2018
04.15

龍華寺跡

Category: 石碑
陽光園にある公立小学校の角地に「古蹟 龍華寺址」と刻まれた石碑が建てられています。

「龍華寺」については、現地に八尾市の設置した説明碑がありますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、寺跡地は小学校及びその西側周辺と推定されているそうで、その南側が旧大和川の堤防跡となっています。

天文二年(1533)に大和川が決壊した際、龍華寺は既に所在不明であったそうですが、氏神である「渋川神社」が流失し、家々の流出材や流木は、東大阪の花園まで流れ着いたのだそうです。

その後、龍華寺は渋川神社が現鎮座地に再建された後、天正年間に神社南側に神宮寺として再建されたそうですが、明治時代の神仏分離令により神社から分離し、その後小さな観音堂となったそうです。

それで、確認はしておりませんが「植松観音堂」に「元神宮寺」とありますので、御本尊の観音様は現在この場所でおまつりされているのでしょうか?

あと、石碑は昭和五年(1930)に当時の龍華町によって建てられたもので、当初は西方の道傍に建てられたそうですが、その後小学校の校内に移設され、更に現所在地へと移設されています。

龍華寺跡1

龍華寺跡2

龍華寺跡3

写真で石碑は見た事がありましたが(於 八尾市)
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2018
04.08

暗渠工事碑

Category: 石碑
上之島南町の住宅街に「暗渠工事」と刻まれた石碑が建てられ、水路が暗渠化された事が記されています。

八尾市の説明碑と良く似た形状のもので、碑文にはこの場所が「河内國若江郡上之嶋村」から、その後「中河内郡三野郷村大字上之島」となったとあります。

石碑は住宅街の中を通る狭い道路沿いに建てられていますが、その前を道路幅の4分の1程を占める暗渠が通っています。

それで、かつてこの地が中河内郡三野郷村であった時代、築留樋普通水利組合(現築留土地改良区)に属していた事から、玉串川から用水をまかなっていた事が分りますが、玉串川流域には多くの取水口(樋門)があり、それこそ網の目の様に小さな水路が張り巡らされたのでしょう?

実際、現在も玉串川からは多くの水路が引き込まれ、暗渠化された水路を目にする事が多くあります。

あと、平野部に限らずの生駒山から流れる谷川も、麓付近から平野部にかけて暗渠化されている事が多く、それは私の暮らす東大阪市域でも同じ事が言えます。

平野部では多くの水路が農地減少等の理由で埋立てられていますが、実際には多くの水路が暗渠となり、現在も残されている事になるのかも知れません。

耳をこらして聴くと、暗渠から水の流れる音が聞こえてきます。

暗渠工事碑1

暗渠工事碑2

三野郷尋常高等小学校文教場跡地の近くにありました(於 八尾市)
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2018
03.18

三野郷尋常高等小学校文教場跡地

Category: 石碑
上之島町南に「三野郷尋常高等小学校文教場跡地」の石碑が建てられています。

碑文によりますと、明治二十年(1887)に上之島尋常小学校が開校され、その後は大正十四年(1925)から昭和三十年(1955)まで、三野郷尋常高等小学校文教場となったとあります(尋常小学校は大正十三年より)

それで、尋常高等小学校と尋常小学校、高等小学校の違いの説明は省略させて頂きますが、碑文によりますと尋常小学校文教場となった後に尋常高等小学校文教場となった事が分ります。

あと、本校である「三野郷尋常高等小学校」は現在の玉串元町にあり、その跡地にも「三野郷尋常高等小学校跡地」の石碑が建てられています。

八尾市にはかつて学校施設がその地に存在した事を、後世に伝える石碑が多く建てられていますが、私の暮らす(出身地)東大阪市は同様の跡碑が殆んど見られません。

私が卒業した小学校もそうですが、東大阪には百年以上の歴史がある小学校も多くあります。

個人的にはこの様な跡碑の設置を望んではいるのですが…

検討して頂きたいです。

三野郷尋常高等小学校文教場跡地1

三野郷尋常高等小学校文教場跡地2

三野郷尋常高等小学校文教場跡地3

今は駐車場になってます(於 八尾市)

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2018
01.21

中野西同行会所地跡

Category: 石碑
中野に「中野西同行会所地跡」と刻まれた石碑が建てられています。

平成二十六年(2014)に建てられた新しい石碑ですが「同行会所地」とは、どの様なものなのか?詳しい事は分りません。

碑文に「浄土真宗本願寺派 浄福寺」とありますが、同行とありますので、中野の方で組織されている講的なものがあるのでしょうか?

