2016
11.20

境界石(その3)

Category: 石造物
生駒山に境界石がありました。

境界石には「清水」と刻まれていましたが、詳しい事は分りません。

山の所有者の名が刻まれているのでしょうか?

それで、この境界石はハイキングコース上に建てられていましたが、周辺はかつて個人の方が所有していた山かと思われます。

これまで取り上げた境界石は人気のコースではなく、ハイカーの方も少ない不人気コース(?)にありましたので、東大阪市域のハイキングコースに限定しますと、山仕事等に使用されていた山道が、後年ハイキングコースに転用されたのかも知れません。

生駒山には多くの道がありますが、同じ道でも季節が違うとまた違った風景を楽しむ事が出来ます。

しかし、私基本的には夏の暑い時期は歩きませんけど…

境界石19

境界石20

境界石21

境界石22

まだあるかも知れません(於 東大阪市)
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2016
11.06

唐臼の台(その4)

Category: 石造物
久しぶりに「唐臼の台」を更新しようと思いますが、今回は横倒しになっているものと、埋まっているものも取り上げてみたいと思います。

それで、私がこの唐臼の台と言うものを知って以来、物珍しさから見かける度に写真撮影していましたが、これ結構街中に置いてある事が多くて、いつの間にか写真撮影するのをやめてしまいました(笑)

まあそれだけ、かつてはこの石造物が普通に使われていた事になるのでしょうが、現在は車等の衝突防止と処分せずに放置されているものが残っています。

初めて見た時は「何やろこれ?」って思いましたが。

唐臼の台16

唐臼の台17

唐臼の台18

唐臼の台19

唐臼の台20

唐臼の台21

唐臼の台22

唐臼の台23

唐臼の台24

唐臼の台25

唐臼の台26

唐臼の台27

唐臼の台28

写真の消化記事になってますが(於 東大阪市・八尾市・大東市)
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2016
09.18

旧恩智小学校手洗石

Category: 石造物
現在、児童公園となっている「恩智城址」に「手洗石」があります。

表示には「旧恩智小学校 手洗石」とあり、恩智小学校の生徒達が手洗いの為に使用したものと分かります。

それで、上水道が整備されていない時代のものと思われますので、手持ち資料で調べてみますと、この場所に恩智小学校(第142番小学・後に恩智尋常小学校)が創立されたのが、明治七年(1874)となっていました。

ですので、この手洗石はその時代に設置されたものとなりますが、例えば民家等で使用されていた「つくばい」を流用したならば、制作時期は明治以前、江戸時代のものとなるかも知れません。

あと、恩智城址碑と並んで建てられいる「南高安小学校発祥の地」と刻まれた石碑は、昭和五十四年(1979)に創立百周年を記念して建てられたもので、公園の東側にはレンガ造りの校門が残されています。

尚、恩智城址の記事に校門の写真を掲載しておりますので、合わせて御覧頂きたいと思います。

この場所は見晴らしが良いので、一年を通じて度々訪れておりますが、地元では桜の名所となっている様です。

旧恩智小学校手洗石1

旧恩智小学校手洗石2

旧恩智小学校手洗石3

旧恩智小学校手洗石4

旧恩智小学校手洗石5

旧恩智小学校手洗石6

旧恩智小学校手洗石7

旧恩智小学校手洗石8

手洗石と並んで国旗掲揚台があります(於 八尾市)

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2015
10.24

慈光寺の六十六部供養塔

Category: 石造物
「慈光寺」の境内に六十六部供養塔があります。

六十六部については「大窪の辻地蔵尊」等で簡単に記していますが、巡礼と言いますと「西国巡礼」や「四国遍路」が有名で「六十六部」「廻国行者」はあまり知られていないかと思います。

それで、供養塔は文政八年(1825)に建てられたもので「天下泰平 房州平群 日月清明 行者逮境」と刻まれていますが、銘文に聞き慣れない「房州」とありましたのでインターネットで調べますと、現在の千葉県南部との事でした。

あと「行者逮境」とありますので「逮境」とは行脚僧の事かと思われますが、詳しい事は分かりませんでした。

それと、中河内地区では「枚岡神社」が江戸時代中期以降、納経所とされていたそうですが、法華経を書写し奉納する場所として何故神社だった経緯は分かりませんでしたが「一宮」の呼称につられての奉納では?との事でした。

供養塔前には一体の石仏がまつられていますが、こちらも詳しい事は分かりませんで、それで供養塔形式としては以前取り上げました「教興寺の廻国名簿塔」がありますので、そちらも参考にして頂きたいと思います。

慈光寺の六十六部供養塔1

慈光寺の六十六部供養塔2

慈光寺の六十六部供養塔3

本堂の裏にあります(於 東大阪市)
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2015
10.12

邪鬼(その2)

Category: 石造物
今回の邪鬼は前回の邪鬼より「鬼らしい」顔をしていますが、角は生えておりません(?)

しかし、何故これを邪鬼と言うのか分かりませんが、鬼瓦と同じく厄除け、または災難除けの意味があるのでしょうか?

それで、最期の二枚は別のお寺で見かけたもので、ちょっとデフォルメした様な感じですが、良く見ると怖そうな顔をしています。

また、何処かのお寺で見かけましたら、ここで取り上げたいと思いますが、やはり神社には無いみたいです。

邪鬼7

邪鬼8

邪鬼9

邪鬼10

邪鬼11

邪鬼12

邪鬼13

また見かけたら記事更新します(於 八尾市・東大阪市)
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2015
08.15

後生車(番外編)

