです。それで、この常盤橋には当時「電...

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玉串川(その6)

玉串元町を流れる玉串川に石橋が架けられています。石橋の欄干には、嘉永三年(1850)の年号と「玉串村世話人橋詰辻」と刻まれ、大和川付替え後、井路川となった玉串川に架けられた石橋と言う事が分ります。それで「橋詰辻」とありますが、この辺りは市場村の「橋詰」と呼ばれる場所だそうで、近くにある会館には「橋詰町」とあります。あと、現在石橋は「石板」「アスファルト」「鉄板」のコンビネーションブリッジとなってい...

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吉田川(その6)

かつて、私の自宅近くには「吉田川」が流れ、江戸時代の大和川付替え後に新田開発され「川中新田」と呼ばれる開墾地となりました。当時は水害が無くなり、新しい農地が増えた事で付替えによる恩恵が受けられたであろうと思いますが、しかし現在は農地が減少し住宅等が建ち並んでいます。それで、私はこの土地で暮らす事になり、そろそろ20年近くになりますが、暮らす様になってから一番不便だと感じたのが、吉田川跡(川中新田)...

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菱江川(その6)

一枚目の写真のアスファルト舗装されている所にマンホールの蓋が見えます。かつて、その場所にコンクリート製の橋が架けられていました。行政区画の町名変更以前、この場所は菱屋東(菱屋東新田)と稲田の境界で、菱屋東は現在「稲田新町」に変更され、稲田も「稲田○○」と更に区分けされています。それで、埋立てられたその川跡を歩きますと、かつて水路だった当時の痕跡が現在も残されています。当時のコンクリート製の護岸もその...

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吉田川(その5)

近鉄花園駅北側にある商店街は、吉田川の堤防跡に立地していましたが、近鉄奈良線連続立体交差事業に伴い、花園駅前が再開発される事となり、商店街もその一部が取り壊される事になりました。駅前再開発事業の工事が始まった頃、私は旧吉田村の「新家」と呼ばれる地区で暮らしていましたが、開発事業以前から商店街にある店舗が閉店し始め「商店街も淋しくなるな」と感じていました。私はこの土地の生まれではありませんが、縁あっ...

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菱江川(その5)

かつて、菱江川に「渡し場」があったそうです。渡し場のあった場所を特定した訳ではありませんが、荒本の東端、共同井戸の北側辺りにあったそうで、その場所で重助と言う人が渡守(船頭)をしていたそうです。その後、その子孫もこの地に住み、渡守免許看板(営業許可証?)を保存していたそうですが、その後所在は分からなくなったとの事です。あと「橋」ではなく、船による「渡し」が営われていたのですが、そうなると菱江川はど...

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長瀬川(その6)

「安中新田」は江戸時代に旧長瀬川を新田開発した開墾地で、玉手村の「安福寺」と農民によって開墾された「寺請・百姓寄合持」の新田となっています。御承知の通り「安中」は現在も町名として残り、新田名がそのまま町名として使用されています。それで、数年前に私が旧大和川に関心を抱き、その川跡を辿り始めた頃、安中町周辺を探索した際に立派な旧家がありました。その際「もし、安中新田に会所があったら、こんな感じなんやろ...

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玉串川(その5)

八尾市に「柏村町」があります。この場所は旧玉串川を江戸時代に新田開発した「柏村新田」と呼ばれた開墾地です。大和川付替え後、大田村の庄屋「柏原仁兵衛芳次」が新田開発し、苗字の一字をとって「柏村新田」と名付けられました。柏村新田には「柏村新田会所」も設けられ、江戸時代の記録や絵図を見ますと、広い敷地を持つ立派な会所だった事が分りますが、その会所の建物の一部である、長屋門が昭和時代まで残っていたそうです...

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吉田川(その4)

東大阪市内において、史跡名勝、寺社以外で有名な場所と言えば、やはりここ「花園ラグビー場」かと思います。以前、すぐ近くで暮らしていましたが、このラグビー場に関して殆ど何も知りませんでしたので、手持ちの資料で調べてみました(インターネットで調べる方がより詳しく知る事が出来ますが…)昭和四年(1929)に大軌(現在の近鉄)によりラグビー場は完成し、運動場前の停留所(現在の東花園駅)もこの際、開設されたそう...

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菱江川(その4)

この場所には水路(井路)となり、昭和の時代まで流れていた菱江川の川床が今も残っています。何故、この状態で埋立てられずに残っているのか?その理由は分かりませんが、ここへは農繁期、第二寝屋川を越えて農業用水は送水されていないかと思います(見ての通りですが…)あと、少し上流にポンプ施設を見付けましたが、そこまでは送水されている様です(多分…)それで、この水路は建替え前の府営住宅のすぐ北側を流れ、府営住宅は...

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玉串川(その4)

江戸時代、玉串川が「菱江川」と「吉田川」に分かれる分岐点の上流に「船着場」がありました。以前、現地に市が説明板を設置していましたので、その説明をそのまま引用させて頂きますと、かつてこの場所には古代河内湖の名残の入り込んだ淀みがあり、格好の船着場だったそうです。当時は「剣先船」の往来で賑わい、米、野菜を大坂市中に運び、帰りに干鰯等の肥料を運んでいたそうで、この場所は旧大和川流域各地の物産を集め、定日...

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長瀬川(その5)

東大阪市と大阪市には市域を跨いで同じ「新喜多」と名の付く場所があります。これは江戸時代、旧長瀬川が新田開発され「新喜多新田」と呼ばれる開墾地だった名残で、東大阪市内にはその名が付けられた中学校があります(同じ東大阪市内に住む私の従兄弟が通っていました)その新喜多新田を二分割して、上流側を「上新田」下流側を「下新田」とし、それぞれを管理する為に会所が設けられました。それで、上新田会所は現存しませんが...

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徳庵井路

江戸時代に大和川が付替えられる以前、現在の東大阪、大東市域にかけて「新開池」と「深野池」と呼ばれた、大きな池が存在していました。新開池には「菱江川」が、深野池には「吉田川」あと「恩智川」が流れ込み「長瀬川」や「楠根川」そして河内平野北部から流れて来る諸河川は新開池の出口にあたる徳庵、放出付近で合流していました。この新開池の出口(流れ出し)付近では絶えず土砂を吐き出す事から、それが堆積して川づまりと...

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