2016
07.03

長瀬川(その15)

Category: 旧大和川
これは最近気が付いた事なのですが、以前JR志紀駅の東側付近を流れる長瀬川では、護岸から水を放水(?)していました。

最近は全く見ていませんが、中止となったのでしょうか?

それ自体にどんな理由があったのかも分かりませんが、噴水の様な親水施設的なものだったのか?水の吹出口は現在も残っています。

それで、過去に撮影した写真を探してみますと、2枚だけありましたが、この写真は私が人生で生まれて初めて購入した『デジカメ』で2006年に撮影したものです(少々画質が悪いですが…)

あと、いつ頃まで水が出ていたのか、すぐ近くに住む友人に訪ねると「何それ?」と言う事でした。

友人は地の人間なんですけど、知らんかったそうです…

長瀬川34

長瀬川35

そんなあほなごっさ近所やん(於 八尾市)
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2015
03.01

長瀬川(その14)

Category: 旧大和川
長瀬北小学校の校内、道路に面して東大阪市が「吉松新田会所跡」の説明板を設置しています。

この場所は御存知の様に旧長瀬川を新田開発した「吉松新田」だった場所で、大和川付替え後の宝永五年(1709)に新田開発が竣工しています。

詳しくは説明板を見て頂こうかと思いましたが、フェンス越しで少々見辛いので、今回は説明させて頂きます(…)

吉松新田は説明にもあります様に「末吉甚兵衛」によって開発された町人請負の新田で、その後所有者は幾度も変わりますが、文化二年(1805)に泉州の武田・河合家から小若江の林家に譲渡された際の譲渡状に「会所建屋 壱軒・御高札場 壱ヶ所・表長屋 壱ヶ所・宮 壱社 但し石燈籠一対」と記されているそうで、鴻池新田会所と同じく会所内には生駒山を借景として築山と池を配した庭園があったそうです。

新田と会所の支配権は先の林家が幕末まで所有していたそうですが、その以前の天保十年(1839)に京都の伊丹屋(庄保家)に譲渡され、明治時代以降は庄保家が所有し戦前は別荘として使用されたそうですが、戦後は無住となり会所は荒廃し樹木が生い茂っていたそうです。

以前私のブログにコメントして頂いた地元の方が、お化け屋敷と呼んでいたと仰っていましたので、その荒廃ぶりが想像出来ますが(手持ち資料として当時の写真を所有しています)昭和五十年(1975)に東大阪市に売却され、長瀬北小学校の校舎が建設されています。

それで、会所内には吉松新田の産土神神である「竜華神社」がまつられていましたが、大正元年(1912)に「長瀬神社」に合祀され、石造物が移設されています。

竜華とは長瀬川の別名である「竜華川」によるものですが、竜華神社の石造物に関しては後の機会に更新を予定しています「長瀬神社」の記事にて記したいと思います。

それで、この辺りは大和川付替え以前「吉松の渡し場」と呼ばれ、舟で渡しが行われていたそうで、付替え後は「吉松浜」と呼ばれた船着場となり、剣先船に年貢米等の物資の積み下ろしが行われていたそうです。

あと、この場所に昭和時代にコンクリート製の橋である「昭和橋」が架けられていますが、こちらは以前同じく長瀬川の記事にて更新していますので、参照して頂きたいと思います。

吉松新田会所跡1

吉松新田会所跡2

長瀬川33

長瀬北小卒業生さん御覧になっていませんでしょうか(於 東大阪市)
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2014
05.31

長瀬川(その13)

Category: 旧大和川
長瀬川には多くの橋が架けられていますが、今回は吉松にある「昭和橋」を取り上げたいと思います。

「昭和橋」は昭和三年(1928)に御大典を記念して架けられたコンクリート製の橋で、橋の西側にある長瀬尋常高等小学校(現長瀬北小学校)の全校生徒により、渡り初めが行われたそうです。

それで、江戸時代中期にはこの辺りに「渡し」があったそうですので、それは大和川の付替え以前の事かと思われ、あとこの場所には明治時代、柏田から近江堂へ続く道の長瀬川に橋が架けられていたそうですが、当時の長瀬川に架かる橋の多くが「土橋」だったそうなので、以前この場所に架けられていた橋も土橋だったのでしょうか?

橋の名は「昭和」ですが、この橋を渡り西へ行くと「上人道」へと続きますので、この辺りは古くから歴史のある場所だった事になります。

ここは私がいつも長瀬川沿いを通る際の休憩場所となっています。

夏は木陰が涼しいです。

昭和橋1

昭和橋2

昭和橋3

昭和橋4

長瀬北小卒業生さん御覧になっていませんでしょうか?(於 東大阪市)
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2014
02.15

菱江川(その11)

Category: 旧大和川
今回は直接、菱江川に関しての記事ではありませんが、かつて菱江川の洪水から流路南側にある村々を守る為に築かれた堤防を取り上げようかと思います。

長田東公園の南側を東西に通る道がありますが、その道を東に行くと周辺の道路とは違い、不自然にカーブして変電所に突き当たっているのが分かります。

この道は「内介堤」と呼ばれ、長田から荒本、新家、横枕まで築かれた堤防の跡なのだそうです。

堤防上には石が置かれ、その石の高さを隣接する村々の協定で取り決めていたそうですが、堤防の高さに関して村同士で争う事もあったそうです。

確かに長田村に氾濫した菱江川の水が浸水しない様に堰き止めると、稲田や七軒家が水のはける場所が無くなってしまい、自然に水が引くのをじっと待つしかありません。

当時、堤防の高さは約1.5mほどあったそうですが、現在中央環状線の開通や区画整理事業の実施により消滅し、当時の名残は全くありません。

内介堤は長田村を始め、各村々を菱江川の氾濫による水害から守る為に築かれたものでしたが、時代は変わり現在この地区は第二寝屋川以外はそれ程大きな河川も流れていませんし、水害もほぼ発生しない地区であります。

それで「内介」ですが、ここで以前取り上げています「内介地蔵尊」は長田東公園の角にまつられているもので、地蔵尊の記事にも記していますが「内介」とは長田の小字名でこの辺りの事を言い、またこの堤は「東堤」とも呼ばれたそうです。

ほんと、今は跡形もありません。

内介堤1

内介堤2

内介堤3

内介堤4

内介堤5

内介堤6

内介堤7

そろそろ菱江川もネタ切れになってきました(於 東大阪市)
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2014
02.13

長瀬川(その12)

Category: 旧大和川
中小阪に鎮座する「弥栄神社」の境内に「根上がりの木」と呼ばれる木があります。

神社にある市の設置した説明板によりますと、神社の鎮座する場所は旧長瀬川の増水時の支流で「溝」と呼ばれる場所だそうで、その支流の堤防上に生えていた木が土が取り除かれ、根が浮き上がった状態からそう呼ばれているのだそうです。

あと、説明には北参道付近の一段高くなっている場所は、中小阪村を洪水から守る為の新堤の跡で、その堤跡を「馬立」とありますが、その馬立跡にも三本木が生えていまして、その中の一本は「根上がりかけ」状態になっています。

支流堤防と新堤の位置関係がよく分かりませんでしたが、同じく旧長瀬川支流の縁辺に生えていた樹木だったのでしょう?