浄福寺をインターネットで調べてみますと、実在する寺院の様ですが「会所地」についても調べてみますと、町割りの中央に設けた四方の空地の事だそうで、本件につては詳しい事は分りません。

あと私の推測となりますが、鴻池新田会所の様な施設の跡、または行者堂様な講の施設の跡では?とも思いましたが、全く確証はありません。

それで、元禄年間の中野村の記録によりますと、当時村内にあった寺院は「西善寺」のみですが、大正時代以降に廃寺となったと思われ、現在は跡碑が建てられています。

結局、詳しい事は分りませんでしたが、また機会があれば地元の方にお話しを伺えたらと思います。

一番確実ですので。

中野西同行会所地跡1

中野西同行会所地跡2

更地になっています(於 東大阪市)

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2017
12.31

浅田末吉翁顕彰之碑

Category: 石碑
「枚岡神社」の境内に「浅田末吉翁顕彰之碑」が建てられています。

建立の経緯については、裏面の碑文を御覧頂きたいと思いますが、浅田氏は私財を投じて境内の整備に尽力されたと記されています。

それで、浅田氏は東大阪市内にある企業の創業者でもあり、私はその事を存じておりましたので、会社ホームページを拝見しますと、工場敷地内におまつりされている「八代龍王」についても説明がありました。

ここで以前取り上げた、企業の敷地内におまつられている八代龍王は、この会社の敷地内におまつりされている立派なものです。

あと、碑文には枚岡神社創祀の地である「神津嶽」に石碑を建立する為にも尽力されたとあります。

枚岡神社境内には多くの石造物がありますが、浅田氏の様に神社や地域に貢献された方を称える石碑も建立されています。

私の様に機会があれば、参拝後に境内の石造物をゆっくり見て回るのも良いかも知れません。

浅田末吉翁顕彰之碑1

浅田末吉翁顕彰之碑2

浅田末吉翁顕彰之碑3

浅田末吉翁顕彰之碑4

昔の枚岡神社の写真をみますと現在とは違う所もある様です(於 東大阪市)


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2017
11.19

世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地

Category: 石碑
郡川に「世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地」と刻まれた標石が建てられています。

インターネットで調べてみましたが、詳細は全く分かりませんでした。

すぐ近くには「開祖」と刻まれた墓石と、題目が刻まれた碑が建てられていました。

取り敢えず、よく分かりませんでしたが…

世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地1

世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地2

世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地3

世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地4

世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地5

世界唯一とは?(於 八尾市)

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2017
11.19

野鳥塚

Category: 石碑
生駒山の中腹にある「慈光寺」の境内に「野鳥塚」が建てられています。

昭和五十一年(1976)に東大阪野鳥の会によって建てられていますが、建立の経緯等の詳しい事は分りませんでした。

慈光寺は昔からホトトギスの名所として知られ、慈光寺を案内する道標にも「ほととぎす名所」と刻まれ、河内名所図会にも記されています。

それで、慈光寺の境内には「慈光寺の野鳥」と題したパネル写真が展示されていますが(?)野鳥の知識が殆んど無い私には、見ても良く分かりません

実はホトトギスの鳴き声すら知りませんで、分かるのはウグイスだけです(-_-;)

ですので、生駒山の野鳥について少々調べてみますと、ホトトギスは「夏鳥」と呼ばれ、南方諸島から飛来する渡り鳥だそうで、過去の調査によると、旧枚岡市地域の鳥類は15目、32科、89種が数えられ、かつては「キジ」の放鳥も行われたのそうです。