Category: 石造物
今日、せっかくのお盆休みなので「信貴山」へと行って来ました。

早朝に出発したので、日中の暑さがうその様にほんと涼しく、旧外環(東高野街道)を南進し青谷へと行き、竜田越えの旧道で三郷まで行き、信貴山へ向かいました。

それで、到着してもまだ早い時間でしたので、殆んど参拝者はいませんで、宿坊の宿泊客が散歩されている程度でした。

お参りした後、石造物を見ていますと「後生車」がありましたが、二つある内の一つは破損しているのか?さわるなとあります。

じっくり見てますとムカデが彫られていまして「信貴山独特のもんやなぁ」と思い、ふと寄進者を見ますと、何処かで見た様な気が…

実は三日前に野崎さんで見た後生車と同じ寄進者の方でしたが、同姓同名と言う事もあります。

まあ、それだけの話なんですが、偶然にせよ何とも奇遇な出来事でした。

その後、まだ時間があったので「千光寺」へ行き、行場へ石仏を見に行った際、思いっきり滑って転倒してしまい、肩を強打してしまいました(痛)

後生車を回したんですが、今日はあまり御利益が無かった様で…

後生車5

後生車6

さすが信仰圏の広いお寺です(於 慈眼寺・朝護孫子寺)
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2015
08.14

客坊町の五輪塔

Category: 石造物
客坊に私のじいちゃんとばあちゃんの墓があるのですが、その墓地内に観音様がまつられ、その回りにある多くの石仏の中に一基の一石五輪塔があります。

新たにつくられた台石には「その昔 この五輪塔は河内七墓に対して行基菩薩様が奉納されたものです」と刻まれています。

五輪塔には年号等は確認出来ませんでしたが、行基は奈良時代の高僧ですので、その時代に造立されたものとなります(この五輪塔が本当に行基が奉納したものという前提ですが…)

それで、御存知の方も多いと思いますが、河内七墓は行基が造営した墓と伝えられ、お盆に「七墓参り」をすると死に際に下の世話をかけずにすむと言われ、東大阪市には「長瀬」「岩田」「額田」の三つの墓地があります。

岩田墓地では8月に「墓市」が行われ、露天が出て賑わっていますが、私初めこれが何か知らなくて「何や夜店出て人ぎょうさんおるな?」って思っていましたが、これを墓市と知ったのは20年くらい前です(現在は旧河内市域に住んでいますが、当時は旧布施市域に住んでいましたので…)

それで、何故客坊の墓に行基の奉納した五輪塔があるのか?その経緯は分かりませんが、行基建立四十九院の一つ「石凝院」が日下にありました。

石凝院は養老四年(720)に創建され、平安時代まで存続したそうですが、昭和36年(1961)に日下墓地南方一体の宅地造成が行われるのに先立ち発掘調査が行われ、地表20~30cm地中から瓦の体積が見つかり、建造物の基壇の跡等も確認されたそうです。

現在「石凝寺跡」は宅地となり、寺の痕跡は遺されていないそうです。

明日、客坊のお墓にお参りに行きます。

客坊町の五輪塔1

客坊町の五輪塔2

客坊町の五輪塔3

客坊町の五輪塔4

客坊町の五輪塔5

石仏も古そうです(於 東大阪市)
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2015
08.08

神輿台(その2)

Category: 石造物
今回は「神輿台」の二回目の記事更新となりますが、個々の神輿台について詳しい事は全く調べておりませんので…

それで、形状的には似た様なものが多いのですが、写真の様に銘文の刻まれた珍しいものもありました。

あと、この石造物の事を「神輿台」と知って以降、中河内で度々見る機会がありましたが、実際に御神輿が置かれているのは、私一度しか見た事がありません。

太鼓台は大きいので、置く事は殆んどないかと思いますが、御神輿はお祭りの季節になると子供達が引いて(?)いるのは良く見かけます。

その子供達が大きくなったら、太鼓台を担ぎ地車を引くんでしょうね。

夏祭りの時期も過ぎ、来週はお盆の入りですが、まだまだ暑い日が続く様です。

神輿台4

神輿台5

神輿台6

神輿台7

神輿台8

木製のものもありますね(於 東大阪市・八尾市・柏原市)
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2015
07.19

対話する石

Category: 石造物
吉田に「対話」と題したモニュメントがあります。

詳しくは現地に制作の経緯が説明されていますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、その説明にもあります様に「ラグビーの町東大阪」に因み、ラグビー発祥の国であるイギリスの「ストーンヘンジ」をモチーフにしているとあります。

それで、このモニュメントは御存知の様に花園ラグビー場のある花園中央公園にありますが、私以前すぐ近くと言いますか、中央公園の横に住んでいましたので、頻繁に朝夕の散歩でここへ来ていました。

今は少しだけ離れた場所に住んでいますが、生駒山からの帰りに立ち寄り、今歩いて来た生駒山を眺めながら一服する事が多く、ここからは生駒山から南は高安山、北は飯盛山辺りまで見渡せます。

それで、本題からそれますが、花園ラグビー場が建設される以前「花園競馬場」があった事を御存知の方もいらっしゃるかと思いますが、その建設に際して地元では「いざこざ」があったそうです。

大正十五年(1926)に建設用地買収も終了し工事が着手されようとした際、地元の小作人が苦情を訴え、村の有志が仲裁に入ったのですが、一部の小作人は大軌の提示した条件に納得せず、話はまとまらなかったそうです。

しかし、大軌は工事を強行し、これを知った小作人が現場に押しかけ小競り合いとなり、当時の額田署から警官が出動して逮捕者が出たのだそうです。

その後、大阪府下各農民組合支部から総勢100人が英田村に押し寄せ、同村の助役宅に侵入し暴行を働き、また逮捕者が出たそうですが、この助役は大軌の依頼により用地買収に奔走した人物だったのだそうです。

この競馬場の用地買収問題は、農民組合の支持を得た小作人が地主に対して交渉を継続した為、競馬場建設工事は中断を余儀なくされましたが、英田村の村会議員が調停に入り交渉を重ねた結果、地主、調停者、土地買収側がそれぞれ分担して、段別に保証金が支払われ、外四名の小作人には「涙金」が支払われる事で解決に至ったそうです。