根上がりの木1

根上がりの木2

根上がりの木3

根上がりの木4

根上がりの木5

根上がりの木6

根上がりの木7

馬立跡の木1

付替え時はもっと小さな木だったのでしょう(於 東大阪市)
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2013
07.15

長瀬川(その11)

Category: 旧大和川
前回「その10」にて「二番樋」と「三番樋」の合流点までの事を記しましたが、今回はその続きで、合流点より下流について記したいと思います。

二つの取水口から取水された長瀬川は、JRの鉄橋の下をカーブしながら下流へと流れて行きます。

長瀬川22

長瀬川23

長瀬川24

それで、これまで取水口から合流点まで都合上、長瀬川としていましたが、この合流点から二俣の分水樋までは「十間井路」または「中堀川」と呼ばれ、この十間井路(中堀川)は、大和川付替え後に設けられた用水路(井路川)の事を言います。

現在この地区を流れる長瀬川は「アクアロード柏原」として、親水施設や遊歩道が整備されています。

長瀬川25

長瀬川26

私ここへ来ると、水面近くまで下りる事が出来る場所から、長瀬川を泳ぐ魚を見るのが楽しみで、柏原に来ると必ずこのアクアロードに立ち寄ります。

あと、川を跨ぐ様に休憩場所があり、そこには大きな電光掲示板が設置され、大和川の現在の水位等が表示されていましが、先週訪れた際には節電の為、電光掲示板の表示は停止されていました。

長瀬川27

長瀬川28

長瀬川29

長瀬川30

長瀬川31

それで、この周辺の長瀬川には幾本の橋が架けられていますが、その中に一つに「南栄橋」があります。

手持ち資料にこの橋についてありましたので取り上げたのですが、この橋は他の橋と違い川に対して斜めに架けられています。

南栄橋1

南栄橋2

以前、橋の東側に肥料工場があったそうで、この橋はJR関西線と工場の間に敷設された引き込み線の跡なのだそうです。

確かに他の橋に比べると橋脚が非常に頑丈そうに造られていますので、引き込み線の頃の鉄橋をそのまま転用した(?)のだと思います。

あと、柏原の地場産業と言えば染色業や製油業等ですが、かつて剣先船や柏原船で干鰯などの肥料も積荷として運んだそうなので、ここ柏原にも近代まで肥料工場があったのはそんな流れからでしょうか?

きちんと調べた訳ではありませんが…

それで私、柏原に通う様になって数年経ちましたが、今年も春頃から月二回ペースで訪れています。

その際、柏原の方とお話しする事があるのですが「私は柏原が好きでいつも来るんですわ」と言いますと、柏原の方は「柏原の何処がそんなええの?」といつも仰ります。

そう言われてみると私も「ここがええ」って答えられないのですが、でも柏原はほんまええところです。

そうやなかったら、そんなしょっちゅう来ませんから。

休日に何かのんびり出来るところです。いろんなもんがあって。

長瀬川32

最近でかいソウギョがよく泳いでます(於 柏原市)
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2013
07.14

菱江川(その10)

Category: 旧大和川
「菱江川」もそろそろ書く事(ネタ)が少なくなって来ました。

これは、現在この川が既に無いと言う事も理由の一つなんですが、あと「吉田川」も同じく付替え後、その川床跡に井路(用水路)を設けませんでしたので、同じ理由で更新の方も滞り気味となっております。

菱江川の記事に関してはその殆どが「私の思い出」ばかり記しておりますが、それはいつもここで申しております様に、この川は私にとって一番身近な川であり、その川のほとりで育ったのがその理由です。

それで、私通勤の際にほぼ毎日この菱江川跡を通っています。

道路に整備された場所もあり、ここでも何か所か取り上げています様な遊歩道に整備された場所もあります。

レンガを敷き詰めた様な遊歩道は、かなりの範囲で整備されていまして、私の実家近く、七軒家、稲田周辺の菱江川跡(玉串川水路)も遊歩道の整備が進んでいます。

しかし、それ以前は埋立て後にアスファルト舗装の通路だった場所もあり、市の意向かどうか私は知りませんが、最近は殆ど先に記しました様に小奇麗な(?)遊歩道に整備されています。

それで、いつもこの川跡を通る際にいつも思う事があります。

それは、川床跡が新田開発された際にどの様に耕地にしたのか?と言う事です。

私の実家辺りは下流域で、それ程周囲の土地との高低差はそれ程感じませんが、上流や中流域は顕著にその高低差が分かります。

この事は以前より非常に興味がありましたので、ぼちぼち調べてはいましたが、最近大まかにその経緯を知る事が出来ました。

それによりますと、菱屋東新田は周囲の土地より2丈(約6m)ほど高かったその堤防を引きならしましたが、それでもまだ周囲より56尺(約1.7m)ほど高かったそうです。

全長5.74km、幅平均82m、の堤防を引きならすには相当の労働力が必要となりますが、この労働力(人手)を何処から得たのかは不明だそうです。

新田開発後に13戸の小作人が入植したそうですが、この様な大工事をこの僅かな労働力で施工したとは考えられないそうです(確かに)

一体どれ位の人々が工事にたずさわったのでしょうか?

あと、新田開発に関して諸々の事が分かりましたが、長くなりますので今回はこれ位にしておきます(…)

しかし、以前も記しましたが、この川の事を「菱江川」って呼ぶのは今も違和感があります。

地元の人間も殆どそう呼びませんから。

やっぱり「~の裏の川」とか「~のねきを流れる川」って感じですわ。

今も。

菱江川39

菱江川40

菱江川41

菱江川42

菱江川43

菱江川44

菱江川45

さあ次は何書こかなと(於 東大阪市)
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2013
07.07

玉串川(その9)

Category: 旧大和川
「御野縣主神社」の境内に旧玉串川の堤防跡が残っています。

興味のある方なら御存知だと思いますし、私は御野縣主神社と言えばこの「堤防跡」と言う感があります。

それで市の設置した説明板がありますので、詳しくはそちらを見て頂きたいと思いますが、三百年以上前の旧玉串川の堤防跡とはどんなものかと言いますと、御覧の通りです(笑)

玉串川の堤防跡10

玉串川の堤防跡11

玉串川の堤防跡12

玉串川の堤防跡13

玉串川の堤防跡14

玉串川の堤防跡15

玉串川の堤防跡16

玉串川の堤防跡17

この場所だけに残っていたのは、おそらく社地に隣接していた為だろう(?)と思われますが、現在は住宅地であるこの場所にこの状態で現存しているのも、考えると非常に不思議に思えます。