確かに、生駒山歩きの際に突然、キジが現れ驚く事があります。

今年も年内は生駒山を歩く予定にしていますが、ちょっと鳥の種類を覚えて通りすがりに観察してみるのも、楽しみが増えて良いかも知れません。

最近、小さな鳥に出会うと、観察したり写真を撮影する事が多くなりました。

しかし、何度も言いますが、イノシシだけは出会いたくありませんね。

野鳥塚1

野鳥塚2

慈光寺の野鳥

野鳥塚3

生駒山で命を終えた野鳥の供養の為でしょうか?(於 東大阪市)

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2017
11.12

道界

Category: 石碑
「道界」と刻まれた標石がありました。

生駒山の山中、上石切町の道路(?)沿いに建てられていましたが、普段目にするコンクリート製の境界抗ではなく、石柱に道界と刻まれています。

石造の境界抗は珍しいので今回取り上げましたが、周辺の環境から推測すると、昭和初期以降の設置かと思われます。

現在もこの境界抗は有効なのでしょうか?

御覧の通り、かなり年季が入っております…

道界1

道路敷界1

結構山の中にありましたけど(於 東大阪市)
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2017
10.29

業平道

Category: 石碑
大県に「業平道」と刻まれた碑があります。

碑には「ちはやぶる…」と歌も刻まれていますが、これは業平が詠んだものだそうで、元柏原市長の山西さんの書となっています。

業平道については、太平寺に案内板がありましたので、そちらを御覧頂きたいと思います。

それで、柏原はこれまで度々訪れていますが、業平道は部分的に歩いた事がある程度で、実際に何処を通っているのかよく知らないのですが「石神社」の近くにある案内板には、そのルートが示されています。

また、案内標識も各所に設置されていますので、季節の良い時期にでもぼちぼち歩いてみようかと思いつつ、数年経ってしまいました(-_-;)

あと、業平道には諸説あるそうですが、こちらも山歩き等で訪れる事が多い、高安山麓にも業平の言伝えがあります。

業平が大和から「玉祖神社」を参拝した際、茶屋筋(十三峠にかかる所)に住む娘を見染め、しばしばこの道を通り、訪れる際には必ず茶屋辻の東にあった松の木から合図をしたそうで、この松は「笛吹松」と呼ばれたそうですが、今はもう無いと言う事です。

ある日、合図をせずに訪れた事で悲劇的な結果となってしまうのですが、娘が身を投げた場所を「恋の渕」と呼んだそうで、こちらも松の木同様にその場所は分からないそうです。

それで、娘が業平を追いかけた道を「夫追越」(おとおいこえ→おおとこえ)と呼び、玉祖神社には「一節切の笛」と呼ばれる業平が使用した笛が残されているそうで、神立には「笛吹」と言う小字名があります。

普段、そんな言伝えも気にもせずに歩いている高安山周辺ですが。

業平道1

業平道2

業平道3

業平道4

業平道5

業平道6

業平道7

今度ぼちぼち歩く事にします(於 柏原市・八尾市)
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2017
10.01

恩智中町の句碑

Category: 石碑
「恩智神社」の鳥居近くにある公園内に句碑が建てられています。

自然石を使用した句碑には「踊りぬ久 夜空にひびく 太鼓の奈 花女」と刻まれていますが、残念ながら私には句の意味が理解出来ません(-_-;)

それで、裏面の碑文によりますと「南高安婦人会」を創立し、初代会長を務めた「乾ハナ」氏の地域新興発展の為に尽力された功績を称え、昭和三十四年(1959)に婦人会々員の方達により、この句碑は建てられたとあります。

あと、乾ハナ氏について詳しい事は分りませんでしたが、同様に地域に多大な功績を残され、衆議院議員も努められた「乾亀松」氏と同姓ですので、もしかしたら親族の方だったのでしょうか?