以上、私の住む地区で過去にあった用地買収問題でしたが、この用地買収や立退きの問題と言うのも、昔も今もさぞ変わらん様に起こっていたんやとちょっと思いました。

その後、競馬場はすぐ閉鎖されたそうですが…

対話する石たち1

対話する石たち2

対話する石たち3

対話する石たち4

対話する石たち5

対話する石たち6

対話する石たち7

対話する石たち8

対話する石たち9

自宅近くで一番大きな石造物です(於 東大阪市)
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2015
06.13

境界石(その2)

Category: 石造物
生駒山の中腹に「ムカイ」と刻まれた境界石が数基設置されています。

いつの時代に設置されたのか?詳しい事は分かりませんが、東大阪の文化財に興味のある方なら「ピン」ときた方もいらっしゃるかと思います。

私も「ピン」ときましたが、それについては確認しておりませんで、上記の様に詳細は分かりません。

それで、現在季節が変わりましたので、昨年の秋から続けていた生駒山歩きは先月で一旦お休みしておりますが(8か月間、悪天候の日以外ほぼ毎週歩いていました)歩いている間に「生駒ネタ」をためておきましたので、現在ネタを小出ししています(笑)

あと、生駒山のハイキングコースは谷道が多いのですが、この境界石のある道は尾根道となっています。

尾根道は少々危険な場所もありますが、尾根道は谷道とはまた違う風景を楽しむ事が出来ますので、私は結構歩く機会が多いです。

ハイカーの方も殆んど見かけませんので、あまり道の状態が良くない所もありますが、私以前この道で二回連続で転倒した事があります(恐)

境界石13

境界石14

境界石15

境界石16

境界石17

境界石18

そやけどまたここ行きます(於 東大阪市)
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2015
06.07

後生車

Category: 石造物
「長栄寺」の境内に「後生車」と呼ばれる石造物が建てられています。

石柱の中央部分に金属製の心棒を通して石造の車輪がはめ込まれているもので「地蔵車」「輪廻塔」とも呼ばれているそうで、詳しくはインターネット等で調べて頂きますと、より詳しく知る事が出来るかと思います。

それで、手持ち資料によりますと、車輪を念仏を唱えながら手で回す事で死者の供養となると共に、自身の来世の安楽も得られるのだそうです。

私初めて見た際、これが全く何なのか分かりませんでしたが、ここ数年お寺の石造物を見て回る事が多くなるにつれ、様々な石造物を知る機会が増えました。

ここで取り上げた「邪鬼」もそんな石造物の一つですが、まだまだ私の知らない石造物があるのでは?との思いで、休日には根気よく(?)探索を続けております。

後生車1

後生車2

後生車3

後生車4

神社よりお寺の方が石造物の種類が多い様に思います(於 東大阪市)
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2015
05.06

盃状穴

Category: 石造物
今から十年程前の話なんですが、自宅近くにある神社の境内に手水鉢があり、その周囲に窪みがある事に気が付きました。

よく川や海にある岩や石に窪みがある事があり、私そう言った箇所を石造物に利用しているものだと思っていましたが、それにしては窪みが整然と並んでいます。

その後、この窪みを他の場所でも見かける様になり、あらためて調べますと、この窪みの事を「盃状穴」と言うのだそうです。

詳しくは、私がここで説明するよりインターネットでお調べになった方が、より詳しく知る事が出来ますので、興味のある方はお調べになって頂きたいと思います。

ですが少々説明致しますと、古代から人々はこの穴に霊力が宿ると信じて、生命の発生や安産を祈願したと言う事です。

それで、手水鉢以外では燈籠の基礎にもこの盃状穴が彫られているものもありました。

寺社等の石造物にこの盃状穴がある事がありますので、御参考までに。

盃状穴1

盃状穴2

盃状穴3

盃状穴4

盃状穴5

盃状穴6

盃状穴7

盃状穴8

盃状穴9

盃状穴10

うちの近所にある手水鉢はよう見ると何やへんですね(於 東大阪市・八尾市・柏原市)
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2015
04.24

大字神立の石造物

Category: 石造物
十三峠越の道を上り「水呑みさん」の手前で道から外れ、しばらく歩くと写真の様な石造物があります。

これは全く何なのか分かりませんが、とにかく殆んどハイカーの方も通らないであろう道の途中に忽然と現れると言った感じです。

詳細は全く分かりませんが、観察していますと、どうも石積の上に何かが載せられていた(?)痕跡もある様な気もしました。

例えば、石像や銅像と言ったものです。

または石碑等かも知れませんが、何度も言います様にこれは何なのか分かりません。

興味のある方は現地にて実際に御覧頂きたいと思います。

場所は詳しくお教え出来ませんが…

これは私のブログの趣旨の一つでもありますので(笑)

大字神立の石造物1

大字神立の石造物2

大字神立の石造物3

大字神立の石造物4

大字神立の石造物5

大字神立の石造物6

何でしゃろこれ?(於 八尾市)
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2015
04.19

境界抗

Category: 石造物
先週で一旦、今年前半の生駒山歩きは終了する事にしましたが、昨年の秋以降から今月まで天候の悪い日以外はほぼ毎週、生駒山へと足を運びました。

それで、その間に数々の石造物等を見る事となりましたが、その多くの石造物の中で今回は境界抗を取り上げたいと思います。

以前「大軌の境界抗」を取り上げましたが、今回のものも境界点を示す「十」と「サキ」が刻まれています。

おそらく「サ」「キ」だと思われますが、それが何を意味するのか?調べて見ましたが詳しい事は分かりませんでした。

あと、同じく境界天を示す「∣」と「カ」が刻まれているものもありました。

どちらも、大軌の境界抗から近い場所にあったので、手持ち資料で近鉄に関して調べてところ、大軌から近鉄への変遷の中でかつて「関急」「参急」と呼ばれる会社が存在していたとの事です。

関急は社名だけは以前より知ってはいましたが、それ以外はそれ程詳しく知りませんでしたので、今回の境界抗に刻まれている「サキ」「カ」に関して、関連があるのか全く分かりません。