あと、実際に堤防跡を歩いてみるとすぐ気が付く事がありますが、それは堤に石垣がある事です。

玉串川の堤防跡18

玉串川の堤防跡19

玉串川の堤防跡20

玉串川の堤防跡21

いつの時代のものかは分かりませんが、堤防を補強する為に積まれたものであろうと思われ、上流域の柏原(旧長瀬川)にも同じ様な工夫(?)がされた場所があります。

大和川の流路が固定されたのは一般に鎌倉時代と言われ、流路が固定される以前の川は別のものとされていますが、文献では天平宝字六年(762)に長瀬川の堤防が決壊した事が記されているそうです。

それ以降、水害から人々を守る為に修築や補強が行われ、これら人の手によって旧大和川の流路は固定された事になります。

それで、広範囲の堤防は誰が維持管理(堤普請)したのか?と言う事になりますが、鎌倉時代では荘園領主がそれを行ったと考えられるそうですが、それを裏付ける直接的な資料は無いのだそうです。

旧大和川堤防の維持管理が誰によるものと明確になるのは、戦国時代以降だそうです。

さて、歴史的な事はこれ位にしまして、何も知らなければただの雑木林の様な堤防跡ですが、南北両端にはその堤防跡は無く住宅が建ち、以前ここで取り上げた「連理の枝の木」は堤防跡の北端にあります。

玉串川の堤防跡22

玉串川の堤防跡23

玉串川の堤防跡24

玉串川の堤防跡25

玉串川の堤防跡26

玉串川の堤防跡27

あと、この堤防跡を東側の境内の外、玉垣越に見ますとほんとやや小さめの雑木林に見え、葉の生い茂る時期だと連理の枝の木もごく普通の木に見えます(笑)

しかし普通、堤防にこんな多くの木があるのは考えるとおかしな話ですので、これは付替以降に植樹されたものだと思いますが、どうなんでしょうか?

玉串川の堤防跡28

神社がある限り後世までずっとこのままで残るんでしょう(於 八尾市)
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2013
04.06

長瀬川(その10)

Category: 旧大和川
最近「旧大和川」の記事の更新がおろそかになっておりましたので、本日は久しぶりの更新となります。

それで、今回は柏原の「築留二番樋」と「築留三番樋」からその合流点辺りまでの事を書きたいと思います。

「二番樋」と「三番樋」については、それぞれ「その1」「その2」で記事にしておりますのでそちらをご覧頂く事にしまして、二つの取水口から取り込まれた大和川の流れは北に向かい一つの流れとなります。

二番樋からの流れは「築留土地改良区」の建物の横を流れて行きますが、今回は珍しい(?)写真を掲載したいと思います。

通常、この場所はかつて一番樋があった名残なのかどうか分かりませんが、取水された水が一旦貯水された様になっています。

それがある日訪れますと、水がありませんでした(!)

長瀬川11

長瀬川12

長瀬川13

「何でや?」と思いましたが、見ると中央に砂が小高くあり、これは自然にこうなったのか、浚えて集めたのか良く分かりませんでした。

レンガ積の樋にも土嚢が積まれ、水が入って来ない様にしてありましたので、どれ位の周期なのか分かりませんが、堆積した土砂をこうやって取り除いているんでしょう。

私初めてこれを見た時、少々びっくりしましたが、それ以前に「長瀬川の水はどないなんねん?」と言う事になりますが、三番樋があるので大丈夫です(笑)

普段は両岸に民家の立ち並ぶその間を合流点まで流れて行きます。

長瀬川14

次に三番樋ですが、こちらは取水された水はそのまま北に流れて行きます。

その流れに沿って北に行きますと、歩道に赤いポストがあり、その先に釣り具屋さんがありました。

長瀬川15

長瀬川16

長瀬川17

今は残念ながらお店を閉められましたが、私いつも大和川や石川で釣りをする際はここでエサを買っていました。

いつも「釣れてますのん?」と尋ねると「どこでも釣れるてるよ」といつも同じ返事していた、あんまり愛想の無いおばちゃんは元気にしてはるのでしょうかね?

思えば、ここが閉店してからあまり大和川や石川に釣りに行かなくなった様に思います。

私が子供の頃はこんな昔ながらの釣具屋さんが普通にあったものでしたが。

その釣り道具屋さんを過ぎさらに北に行くと、合流点が見えて来ます。

長瀬川18

長瀬川19

長瀬川20

いわゆる「落合い」と言う場所で、ここで一つになった流れは蛇行してJRの鉄橋の下を流れて行きます。

今回はここまでとしたい思いますが、以前まではこの合流点の写真は今回掲載している写真の様に一枚の写真に納まりませんでした。

私、カメラの知識は殆どありませんが、これは最近のデジカメのレンズが広角になったからだそうで、それを知らない時は「何かうまいことみな入るなぁ」と思っていました。

これに関しては何かと便利であります。

それで、旧大和川の記事の更新が減っておりますが、私の中河内探索の基本はこれだと思っていますので、今も地道に探索は続けております。

ただ、この旧大和川と楠根川の記事は他の記事と比べると、書くのに少々手間がかかりますもので、どうしても石造物などの他の記事更新が多くなってしまいます。

まあ、いらん事書かなんだらそれ程でもないであろうと思いますが、どうしても今回の様にいらん事書いてしまいますので…

ちょっと詰めて書かなあかんとは思ってますけど。

長瀬川21

ここでコイを見てから別の場所へとまた行きます(於 柏原市)
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2012
09.02

吉田川(その7)

Category: 旧大和川
吉田川跡(川中新田)は、近鉄花園駅辺りより以北、加納の南辺りまで微高地が続き、その流路はおおよそ見当がつきます。

しかし、加納以北は300年以上による時間の流れにより、明治以降の耕地整理等で川跡周辺の環境は変化しています。

それで、吉田川跡は自宅から程近い場所にありますので、休日に愛犬とカメラ片手に散歩がてら探索していますが、その際に気付いた事があります。

それは、以前よりその流路上にあると思われる墓地についてですが、その墓地の中央に小高い場所があり、それが吉田川の堤防跡(残塁)ではないかと推測していました。

これはあくまでも素人考えで何の根拠もありませんが、墓地内に建てられている記念碑に、この場所がかつて池沼だった事が記されていました。

周辺には水路が流れていますので、吉田川の新田開発以降、灌漑用や排水用に水路(井路)が設けられたと思われ、自然発生的に池や沼、または溜池等が造成されたのかも知れません。

現在、この周辺は多くの企業が立ち並ぶ地区となっていますが、その企業と企業の間に農地が取り残される様に残っている場所があり、かつて田畑が広がっていた風景を想像してしまいます。

あと、企業と企業の敷地の間にある狭い通路(?)が、吉田川の堤防ラインだと分かる場所があります。

しかし、こんな狭い場所を人が通る事はまずないと思いますが、私は一応確認の為に通っております(不審者扱いされそうですが…)

それで、私は専門家ではありませんので、趣味の範疇で地元の歴史に触れていますが、地元探索も「遊び心」を持って楽しむ様に心掛けています。

興味を持って楽しむ事が一番と考えていますので。

吉田川23

加納新墓域竣成記念碑

吉田川24

吉田川25

中部土地区画整理事業竣功記念碑

吉田川26

吉田川27

旧今米村より北の地域の事になります(於 東大阪市)
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2012
08.15

長瀬川(その9)

Category: 旧大和川
八尾市内にある府立高校の校庭に「狐山」と呼ばれる塚があります。

この塚は旧長瀬川の左岸堤防跡の一部が、大和川付替後300年以上経た今も現存しているものです。

学校の敷地内にあるので、許可なく立ち入る事は出来ませんが、敷地の外側からは見る事が出来ます。

かつては旧大和川の本流であった、旧長瀬川の堤防ですので、やはりそれなりの大きさがあり、高さ数メートルはありそうです。

当時、この規模の堤防がずっと続いていたのでしょうか?

「その3」でも記しました様に長瀬川の堤防は「娶そしり」と呼ばれ、この「狐山」を見ていると、当時の風景が目に浮かぶ様な気がします。

狐山1

狐山2

あと、東大阪市の大蓮にもかつて「狐塚」と呼ばれる場所があり、こちらも同様に旧長瀬川の左岸堤防跡だったそうです。

長さは約13~15m、高さが2~3mあり、ススキが生い茂っていたそうで、ここは蘇我入鹿が葬られた場所だと伝えられているそうですが、これは信憑性が低いかと思われます。

「狐塚」は採土等により、現在は消滅しましたが、手持ちの資料にこの「狐塚」の写真があり、八尾の「狐山」よりは若干小さな感じがします。

それで、この辺りは小字名が「稲荷前」その北が「切所」だそうで、昔堤防が決壊し祠がまつられていた場所ではないかと言う事ですが、自宅近くにある、旧吉田川跡に「歯がみさん」と呼ばれる道祖神がまつられ、こちらも同様に堤防が決壊した場所と言われています。

あと、この場所から市立中学校の南側を通る道は、旧長瀬川の堤防跡の「百間堤」と呼ばれた、木々の生い茂る土堤が続いていたそうですが、夜は通るのも恐ろしい場所だったそうです。

しかし、現在は住宅が建ち並ぶごく普通の道で、堤防の名残は殆んどありませんが、しいて言えば緩やかにカーブし続いている事が、堤防の名残でしょうか?

今回は八尾と東大阪の「狐塚」と呼ばれる、旧長瀬川の堤防跡を取り上げました。

狐塚1

狐塚2

狐塚3

狐塚4

狐がすんでいたそうです(於 八尾市・東大阪市)
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2012
08.14

菱江川(その9)

Category: 旧大和川
ここ数日、天気が大荒れで警報や注意報が発令されていますが、私が暮らす東大阪も未明に(何時頃かはっきり覚えてませんけど)雷を伴い激しい雨が降りました。

それで、現在はどんなに激しい雨が降っても、こと東大阪に関して、私の知る範囲では河川や水路が氾濫したり、道路が冠水した話はここ数年聞いた事がありません。

しかし、私が子供の頃(昭和40年代)の菱江川(玉串川水路)が埋立てられる以前は、台風等で大雨が降ると、数年に一度か二度、菱江川から水が溢れる事がありました。

当時、私の暮らしていた家は菱江川のすぐ近くでしたので、家の軒先まで溢れ出た水が迫って来た事が何度かありました。

しかし、雨がやむと不思議に水はさっと引いてしまい、その後はヘドロの様な土砂が周辺に広がり、ドブ川の臭いが漂っていました(懐)

それで、当時既に「第二寝屋川」は開削され通水していましたので、下流域には大量の水が流れる事はなかった筈です(菱江川は最後、第二寝屋川に再び流れ込んでいましたが)

では、あの大量の水は何処から流れて来たのか?

おそらく、短い流域内で大量の雨水が全て菱江川に流れ込み、それ程川幅も広くなかった事から、短時間で一気に増水したのだと勝手に垂足しております(多分)

それで、最近実家近くの菱江川跡は、他の地区にある水路跡の様に遊歩道の整備が始まりました。

しかし、写真を御覧になっても分かります様に「玉串川」や「長瀬川」の様に、川岸に道路等のスペースがありませんで、住宅や田畑のすぐそばを流れていた頃が分かるかと思います。

あと、話が少し脱線しますが、昭和40年代頃の家庭では、まだその殆どが「汲み取り式」のトイレで、田畑には「野つぼ」もありました。

当時、既に人間が月に行き、新幹線が走る時代に、私の育った地区にはバキュームカーが走り、畑に肥やしをまいていたのです(笑)

そんな状況の中、川の水が溢れ出すとどうなるか?これは御想像通りの状態となります。

でも、そんな「私の昭和時代」も、今思うとほんと懐かしく思えます。

菱江川34

菱江川35

菱江川36

菱江川37

菱江川38

「菱江川」は歴史的な事よりも私の思い出話ばかりになってしまい申し訳御座いません(於 東大阪市)
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2012
05.05

玉串川(その8)

Category: 旧大和川
八尾の都塚にある「都留美島神社」は旧玉串川の堤防跡と言われています。

旧大和川跡を辿り始めた頃、たまたまこの神社の前を通りがかった際に「多分、ここ堤防跡やろ」と思いましたが、確証がありませんし、私は専門家でもありませんので、はっきりした事は分かりませんでした。

その後、資料用に購入した江戸時代の土木関係の書籍に、この場所が「旧大和川自然堤防」と記されていましたので、やはりこの場所は川跡だと分りました。

しかし、少し興味と知識があれば誰が見ても分るかと思いますが、その分るまでのプロセスが「どないやろ?」って感じで、なかなか面白かったりします。

それで、他の場所にも「旧堤防跡」が残っていますので、これから順次取り上げて行く予定にしています。

あと、下の二枚の写真は、私が一番最近ここを訪れた時に撮影したものと、初めてここを訪れた時に撮影したものです。

やはり昔の方が、見て分りやすいでしょうか?

玉串川の堤防跡1

玉串川の堤防跡2

玉串川の堤防跡3

玉串川の堤防跡4

玉串川の堤防跡5

玉串川の堤防跡6

玉串川の堤防跡7

玉串川の堤防跡8

玉串川の堤防跡9

2005年に撮ってました(於 八尾市)
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2012
04.30

菱江川(その8)

Category: 旧大和川
菱江川は私が暮らしていた家のすぐ傍を流れ、かつては一番身近な川でしたが、幼少の頃から埋立てられるまで、その風景は今も私の記憶の中にあります。

しかし、私が記憶する菱江川は中央大通りより以北(下流)の菱江川であり、上流域での菱江川については殆んど知らないのですが、菱江川と八尾枚方線(府道21号線)が交差する場所から下流側の記憶が僅かにあります。

当時(約25年位前)菱江川は八尾枚方線沿いにある自動車教習所前まで暗渠化されていましたが、八尾枚方線を越えてすぐの場所は、昔の水路の状態で残り、水の流れも殆んど無く、澱んでドブ川の状態だったと記憶しています。

その後、時期は覚えていませんが、埋立てられ遊歩道に整備されました。

時折、当時の事を思い出しながら遊歩道を歩く事がありますが、片側がほぼ平らなのに対し、植え込みを挟んで反対側には起伏がある場所があります。

おそらく、起伏のある方が川跡で、平らな方が川沿いの道だった様に思います(逆かも知れませんが…)