あと、これとは別「∣」と「三」と刻まれているものもありましたが、こちらも詳しい事は分かりませんで、同じく大軌の境界抗から近い場所にありました。

最寄りの集落の方にでも聞いてみようかと思いますが…

境界抗1

境界抗2

境界抗3

境界抗4

境界抗5

多分生駒の山の中にはもっとあるんでしょう(於 東大阪市)
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2015
04.18

仏足石

Category: 石造物
生駒の聖天さんへお参りに行った際、境内に「仏足石」がありました。

仏足石と言っても私よく知りませんでしたので、後日調べてみますと、尊い存在のお釈迦様の姿を形で表すのをはばかり、足型を石に刻んで礼拝するものだそうです。

私がここで説明するより、インターネットでお調べ頂いた方が、より詳しく知る事が出来ますので、その説明は省略させて頂きます。

ですが、少々言わせて頂きますと(笑)足型にはいろいろと刻まれていますが、中央の車輪状のものが「千福輪」であと「相魚紋」「金剛杵」だそうで、私が分かりましたのが「卍」だけでした(…)

図柄には幾つかの系統があるそうですが、これまで仏足石についての知識は全くありませんでしたので、今回少々勉強させて頂いた次第です。

それで、当初この仏足石はボツネタでしたが(聖天さんは奈良県ですので…)今年、柏原で見かけましたので、今回「石造物ネタ」して取り上げました。

柏原のものは石板に足型が刻まれていましたが、聖天さんのものは自然石に足型が線刻されているものでした。

中河内のお寺さんにまだあるかも知れません。

仏足石1

仏足石2

仏足石3

仏足石4

仏足石5

仏足石6

柏原のものは新しい時代のものでしょう(於 柏原市・奈良県)
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2015
04.11

邪鬼(その1)

Category: 石造物
お寺や神社の本堂や拝殿前に雨水を貯める為の天水鉢が置いてある事があります。

私これを何と呼ぶのか知りませんでしたので、インターネットで調べてみますと、金属製のものは「天水桶」と呼ぶそうです。

その雨水を貯める天水鉢を背中で支える様に小さな石仏の様な石造物が置かれています。

これは「顕証寺」で見かけたものですが、以前より気になっていましたので調べてみますと、この石造物の事を「邪鬼」と言うのだそうです。

インターネットを見ますと、他の場所のあるものは「鬼」そのものと言った形相のものが多い様ですが、ここ顕証寺のものは、愛嬌のある顔をしていまして、お地蔵様やお大師様の様なお顔をしています。

石造物の「邪鬼」に関して、詳しい事は分かりませんでしたが、よく見るとそれぞれ表情が違います。

「三猿」の様に耳をふさいでいるものもありますが、鬼以外の何をモチーフにつくられているのでしょうか?

お寺に行く機会があれば、一度天水鉢の下を確認して頂きたいと思います。

四人で水の入った重い天水鉢を支えているのが、何とも愛嬌のある石造物です。

邪鬼1

邪鬼2

邪鬼3

邪鬼4

邪鬼5

邪鬼6

ここ以外にも多分あるのでしょう?(於 八尾市)
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2014
10.13

枚岡神社の石造物

Category: 石造物
河内国一之宮である「枚岡神社」には数多くの石造物があります。

それら石造物をここで全て御紹介する訳にはいきませんので、その中で私が選びました幾つかの石造物を取り上げてみたいと思います。

先ずは境内で一番多くあるのが燈籠かと思われますが(実際は玉垣が一番多いでしょうが…)斉館手前にお城の様に高く積まれた石垣の上に燈籠があります。

参道を挟んで二基ありますので一対かと思われますが、実は建立年が違い写真の参道南側にある燈籠が明治元年(1868)のもので、北側にあるものが明治四十年(1907)の建立となります。

形状はほぼ同じ様に見えますので、一見すると一対の燈籠の様に見えます。

枚岡神社の石造物1

枚岡神社の石造物2

枚岡神社の石造物3

次は手水鉢の横に大小二基の燈籠があり、大きなものが嘉永三年(1850)で小さなものが明治十三年(1880)の建立で、小さな方は私の地元「稲田八幡宮」のおかげ燈籠と竿の形がよく似ています。

あと、大きい燈籠の横に「参道・広場改修之碑」が建てられていますが、これは皇紀二千六百六十年、平成十二年(2000)に建てられたもので、裏面には「しき石の碑文のこころ宮の夏」と句が刻まれています。

次は拝殿南側、末摂社がまつられている場所に多くの燈籠が並んでいます。

その内、若宮社前の一対、天神地衹社前の一基が慶安二年(1649)の建立で、枚岡神社で最も古い燈籠となっています。

枚岡神社の石造物4

枚岡神社の石造物5

枚岡神社の石造物6

それで、豊臣秀頼が慶長十年(1605)に本殿造営時の燈籠は存在していない様ですが、これは単にこの時代の枚岡神社には石燈籠が無かったと推定されるとの事です。

元々燈籠と言うものは寺院において用いられ、既にこの時代では神社においても燈籠が用いられたと思われますが、この理由については全く分かりません。

流石に私も素人ですので、この件についてこれ以上調べると言うのは殆んどお手上げの状態です。

さらりとこの件はかわし(笑)次は多く並ぶ燈籠中、寄進者名に「中村四郎右衛門」「吉田玄兵衛」と刻まれた燈籠があります。

枚岡神社の石造物7

枚岡神社の石造物8

「中村四郎右衛門」はここでも旧宅跡を取り上げていますが、この人物は大阪夏の陣の際に徳川側に屋敷を本陣として提供しましたが、燈籠の年号が享保六年(1721)と夏の陣から100年以上の開きがあります。