更に下流へ行きますと、産業道路(府道702号線)の手前で「旧暗越奈良街道」と交差しますが、かつてこの場所には「八剱橋」が架けられ、その石材が遊歩道に保存されています。

橋の石材は、いつの時代のものかは分りませんが、市の設置した説明板には江戸時代、菱江川には剣先船が運航されていたと記されています。

以前、地元の方にお話を伺った際、かつて綺麗な水が流れていた時代、川舟が行き交い、あとシジミやフナやモロコ等の魚も沢山とれたと仰っていました。

いつもこの川跡を歩いているとその事を思い出すのですが、ドブ川の状態だった菱江川しか知らない私は、川舟が行き交う昔の菱江川とドブ川だった菱江川のイメージがどうしても重なりません。

同じ昭和時代でもやはり世代が違うと、その記憶する風景も全く違うものだといつもそう思うのですが…

菱江川28

菱江川29

菱江川30

菱江川31

菱江川32

菱江川33

八剱橋の石材1

八剱橋の石材2

八剱橋の石材3

八剱橋の石材4

八剱神社の近くなので「八剱橋」と名付けられたのでしょう?(於 東大阪市)
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2012
03.11

長瀬川(その8)

Category: 旧大和川
植松町にある「安中新田会所跡」の近くを流れる長和川に沿って公園があります。

この場所はかつて「舟庭」と呼ばれた「剣先船」の船着場跡なのだそうです。

近くには会所があり、さらに南には奈良街道も通っていた事から考えても、この場所に船着場が設けられたのは当然の成り行きだったのでしょうがその後、鉄道の開通により、長瀬川の水運は衰退してしまいました。

現在は公園として親水施設も整備され、綺麗な草花が植樹されています。

やはり、船着場をイメージして整備されたのでしょうか?

舟庭跡1

舟庭跡2

舟庭跡3


舟庭跡4

舟庭跡5

最初は変わった公園だと思いましたが…(於 八尾市)
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2012
02.12

玉串川(その7)

Category: 旧大和川
現在、町名に「山本」と付く場所はその殆どが江戸時代の大和川付替え後、旧玉串川跡を新田開発した「山本新田」と呼ばれていた開墾地です。

詳しくはインターネット等で調べる事が出来ますので、ここでは簡単に説明させて頂きますが「山本新田」の由来は、この地の新田開発権を落札した泉州の山中善兵衛とその子庄兵衛、平野の本山弥衛門重英(加賀屋)の名字より一字ずつとって名付けられたと言われています。

その後、享保十三年(1728年)に長堀の泉屋吉衛門(泉屋は住友の屋号、住友財閥)に譲渡され、昭和十五年(1940年)までの212年間、住友の所有地でしたが「山本八幡宮」を経て八尾市に寄贈され、住宅開発による分譲によって現在に至っています。

それで、新田を経営管理する為に「山本新田住友会所」が建てられましたが、現在会所建物は現存せず、その跡地に石碑が建てられています。

あと、明治六年(1873)に山本小学校の前身である「河内第41番小学校」もこの場所に創設されたそうです。

跡碑の碑文にも記されていますが、この場所は常に河内山本発展の中心であったとの事です。

尚、碑文中に享保八年(1723)とあるのは誤りで、約220年ではなく約212年間、住友の所有となっていました。

改訂されずにそのままとなっています。

山本新田住友会所跡1

山本新田住友会所跡2

山本新田住友会所跡3

山本は八尾の高級住宅街ってイメージがあります(於 八尾市)
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2012
01.22

菱江川(その7)

Category: 旧大和川
稲田本町にかつて菱江川に架けられていた石橋の親柱が残されています。

親柱は四基あり「大和橋」「萬延元庚申年 十一月中句成之」「仙人橋」「里正 宮田澤田 石工 嘉…」と刻まれています。

一本の橋に二つの橋の名がある、その理由は何故か分りませんが、大和橋は萬延元年(1860)の年号が刻まれ、仙人橋には年号は確認出来ませんが、里生として二名の方の名が刻まれている事から、明治以降に橋の修築が行われたとも考えれれるそうです。

私、このお名前に心当たりがありますので、おそらくそうではないかと思います。

この橋は地元で「中道」と呼ばれる道が菱江川を渡る場所に架けられていたもので、この場所から南へ行くと「稲田八幡宮」へと続き、その先には楠根川跡(楠根川緑道)があり、この道は私の小学校の通学路でもありました。

あと、この橋が架かっていた場所は他の旧大和川跡と違い、川が流れている場所が周囲より低くなっています。

これは稲田の旧村部が南北に微高地になっており、菱江川がその中央を東西に流れていた事によるもので、大和川付替え以前の絵図の中には稲田村のある場所が「新開池」に浮かぶ二つ島の様に描かれているものもあります。

それで、私が小学生だった頃、学校帰りにこの橋の上から川を覗き込んでいたのですが(当時ドブ川状態で様々なものが上流から流れてきたので…)久しぶりに橋跡から川跡を見ますと、左岸側に昔あったお風呂屋さんは廃業され、その跡には新しい住宅が建ち並んでいます。

しかし、右岸側は驚いた事に私が子供の頃に見た当時の風景とほぼ同様で、水路沿いに板壁が続く風景は当時のままでした。

菱江川は埋立てられてしまいましたが…

菱江川の親柱1

菱江川の親柱2

菱江川の親柱3

菱江川の親柱4

菱江川の親柱5

菱江川の親柱6

菱江川の親柱7

菱江川の親柱8

菱江川の跡

子供の頃はもっと川幅が広く見えたんですけどね(於 東大阪市)
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2012
01.09

長瀬川(その7)

Category: 旧大和川
八尾市を流れる長瀬川に「常盤橋」が架けられています。

「常盤橋」は昭和七年(1932)に架けられたコンクリート製の橋ですが、架橋後80年以上が経っています。

当時の長瀬川は現在の様なコンクリート護岸ではなく、当然の事ながら「普通の川岸」だったそうで、あまり近付き過ぎると滑って川に転落してしまう事もあったそうです。

しかし、泳げる程水は綺麗で、魚やシジミも沢山とれたそうです。

それで、この常盤橋には当時「電燈」が設置されていたそうで、コンクリート製の親柱の上部にその取り付け跡が残っています。

クーラーの無い時代、電燈によって明るく照らされた常盤橋には、周辺住民の方々が涼みに集まったそうです。

その後、電燈はいつしか撤去されたそうですが、街灯が普及し、水路に架かる小さな橋に設置する必要もなくなったのでしょう?

そんな、常盤橋の昔の話を地元の方に伺いました。

あと、お話しを伺った方は戦時中、米軍のB29爆撃機が撃墜され墜落していく際、この橋の架かる場所から目撃されたそうです。

常盤橋1

常盤橋2

常盤橋3

常盤橋4

常盤橋5

常盤橋6

常盤橋より長瀬川

この辺りは水路内で水を隔てる隔壁が高くなってます(於 八尾市)
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2011
11.13

玉串川(その6)

Category: 旧大和川
玉串元町を流れる玉串川に石橋が架けられています。

石橋の欄干には、嘉永三年(1850)の年号と「玉串村世話人橋詰辻」と刻まれ、大和川付替え後、井路川となった玉串川に架けられた石橋と言う事が分ります。

それで「橋詰辻」とありますが、この辺りは市場村の「橋詰」と呼ばれる場所だそうで、近くにある会館には「橋詰町」とあります。

あと、現在石橋は「石板」「アスファルト」「鉄板」のコンビネーションブリッジとなっていますが(?)幅も拡張され、人はもとより自転車や車も通行出来る様になっています。

江戸時代に架けられたこの石橋は、現在も橋として使用されていますが、この場所が暗渠化されると撤去される可能性もあります。

ここは第二寝屋川より下流で唯一、暗渠化されていない場所で、既にこの橋の上流と下流は暗渠化されています。

玉串川の石橋1

玉串川の石橋2

玉串川の石橋3

玉串川の石橋4

玉串川の石橋5

玉串川の石橋6

玉串川の石橋7

車が通るので鉄板で幅を広げたんでしょうね(於 東大阪市)
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2011
11.12

吉田川(その6)

Category: 旧大和川
かつて、私の自宅近くには「吉田川」が流れ、江戸時代の大和川付替え後に新田開発され「川中新田」と呼ばれる開墾地となりました。

当時は水害が無くなり、新しい農地が増えた事で付替えによる恩恵が受けられたであろうと思いますが、しかし現在は農地が減少し住宅等が建ち並んでいます。

それで、私はこの土地で暮らす事になり、そろそろ20年近くになりますが、暮らす様になってから一番不便だと感じたのが、吉田川跡(川中新田)を東西方向に跨いで移動する際の道路が非常に少ないと言う事です。

花園周辺はそうでもないのですが、産業道路(大阪府道702号線)から中央大通りの間には、南北に道路が一本通っているだけで、東西は車が通行する事が出来る道路はそれ程多くありません。

地理的に川中新田と言う帯状の微高地が南北に通っている為、近代までそれ程道路等が整備されず、昔からあった道がそのまま、現在も道路として使用されているからだと思います。

そんな吉田川跡に「賽之神神社」があります。

この場所は吉田川の左岸堤防上にあたり、御神体は自然石で道行く人を災難から守り、村人の安全、あと縁結びの神様としてまつられています。

それで、この近くに「星鶴醸造」があります。

ホシツルさんは東大阪で唯一(多分?)お醤油を製造しているところです。

大正時代の創業だそうですが、現在も流れていると言われる、吉田川の伏流水が井戸水として湧き出てたものを使用しているのかも知れません(?)

昨夜も犬の散歩でホシツルさんの前を通りましたが、やっぱりお醤油のいい香りがしました。

賽之神神社1

賽之神神社2

賽之神神社3

賽之神神社4

賽之神神社5

賽之神神社6

賽之神神社7

賽之神神社8

星鶴醸造

でも「住めば都」と言いますからね(於 東大阪市)
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2011
10.02

菱江川(その6)

Category: 旧大和川
一枚目の写真のアスファルト舗装されている所にマンホールの蓋が見えます。

かつて、その場所にコンクリート製の橋が架けられていました。

行政区画の町名変更以前、この場所は菱屋東(菱屋東新田)と稲田の境界で、菱屋東は現在「稲田新町」に変更され、稲田も「稲田○○」と更に区分けされています。

それで、埋立てられたその川跡を歩きますと、かつて水路だった当時の痕跡が現在も残されています。

当時のコンクリート製の護岸もそのまま残り、私が幼少の頃はこの川べりで良く遊んだものですが、実は一度もこの川に落ちた事はありませんでした(^.^)

知人の中には「子供の頃、長瀬川に落ちてドロドロになった」と言う人もいるのですが、皆子供の頃は遊んでいる最中に結構、川(ドブ川)に落ちているみたいです。

あと、この川跡沿いに大阪では有名な某スーパーマーケットがありますが、以前も同じ場所に市場がありました。

その場所にもコンクリート製の橋が架かっていましたが、その橋は現在もそのまま残され、この橋を渡り市場に買い物に行った事を懐かしく思います。

その市場と川を挟んで向かい側に銭湯がありますが、当時は汚水もこの川に排水していた様で、寒い時期になると川から大量の湯気が沸いていたのを今も覚えています。

当時は生活廃水、工場廃水等、何でもこの川に流していたのでしょう(?)

それで、近くにプロ野球選手のお宅がありました。

現在はマンションや住宅が建ち並び、様子は一変してしまいましたが、長屋や文化住宅等が多くあった時代、私が小学生の頃に庭付きの立派な二階建てのお宅が建てられていました。

綺麗な色の外壁のそのお宅の大きな窓には、また綺麗なカーテンがかけられていました。

子供ながらに「プロ野球選手になったら、こんなでっかい家に住めるんや」ってほんとそう思いました。

現在はサッカー選手が憧れの職業の人気ナンバーワンだそうですが、当時はやっぱりプロ野球選手が一番の人気だったと思います(巨人軍V9の頃でしたか?)

それで菱江川(その2)でも記しましたが、私の職場には小、中学校の後輩がいます(親子ほど歳が離れていますが…)

その彼が私との会話の中で、菱江川の事を「恩智川」と言っていました。

彼はこの川の事を恩智川と真剣に思っているらしく、私はそうだとも違うとも言いませんでした。

やっぱり土地の人間は、この川の事を「菱江川」って言いませんね。

私もそうですが…

菱江川6-1

菱江川6-2

菱江川6-3

菱江川6-4

菱江川6-5

少し上流まで遊歩道の整備が始まっています(於 東大阪市)
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2011
08.16

吉田川(その5)

Category: 旧大和川
近鉄花園駅北側にある商店街は、吉田川の堤防跡に立地していましたが、近鉄奈良線連続立体交差事業に伴い、花園駅前が再開発される事となり、商店街もその一部が取り壊される事になりました。

駅前再開発事業の工事が始まった頃、私は旧吉田村の「新家」と呼ばれる地区で暮らしていましたが、開発事業以前から商店街にある店舗が閉店し始め「商店街も淋しくなるな」と感じていました。

私はこの土地の生まれではありませんが、縁あってこの土地で暮らす事になり、あと以前私の従兄弟の家が駅の南側にありましたので、昭和40年代の花園駅界隈の事は今も記憶にあります。

いよいよ開発工事が始まり、商店街にあった店舗が取り壊された後、更地となった店舗跡に吉田川の堤防跡がはっきりと確認出来ましたが、店舗は吉田川堤防跡の斜面に建てられていた事が良く分かり、実際に商店街にあったスーパーマーケットは入口から入ると斜面に沿う様な形で店舗奥へと広がっていた様に記憶しています。

駅前開発事業により商店街が取り壊され、吉田川の堤防跡を目にする事が出来たのは皮肉な事だとは思いますが、これも時代の流れなのでしょうか?