これは代々、中村家の当主が「四郎右衛門」を名乗った事によるものですが、何故この時代に燈籠を寄進したのか?その理由は分かりません。

続いて「吉田玄兵衛」についてですが、この人物は享和年間に「吉田」に暮らしていた文人で、私財を投じ「富景楼」と呼ばれる書院を建設しました。

「玄兵衛」と言うのは通称だそうで「吉田思玄」の方が地元の歴史に興味のある方なら御存知かと思います。

「玄兵衛」と「思玄」は同じ人物で、河内名所図会にその名があり、名所図会の版行年と燈籠の建立年、享和元年(1801)が同じなので、その事からも同一人物と分かるとの事です。

枚岡神社の石造物9

思玄の子孫は明治二十年頃まで「吉田新家」と呼ばれる、旧吉田川右岸(南側)にある地区に在村し、広大な屋敷があったそうですが、実は私以前この吉田新家に住んでいましたので、この「身近な場所の歴史」に非常に興味を持ちました。

旧吉田川の堤防跡にある墓地には、吉田家の墓があります。

少々話がそれましたが、燈籠には「平岡社」や「平岡大明神」と刻まれていますが、かつて枚岡神社がそう称していた事が分ります。

次で燈籠の最後になりますが、何故か枚岡神社に「キリシタン燈籠」がありますが、何故この場所にキリシタン燈籠があるのか?全く持って不明です。

枚岡神社の石造物10

次は今回の記事で必ず取り上げなくてはならないと思ったのが「神鹿」で、これは以前取り上げました「日下村 石工 小平次」の作で石段下にあり、撫でると御利益があるそうです。

それ以外は社務所横の手水鉢が宝永八年(1711)百度石が宝暦五年(1755)となっています。

枚岡神社の石造物11

枚岡神社の石造物12

枚岡神社の石造物13

枚岡神社の石造物14

枚岡神社の石造物15

それで最後に玉垣の中に少し気になったものがありましたので二本御紹介したいと思いますが、一本目は「紀元二千六百年記念植樹 檜松杉苗木六千九百本」と刻まれているものです。

6900本とは凄い数ですが、どの辺りに植樹したんでしょうか?

枚岡神社の石造物16

枚岡神社の石造物17

二本目が「世界一周記念 英貨十パゥンド 邦貨換算百十二円」と刻まれたものです。

近くの玉垣に「御即位大禮記念」とありますので昭和初期と思われますが、この時代に大阪市中の人が世界一周したって言うのも凄い事なんでしょう。

あと、現代では玉垣を奉納した際に企業名等で片仮名が使われている事がありますが、この時代で「パゥンド」と片仮名が使われているのは珍しいのではないでしょうか?(片仮名でしか書けませんけど)

初めて見た時、少しニヤリとしてしまいましたが…

では、これで以上にしたいと思いますが、お参りだけでは無く境内を石造物を見ながらゆっくり散策したり、周辺の木々の緑を見ながら散策するのもたまには良いかも知れません。

せっかく枚岡まで行くのですから。

枚岡神社の石造物18

もっと御紹介したかったのですがあとは神社にて(於 東大阪市)
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2014
09.15

境界石(その1)

Category: 石造物
生駒山を歩いていますと「境界抗」が多く設置されていますが、現在よくある様なコンクリート製のものではなく、自然石の境界抗も時折設置されているのを見かけます。

その自然石の境界抗を私が勝手に「境界石」と呼ぶ事にしましたが(笑)以前ここで取り上げた「境目石」は村が山林の所有を示す為に村名が示されていました。

今回取り上げます私が見かけた境界石には「三木」「源」と刻まれていましたが、それが家名なのか?屋号なのか?詳しい事は分かりませんでした。

しかし、よく見るとその境界石には金属標が設置されているものもあり、中には東大阪市章が入っているものもあります。

境界石の設置時と現在の所有者が違うであろうと思いますが、現在もそれに金属標を設置してそのまま利用しているのが分かります。

それで、私もこの境界石に長い間気が付きませんでしたが、ある日ハイキングコース上に自然石が一定の間隔であり「ありゃ?」と思ってよく見ると文字が刻まれていました。

その後、写真撮影しながら歩いてきましたが、いつも歩く時間より当然の事ながら余計に時間がかかりまして、その際は下りで気が付くと日暮れ間近になってしまった事もあります。

私はいつも3時までに山を下りる様にしていますが、その理由は以前にも何処かで書いたと思いますが「イノシシ」が出没する危険があるからです(!)

幸いこれまで遭遇した事はありませんが、写真を見て頂くと分かる様にこのハイキングコースは殆んどハイカーの方が歩かないコースですので「もしも」の際には非常に不安になります。

怪我やトラブル無く、無事山を下りて初めて「今日も楽しかった」となりますので、楽しい休日とする為にはやはりトラブルを回避する心構えを常に持って行動するのは、私的には必要不可欠と考えております。

しかし、歩けそうな山道があると「行ったろか?」って時折行く事ありますが、これからも楽しい「生駒山歩き」をする為に極力その様な行動はせん方がええですね。

来月から本格的に生駒山歩き始めます。

境界石1

境界石2

境界石3

境界石4

境界石5

境界石6

境界石7

境界石8

境界石9

境界石10

境界石11

境界石12

まだまだぎょうさんあるんでしょうね(於 東大阪市)
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2014
09.10

楠木正成像

Category: 石造物
大県に「楠木正成」の石像があります。

ある日、何気なくこの場所を通りがかったところ、石像がある事に気が付きましたが、誰の石像なのか全く分かりませんでした。

石像のある場所は立ち入り禁止となっていますので、近くで見る事が出来ませんでしたが、カメラのズームを望遠鏡のかわりに使って見てみますと「菊水」の紋が刻まれていました。

私「菊水」だけは分かりましたので、インターネットで調べてみますと、この石像は「楠木正成」の像と分かりました。

私、この時代や楠木正成について全く知識がありませんので更に調べますと、これは楠木正成の逸話を表しているとの事で「桜井の別れ」等と呼ばれているそうです。

楠木正成に因んだ場所や石造物は、中河内でも良く見かけますが、あまり興味がありませんと言うか、手持ち資料にある記述も殆んど目を通していない状態です。

どうしても興味のある近世から近代の事柄について調べる事が多いものですから…

ただ、これが石造物でしたので今回取り上げた次第ですが、建立年や建立の経緯等詳しい事は全く分かりません。

あと、石像と並んで「忠魂碑」がありますが、こちらも詳しい事は分かりませんでした。

楠木正成像1

楠木正成像2

楠木正成像3

楠木正成像4

楠木正成像5

旧外環から東へ少し行った場所にあります(於 柏原市)
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2014
07.17