それで、以前商店街の立ち呑み屋さんで、私の自転車仲間と地元の方達と飲んだ事があったのですが、その際私の友人が「この商店街は昔、川の堤防やったってこの人(私)に教えてもろたんですわ」と話すと、地元花園の人が「何でそんな事知ってはんの?おたく変わってはんなぁ」と言われてしまいました。

それ以来、この類の話は酒の席ではしない事にしました(-_-;)

その立ち呑み屋さんは今も商店街にあります。

吉田川5-1

吉田川5-2

吉田川5-3

吉田川5-4

吉田川5-5

吉田川5-6

この頃はちょっと淋しかったですね(於 東大阪市)
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2011
08.15

菱江川(その5)

Category: 旧大和川
かつて、菱江川に「渡し場」があったそうです。

渡し場のあった場所を特定した訳ではありませんが、荒本の東端、共同井戸の北側辺りにあったそうで、その場所で重助と言う人が渡守(船頭)をしていたそうです。

その後、その子孫もこの地に住み、渡守免許看板(営業許可証?)を保存していたそうですが、その後所在は分からなくなったとの事です。

あと「橋」ではなく、船による「渡し」が営われていたのですが、そうなると菱江川はどの位の川幅があったのか?と言う事になります。

調べてみますと「吉田川」との分岐点以外では、おおよそ川幅が100m前後あった様です。

旧大和川筋に実際どれ程の橋が架けられていたのか?私には分りませんが、当時川幅100m前後もある川に橋を架けるのは大変な事であると思われ、そう何本も簡単に橋を架けられるとも考えられません。

そう考えると、やはり船による渡しとなるんでしょうか?

それで、写真を御覧頂くと小高い築堤の様なものが続いています。

これは、菱江川の川床跡である「菱屋東新田」と呼ばれた開墾地で、かつての堤防の名残かと思われます。

現在、この場所は「水」と全く縁のない場所となっていますが…

菱江川5-1

菱江川5-2

菱江川5-3

ここに「渡し」があったなんて、ほんま不思議です(於 東大阪市)
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2011
08.15

長瀬川(その6)

Category: 旧大和川
「安中新田」は江戸時代に旧長瀬川を新田開発した開墾地で、玉手村の「安福寺」と農民によって開墾された「寺請・百姓寄合持」の新田となっています。

御承知の通り「安中」は現在も町名として残り、新田名がそのまま町名として使用されています。

それで、数年前に私が旧大和川に関心を抱き、その川跡を辿り始めた頃、安中町周辺を探索した際に立派な旧家がありました。

その際「もし、安中新田に会所があったら、こんな感じなんやろうなぁ」と思い、周囲からこのお宅を拝見させて頂きました(外から見るだけでしたが…)

その後、しばらくして新聞を見ていますと「開墾当時の安中新田絵図、八尾の旧庄屋屋敷で発見」と題した記事が掲載されていました。

その記事によりますと、植松町にある「旧植田家住宅」で安中新田の状況が詳細に描かれた絵図が発見され、絵図の中央付近にあった会所の位置が旧植田家の位置と一致し、安中新田に関する古文書も残されていた事から「会所」と判断され、市の文化財に指定されたとありました。

現在、植田家住宅は改修され「安中新田会所跡 旧植田家住宅」として一般公開されています。

詳しくお知りになりたい方はホームページ、また機会があれば実際に観覧して頂きたいと思います。

それで、会所と判明する前にたまたま訪れて「会所みたいやな?」と思ったのは偶然の事でして、念の為。

しかし、あえて言わせて頂くと「鼻が利いた」とでも言いましょうか(?)

改修前の写真と改修後の写真、両方を掲載しておきます。

ところで何処が変わったか?

建物の外観は当然の事ながら、実は会所前の道路に設置されていた電柱を会所内に移設しています。

電柱の色も周囲にあわせて茶色に変更されています。

八尾市もなかなかやりますなぁ。

しかし、受付の女性が「あいそなし」だったのが、私ちょとねぇ…

別にええんですけどね。

安中新田会所跡1

安中新田会所跡2

安中新田会所跡3

安中新田会所跡4

安中新田会所跡5

安中新田会所跡6

住居って考えてもすごく参考になりました(於 八尾市)
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2011
08.14

玉串川(その5)

Category: 旧大和川
八尾市に「柏村町」があります。

この場所は旧玉串川を江戸時代に新田開発した「柏村新田」と呼ばれた開墾地です。

大和川付替え後、大田村の庄屋「柏原仁兵衛芳次」が新田開発し、苗字の一字をとって「柏村新田」と名付けられました。

柏村新田には「柏村新田会所」も設けられ、江戸時代の記録や絵図を見ますと、広い敷地を持つ立派な会所だった事が分りますが、その会所の建物の一部である、長屋門が昭和時代まで残っていたそうですが、今は民家に改築され原型をとどめていないそうです。

以前、絵図を頼りに探しに行った事があり「多分、このお宅だろう?」と思われる民家はありましたが、確認は出来ませんでした。

江戸時代に描かれた絵図には「屋敷地」が示されていますので、会所がこの場所にあった事は間違い無いのですが、やはり現状と比べるとかつての所在地を特定する事は容易ではありませんでした。

あと、新田の西の端に帯状の農地があるのですが、これは南にある「都塚村」が大和川付替え以前より、開墾していた農地で「都塚村領」と記されています。

それで何故、今回柏村新田を取り上げたかと申しますと、以前柏村の知人宅を訪れた際、向かい合わせの家の玄関の高さが違っていたので「何でやろう?」と不思議に思いました。

知人に聞きますと「昔からそうやってん」との事でしたが、これ何処に行っても地元の話を伺いますと、そう返事される方がいるのが面白いです。

これは、微高地である新田と元からあった土地との境界に家が向かい合わせに建てられていた事がその理由で、その理由を知る事になるのは数年経ってからの事でした。

その後、旧大和川跡を探索する様になりましたが、一番驚いたのは私自身がその下流の川跡(菱江川・菱屋東新田)で育った事でした。

「そうやったんや」ってほんま思いました。

柏村稲荷神社1

柏村稲荷神社2

柏村稲荷神社3

柏村新田の鎮守社「柏村稲荷神社」の写真を掲載しました(於 八尾市)
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2011
07.09

吉田川(その4)

Category: 旧大和川
東大阪市内において、史跡名勝、寺社以外で有名な場所と言えば、やはりここ「花園ラグビー場」かと思います。

以前、すぐ近くで暮らしていましたが、このラグビー場に関して殆ど何も知りませんでしたので、手持ちの資料で調べてみました(インターネットで調べる方がより詳しく知る事が出来ますが…)

昭和四年(1929)に大軌(現在の近鉄)によりラグビー場は完成し、運動場前の停留所(現在の東花園駅)もこの際、開設されたそうです。

尚、それ以前は競馬場だったそうで、戦時中は軍の訓練施設、末期には農場として接収され、戦後は進駐軍に接収されたそうです。

それで、近鉄のラグビーチーム「近鉄ライナーズ」の外国人選手の方がラグビー場近隣でお住みの様で、町中で見かける事があります。

体格の良い大柄な方達ですが、自転車に乗って買い物に行ったりと、私と同様に東大阪市民として普通に生活されています(^^)

あと、ラグビー場のすぐ近くに「東大阪市民美術センター」があります。

私、人の集まる場所は少々苦手なんですが、興味のある催しがある際はいつも足を運びます。

ところで、この東大阪にある二つの施設が「吉田川」とどの様に関係あるのか?

実は二つの施設は吉田川跡(川中新田)に建てられています。

旧大和川跡は砂層である為、水はけが良いと言われていますが、鉄道の敷設等に見られる様に、このラグビー場もそれを考慮してこの場所に建設されたのでしょうか?

それに関しては分かりませんでしたが、隣接して花園中央公園やドリーム21等の施設も整備されています。

花園ラグビー場1

花園ラグビー場2

市民美術センター1

市民美術センター2

野球場もあります(於 東大阪市)
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2011
07.03

菱江川(その4)

Category: 旧大和川
この場所には水路(井路)となり、昭和の時代まで流れていた菱江川の川床が今も残っています。

何故、この状態で埋立てられずに残っているのか?その理由は分かりませんが、ここへは農繁期、第二寝屋川を越えて農業用水は送水されていないかと思います(見ての通りですが…)

あと、少し上流にポンプ施設を見付けましたが、そこまでは送水されている様です(多分…)

それで、この水路は建替え前の府営住宅のすぐ北側を流れ、府営住宅は私の中学校の校区でもありました。

写真の更地にはかつて住宅が建ち並び、私の友達もその住宅で暮らしていました。

現在、府立図書館がある場所一帯も全て府営住宅で、市場等の商店もあり、当時大流行した「インベーダーゲーム」を友達と一緒に楽しんだ思い出があります。

あと、この頃になると多少色気つくもので、女の子にも興味を持つ様になります。

恋愛感情はなかったと思いますが「この娘ええ子やな」と思う子が、この府営住宅に住んでいて、何故そうなったかは忘れましたが、私と友達、その子とその友達4人とで放課後、会う事になりました。

それ一度きりでしたが、ちょうどこの辺りで待ち合わせて、近くの公園で遊んだり話をした様に思います。

菱江川そっちのけで中学時代の思い出を語ってしまいましたが、その当時この場所を流れていた菱江川は、どんな状態だったかと言いますと、既に水の流れもなく澱み、汚れて悪臭がしていました。

両側を通る道路も当時舗装されてなく、雨が降るとぬかるんで水溜りが出来ていたと思います。

夕暮れ時にこの道を通る事が多いのですが、ここを通る度に中学時代の淡い思い出と、悪臭を放つ当時の菱江川の風景を思い出してしまいます。

何か妙で複雑な思いに駆られてしまう時があります(-_-;)

あれから30年以上たちましたが…

菱江川4-1

菱江川4-2

菱江川4-3

菱江川4-4

菱江川4-5

菱江川4-6

菱江川4-7

菱江川4-8

菱江川4-9

菱江川4-10

菱江川4-11

私にはある意味「思い出の場所」です(於 東大阪市)
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2011
07.02

玉串川(その4)

Category: 旧大和川
江戸時代、玉串川が「菱江川」と「吉田川」に分かれる分岐点の上流に「船着場」がありました。

以前、現地に市が説明板を設置していましたので、その説明をそのまま引用させて頂きますと、かつてこの場所には古代河内湖の名残の入り込んだ淀みがあり、格好の船着場だったそうです。

当時は「剣先船」の往来で賑わい、米、野菜を大坂市中に運び、帰りに干鰯等の肥料を運んでいたそうで、この場所は旧大和川流域各地の物産を集め、定日に市を開いていたので「市場」と名付けられたそうです。

また、瀬戸内海の海産物と河内・大和の物産交易の市が連日催され、そちらの方も盛況だったそうで、ここ市場村は大和・河内・摂津を結ぶ重要な水運の拠点となっていました。

それで、当時の玉串の特産品として、柳木で作った刷牙棒(現在の歯ブラシ)や楊枝が有名だったそうで、かつて周辺に自生する楊柳を使用し、楊枝生産を生業としたそうです。

現在、東京で一軒だけ手作りの楊枝を製造販売している店は、玉串出身の人だそうです。

玉串川船着場跡1

玉串川船着場跡2

玉櫛荘市場村

元禄と言えば忠臣蔵ですか?(於 東大阪市)
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2011
06.25

長瀬川(その5)

Category: 旧大和川
東大阪市と大阪市には市域を跨いで同じ「新喜多」と名の付く場所があります。

これは江戸時代、旧長瀬川が新田開発され「新喜多新田」と呼ばれる開墾地だった名残で、東大阪市内にはその名が付けられた中学校があります(同じ東大阪市内に住む私の従兄弟が通っていました)

その新喜多新田を二分割して、上流側を「上新田」下流側を「下新田」とし、それぞれを管理する為に会所が設けられました。

それで、上新田会所は現存しませんが、下新田会所はその建物の一部が現存し、大阪市によって跡碑が建てられています。

当時、会所内には鴻池新田会所の様に蔵や庭園があったそうです。

尚、先の東大阪市立中学校の敷地は新喜多新田最後の所有地だったそうで、昭和三十年代に布施市(現在の東大阪市)に売却された際、上新田会所は閉鎖されたそうです。

新喜多新田会所跡1

新喜多新田会所跡2

新喜多新田会所跡3

新喜多新田会所跡4

新喜多新田会所跡5

驚く事に今も所有する土地(新田)を管理しているそうです(於 大阪市)
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2011
05.28

徳庵井路

Category: 旧大和川
江戸時代に大和川が付替えられる以前、現在の東大阪、大東市域にかけて「新開池」と「深野池」と呼ばれた、大きな池が存在していました。

新開池には「菱江川」が、深野池には「吉田川」あと「恩智川」が流れ込み「長瀬川」や「楠根川」そして河内平野北部から流れて来る諸河川は新開池の出口にあたる徳庵、放出付近で合流していました。

この新開池の出口(流れ出し)付近では絶えず土砂を吐き出す事から、それが堆積して川づまりとなり、旧大和川の洪水の一因となっていたそうです。

こうした状況から、吉田川、恩智川、寝屋川筋四十二ヶ村の申し立てにより、明暦元年(1655)に新開池の西堤を切り開き、徳庵から今福までの千三百八十間(約2.5km)に大井路(徳庵井路)が開削されました。

しかし、この徳庵井路開削をもってしても旧大和川流域で起こる水害の解決策とはならなかった様です。

現在、この徳庵井路は拡幅改修され「寝屋川」となっています。

幼少の頃から見慣れた徳庵橋から見える寝屋川は、その昔人の手によって掘られた人工河川でした。

この事実は数年前に知りました。

徳庵井路1

徳庵井路2

徳庵井路3

徳庵井路だった所はほんと真っ直ぐです(於 東大阪市・大阪市)
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