教興寺の廻国塔

Category: 石造物
教興寺の境内に「廻国名簿塔」が建てられています。

「廻国塔」については「大窪の辻地蔵尊」「太子堂の地蔵尊」で説明していますので、詳しくはそちらを見て頂きたいと思いますが、教興寺の廻国塔は燈籠型の石塔で宝暦十二年(1762)に造立されたものです。

「天下太平 梵字(キリーク) 日本回國名簿塔 日月清明」「修行者 奉供養教興密寺 禅心法師」と刻まれ、宝形造りの笠が付いていますが、元は請花も付いてあったであろうとの事です。

石塔の部類でこの廻国塔は石塔以外に上記の石仏、板碑、方柱等様々な形態がありますが、ここで以前取り上げた「暗越奈良街道供養塔」の横にある廻国塔は三角形の自然石が使われていました。

あと、すぐそばに宝篋印塔があり、こちらは寛永五年(1628)に建てられたもので、功徳等が刻まれています。

教興寺の廻国塔1

教興寺の廻国塔2

教興寺の廻国塔3

教興寺の宝篋印塔1

教興寺の教興寺です(於 八尾市)
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2014
06.11

足代の国旗掲揚台

Category: 石造物
足代に国旗掲揚台があります。

これまで、ここで取り上げた国旗掲揚台は全て石柱のもので、一基または二基一対に木製または金属製の旗竿を固定する為の貫通孔があけられています。

それで、今回取り上げました国旗掲揚台は石柱形状のものでは無く旗台形状のもので、戦時中に建立されたものでは、私これ以外に見た事はありません。

掲揚台には「国威宣揚」と刻まれ、紀元二千六百年記念に建てられたものですが、何故この足代の掲揚台は立派なものなのか?その理由は分かりません。

足代は塩川家の地元ですので、そのあたりも関係あるのでしょうか?

塩川さんの父上は布施市長を務められていましたし。

あと、東大阪市内で撮影した国旗掲揚台の写真も合わせて掲載させて頂きます。

足代の国旗掲揚台1

足代の国旗掲揚台2

国旗掲揚台10

国旗掲揚台11

国旗掲揚台12

国旗掲揚台13

この時代は私には想像すら出来ないです(於 東大阪市)
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2014
03.01

大軌の境界抗

Category: 石造物
以前取り上げました「近鉄の境界抗」は沿線等で見かける事が多いですが、今回は近鉄の前身である「大阪電気軌道」の境界抗を取り上げてみたいと思います。

「大阪電気軌道」は略して「大軌」と称される事が多く、以前コメントを頂いた方に枚岡駅付近に大軌の境界抗が現在も残っていると教えて頂き、探してはみたものの未だに何処にあるのか?見付ける事が出来ません。

それがある休日、生駒山を歩いていますと、ハイキング道に大軌の境界抗が設置されている事に気が付きました。

「大キ」と漢字とカタカナで刻まれていますが、おそらく大軌の境界抗で間違いないと思います。

当時、大軌(現近鉄奈良線)は沿線に有名社寺や名勝史跡が数多くあり、その参拝遊覧客が経営を支える柱となっていました。

しかし、大軌はそう言った既成の遊覧対象のみに依存せず、旅客輸送の需要拡大と収入増加を目的に娯楽的遊園地の開発と経営に取り組む事になりました。

大正十五年(1926)に現在は閉園しています「菖蒲池遊園地」が開園、昭和四年(1929)に「生駒山上遊園地」が開園されましたが、大軌は特に生駒山頂を自社沿線中の最大遊覧スポットとして認識し、その頂上一体の山林を広範囲に買収していたそうです。

それは大正六年(1917)と言う早い時期から計画されていたそうで、生駒山上遊園地開園の大前提として山頂までの輸送を担う「鋼索線」の敷設が必要条件となりますが、大正七年(1918)に「生駒鋼索線」が開業しています。

しかし、当初この「生駒山のケーブルカー」は生駒山頂を目指していたのではなく「生駒の聖天さん」でお馴染の「宝山寺」への参拝客の輸送を目的に計画されたものだそうで、東麓(奈良側)に敷設されているのは、西麓(大阪側)より標高が高く、山頂との高度差が少なかったのがその理由だそうです(確かに)

それで、この境界抗は実際に山頂付近に設置されているのですが、山歩きされている方は殆ど気付かれていない様で(気にもしない?)私が写真撮影している際に質問された事があります。

興味がおありの方には、親切丁寧に(?)説明させて頂いておりますが、殆どの方は「全然気い付きませんでしたわ」と仰ります。

確かにもう少しで頂上と言うラストスパートをかけるところですので、いちいち道に埋まっている「何か知らんもん」なんか「どうでもええ」と言うのが普通でしょうから(笑)

生駒山歩きをされる方は、純粋に歩くのが好きな方が殆どであろうと思いますが、私は「歩く楽しみ半分」「何かを見付ける楽しみ半分」でいつも歩いております。

これまで、沢山色んなもの見付けましたので、これからも御紹介出来るかと思います。

大軌の境界抗1

大軌の境界抗2

大軌の境界抗3

大軌の境界抗4

大軌の境界抗5

大軌の境界抗6

大正から昭和初期のものでしょうか?(於 東大阪市)
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2013
08.14

忠霊塔

Category: 石造物
これまで私のブログで多くの石碑を取り上げて来ましたが、戦争に関する石碑「忠魂碑」等の戦没者の慰霊の為に建立された石碑も多くあります。

それら慰霊の為に建立された石造物の中に若江の「忠霊塔」があります。

忠霊塔は昭和十八年(1943)に建てられたもので、終戦後名称を「舎利塔」とあらため、その後講和条約締結に際して旧名に復したのだそうです。

この忠霊塔に関して手持ち資料に僅かな記述しかありませんでしたので、インターネットで調べますと、かなり詳しい事が分かります。

忠霊塔1

忠霊塔2

忠魂碑1

忠魂碑2

忠魂碑3

忠魂碑4

あと、東大阪には「戦没者慰霊塔」があります。

これは昭和38年(1963)に建立されたもので、かなり大きな建造物です。

戦没者慰霊塔1

それで、私は昭和生まれですが、戦争を体験した世代ではありません。

若い頃は戦争を体験した人達から当時の話を聞いたものですが、私も若かった故に「ああ、そんなんやったんや」程度にしか感じませんでした。

その聞いた話の中では地元では有名な「高井田のB29墜落」等がありますが、あと実家近くの七軒家で機銃掃射にあった話等を覚えていますが、これらの話は実際に墜落現場に行った人や機銃掃射にあった人から直接聞いた話です。

実際はかなりリアルな話でして、ここでは詳しく書く事は出来ませんが、以前出張で九州に行った際、駅舎が機銃掃射されたその弾痕(貫通痕)が今も残っていました。

木造の駅舎の柱に貫通痕が残っていましたが、これは屋根を貫通した後に柱を貫通した跡との事でした。

機銃掃射の跡

あと、私が小学生の頃「学校に爆弾が落ちた」と言う話を聞きました。

これは同じ学校を卒業した、私の親にも聞いた話で今回少し調べてみる事にしました。

私の卒業した小学校は当時「布施市立楠根国民学校」と言う名称だったそうで、昭和十六年(1941)六月十五日の空襲により校舎が焼失したそうです。

これは第四次大阪大空襲と呼ばれるものだそうですが、現東大阪市域は単独の爆撃目標はなく、大阪市内や大正飛行場(現八尾空港)などの爆撃の延長と考えられているそうです。

しかし、学校から近い場所には盾津飛行場や練兵場などの軍事施設もあり、私の卒業した小学校は大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)の放出分工場だったそうです。

これは今回調べて初めて知った事実で、それが理由で爆撃目標となったのかは分かりませんが、米軍がそこまでその事を知り得たのでしょうか?

最近は戦時中の話を聞く事もめっきり少なくなり、また身近に戦争を体験した人も少なくなりました。

それで、私が初めて社会人となった時の「親方」が、海軍の「予科練」出身だった人でしたが、その人は戦時中の話は殆どした事はありませんでした。

仕事に関しては非常に厳しかったのですが、それ以外はそれこそ息子の様に可愛がって貰いました。

いつもその人は「のびのび行け!」と言っていましたが、何故いつもそう言っていたのか、それはある程度歳を重ねた時に何となく分かった様に思いました。

若かりし頃をそれこそ女の子と手をつなぐ事も許されない様な時代に送ったあの人には、あの様な時代が再び来る事だけは二度とあってはならない事だったと思います。

明日、戦争が終わって68年目になります。

戦没者慰霊碑1

良い時代かどうか分かりませんがこの時代に生まれて良かったといつも思います(於 東大阪市・八尾市・柏原市・鹿児島県)
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2013
08.11

北河内にて

Category: 石造物
今日も非常に暑い日でしたが、北河内某所へとお盆のお墓参りに行きました。

毎年、この墓参りの帰りには北河内を探索していまして、今日は東高野街道付近を探索してみました。

中河内の東高野街道とはまた違った雰囲気のある、北河内の東高野街道を短い時間でしたが(暑いので1時間ほど)探索後、以前にも訪れた事のある「蔀屋浜」まで足を延ばしてみました。

私この船着場跡って好きでして、中河内以外の船着場跡へも行く事があります。

それで、蔀屋浜以外は全く予定を立てずに探索してみましたが、結構道標や燈籠等の石造物が多いなと感じました。

やはり街道沿いだからでしょうか?

中河内の石造物と比較しながら見て回るのも、結構面白いものがあります。

尚、掲載しました石造物の説明は省かせて頂きますので御了承願います。

打上元町の石造物1

打上元町の道標1

打上元町の道標2

打上元町の燈籠1

高倉の燈籠1

堀溝の道標1

堀溝の道標2

堀溝の道標3

蔀屋本町の道標1

鶯地蔵尊1

蔀屋浜1

蔀屋浜2

蔀屋浜3

守口街道って知らんかったなぁ(於 寝屋川市・四条畷市)
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2013
06.12

玉祖神社の陽石

Category: 石造物
「玉祖神社」のくすの木の根元に「陽石」がまつられています。

私、玉祖神社へは毎月行ってますが、ごく最近この陽石がある事に気が付きました。

同じく陽石のある「日下町の弁財天」記事更新時は、玉祖神社に陽石がある事を知りませんでした。

それで陽石とは?御覧頂いた通り説明不要でございます。

御存知でしょうが…

玉祖神社の陽石1

玉祖神社の陽石2

玉祖神社の陽石3

玉祖神社の陽石4

この陽石の説明は省略させて頂きます(於 八尾市)
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2013
03.06

川田の石柱

Category: 石造物
川田の「新河内街道」沿いに二基の石柱があります。

地元の方なら御存知かも知れませんが、と思って川田の知人に尋ねると「そんなんあった?知らんわ」との事でした。

南側に建つ石柱には「昭和六年三月 寄贈」と刻まれ、側面には孔が開いていますので、この石柱はおそらく国旗掲揚台だと思われます。

北側に建つ石柱の表面は荒仕上げで、こちらは何かの石材だと思われます。

それでこの二基の石柱は町中で良く見かけます、車の衝突防止用の為に埋められているものと思いますが、私が国旗掲揚台と言うものを知らない頃、この石柱は神社の玉垣ではないかと思っていました。

道の両端に建てられた二基の石柱のある道を東へ行きますと小学校に突き当たり、突き当たった道を左(北)へ行きますと、旧河内街道に合流します。

この石柱から東方向、小学校の東に「栗原神社」があり、小学校の間までに松の木が両側に植えられていましたので、この道は河内街道から栗原神社までの参道を兼ねた道だと当初思っていました。

これはいつも様に私の勝手な推測ですが、あとこの付近は鴻池新田(新開池床)の東端にあたり、周辺を歩いてみますと起伏のある地形である事が分かります。

川田の石柱1

川田の石柱2

川田の石柱3

川田の石柱4

川田の石柱5

川田の石柱6

川田の石柱7

地元の人って案外気にしてないのかも知れません(於 東大阪市)
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2012
11.23

三味尾十三重塔

Category: 石造物
「辻子谷」を登り「興法寺」の手前で谷川を渡ると「三味尾」と呼ばれる尾根があります。

「三味」とは墓地の事を意味するそうで、興法寺より谷を隔てた南側にあるこの三味尾は、蔵骨器が発見された事から興法寺の墓地であったと考えられ、またこの尾根から南へ繋がる尾根は古くから「白水千坊」と言われ、寺院の坊舎が立ち並んでいたと伝わるそうです。

それで、その三味尾の尾根上に開けた場所があり、その場所に「十三重石塔」が建てられています。

基礎石には永仁七年(1299)の年号があり、興法寺の古称である「鷲山寺」の僧である「良辨」によって建立された事が刻まれ、石塔は高さ約5mあり、十一番目と十二番目の屋根石は後補だそうです。

あと、周囲には他に石造物があり、その中には台座に番号が刻まれた石仏もありますが、これは以前ここで取り上げた「辻子谷の石仏」が、この三味尾にまつられているものです。

それで、今年の初め山頂からこの三味尾まで下って来ましたが、その時点で大汗かきの私はインナーがグッショリ濡れていました。

ここは辻子谷からそれた尾根上で、私以外誰もいませんしたので、上着を全部脱いでTシャツ一枚になり、持参したスポーツ飲料を飲んで一休みしていました。

しかし、この時の生駒山の気温は氷点下近く、少しすると猛烈な寒気に襲われてしまいました(凍)

すぐさまジャケットを着て、体を温める為に早足で三味尾の尾根を下り、辻子谷を下って石切神社の参道入り口まで辿り着きました。

その後は、参道沿いに並ぶ飲食店や商店からのお腹が鳴るような「いい匂い」を嗅ぎながら、家路を急ぎました。

「三味尾 石造十三重塔」は、東大阪市文化財保護条例によって文化財(建造物)に指定されています。

三味尾十三重塔1

三味尾十三重塔2

三味尾十三重塔3

三味尾十三重塔4

三味尾十三重塔5

三味尾十三重塔6

三味尾十三重塔7

三味尾十三重塔8

三味尾十三重塔9

三味尾十三重塔10

良辨様の御墓所参詣道1

聖良橋1

聖良橋2

思い出の辻子谷から上って行くとあります(於 東大阪市)
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2012
05.31

石棺

Category: 石造物
東大阪市立郷土博物館に石棺の底板が展示されています。

私、この時代のものは殆ど知識がありませんので、詳しい事は分かりませんが、説明によりますとこの石棺は「組合式石棺」の底板の部分だそうです。

それで、今回「石棺」を取り上げた理由は、以前更新しました「薬師地蔵尊」「六ヶ地蔵尊」が共に石棺の蓋と底板に仏像が彫られた「石棺仏」であり、仏像を彫刻する前の石材としての石棺は、この様な状態だとお分かり頂けたらとの考えからです。

石仏が彫られた当時、再利用(リサイクル)の概念があったのか?それについては不明ですが、石棺に仏像が彫られた理由はどの様なものだったのでしょうか?

石材としては調達が容易で成形されていたからでしょうか?

石棺1

石棺2

石棺3

もちろん古墳の石棺です(於 東大阪市)
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2012
05.28

国旗掲揚台

Category: 石造物
一基または二基一対で貫通孔がある、この石柱の事を「国旗掲揚台」と言うそうです。

神社等で見かける事が多いので「これ何や」とずっと思っていましたが、とある場所で伺いますと、国旗を掲揚する旗竿を固定するもの、すなわち「国旗掲揚台」と御教示頂き、その後ここへへコメントを頂いた方にもそう御教示して頂きました。

それで、殆どものが戦前から戦中にかけて建てられた様で、刻まれている文字からもその事が分ると思います。

昭和十五年(1940)の紀元(皇紀)二千六百年記念の際には、この国旗掲揚台の他に植樹や寄付等の記念碑が多く建てられ、現在も各所に残されています。

国旗掲揚台1

国旗掲揚台2

国旗掲揚台3

国旗掲揚台4

国旗掲揚台5

国旗掲揚台6

国旗掲揚台7

国旗掲揚台8

国旗掲揚台9

国旗掲揚台10

私が初めて就職した際の上司だった人が旧海軍出身でした(於 東大阪市・八尾市)
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2012
01.30

唐臼の台(その3)

Category: 石造物
唐臼の台は必ずと言って良い程、何処に行っても見かける事が多いのですが、私が勝手に「シングルタイプ」と呼んでいる写真の様な形状の唐臼の台も見かける事があります。

この形状のものに関して詳しい事は分りませんが、同じものをもう一つ用意して使用するのでしょうか?

もしかして「これは唐臼の台ではないのでは?」と思い、所有者の方(?)に尋ねた事がありますが、その方は「これは唐臼の台言いますねん」と仰っていました。

これをどの様に使うかは分りませんでしたが、また機会があれば詳しく尋ねてみたいと思います。

唐臼の台8

唐臼の台9

唐臼の台10

唐臼の台11

唐臼の台12

唐臼の台13

唐臼の台14

唐臼の台15

また少し違う感じの物もあります(於 東大阪市)
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