現在、南高安婦人会が存在しているのか?確認はしておりませんが、公園内の一角に目立つこと無く、この句碑はあります。

恩智中町の句碑1

恩智中町の句碑2

何故か鉄柵で囲われています(於 八尾市)
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2017
09.18

東大阪開発土地区画整理事業竣工記念碑

Category: 石碑
長田東にある公園内に「東大阪開発土地区画整理事業竣工記念碑」が建てられています。

この記念碑は、昭和四十八年(1973)に事業が竣工した記念に建てれたもので「建立のことば」として、事業内容やその経緯等が記されています。

主な事業内容は道路、公園、下水道等の公共施設の整備で、対象地域220haの内、田畑が157ha、宅地28ha、道路水路が23haだったそうです。

「トラックターミナル」「機械卸売団地」「文具流通団地」は、この事業の際に整備されたもので、築港枚岡線(中央大通り)や玉串川の改修と排水路の整備も同様に整備されたものです。

尚、玉串川とはここで取り上げました、菱江川の跡に設けられた水路の事で、一般的にこの水路は玉串川水路と呼ばれている様です。

それで、事業の実施背景には、市内の鉄鋼、繊維等の卸売りが、道路混雑の為に流通機能が低下し、市街移転の必要性が生じた事や、東大阪市が移転を受け入れる事により、副都心としての経済発展が可能であると期待された事が挙げられるそうです。

あと、当初「東大阪土地開発株式会社」が単独で土地買収をしていたそうですが、先行して大阪府が昭和三十九年(1964)から用地を先行取得しており、それを引き継ぐ形で東大阪土地開発株式会社が用地取得にあたったそうです。

しかし、土地を売却した地主からは、飛換地等が行われた事により反発や批判が起こり、事業を区画整理事業に切り替える事により、換地が強行されたのだそうです。

それで、この周辺は幼少の頃から知る地区ですが、その当時(私が小学生の頃)既に文具団地や機械団地等は建設され、同様に中央大通り(国道308号線)も建設されていました。

私の親の話しによると、戦後すぐの頃は周辺一帯は田畑か広がり、近くにあった練兵場等もそのままの状態であったそうですが、現在も練兵場(飛行場)の周囲に掘られていた掘の一部が残っています。

あと、これは本題と全く関係ありませんが、菱江川の記事中にある、中学時代に女の子と一緒にお喋りしたくだりにある公園とは、この公園なんですが、当時あった遊具等が撤去され、様子が変わってしまいました。

まあ、時と共にいろんなものが無くなるのは仕方無い事ではありますが…

東大阪開発土地区画整理事業竣工記念碑1

東大阪開発土地区画整理事業竣工記念碑2

東大阪開発土地区画整理事業竣工記念碑3

東大阪開発土地区画整理事業竣工記念碑4

子供でもない大人でもないあの年頃です(於 東大阪市)
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2017
09.10

高井田西の紀功碑

Category: 石碑
高井田西に紀功碑が建てられています。

詳しくは並んで建つ碑に説明が記されていますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、その説明によりますと、西野善七氏が高井田村の治水事業に功績があった事を称え、村の有志の方々により、明治四十二年(1909)に碑が建立されたとあります。

それで、治水事業について詳しい事は分りませんでしたが、現在この碑の建つ周辺の地域は、東大阪市でも開けた地域であると思いますが、現状からはかつて治水事業が行われた事は想像し難いかと思います。

しかし、足代に橋の親柱が残されていたり、かつてこの地域にも水路等が流れていた事は、これら石造物からも推測は出来ますが、現在は農地や水路は殆んど見られず、かつては耕地が広がる農業地帯であった面影は全くありません。

現在、東大阪市では「住工混在」が問題となっていますが…

あと、紀功碑の前は「西高井田八幡神社跡」となっています。

高井田西の紀功碑1

高井田西の紀功碑2

高井田西の紀功碑3

高井田西の紀功碑4

高井田西の紀功碑5

綺麗な色の自然石をそのまま利用しています(於 東大阪市)
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2017
07.30

針塚

Category: 石碑
「都留弥神社」の境内に「塚碑」が建てられています。

針供養の為に建てられたものだと思いますが、石造物は縫製関係の団体や裁縫具のメーカーによって寄進されている事が分ります。

あと、玉垣に「布施市長 鈴木義仲」とありますので、鈴木市長が在任中の昭和26年から38年の間に寄進されたものかと思われます。

それで「梅岩寺」の境内にも同じく、針塚が建てられています。

こちらは、昭和30年代に建てられたもので、花立や線香立てがあります。

今回、二基の針塚を取り上げましたが、詳しい事は分りませんでした。

私、裁縫は小学校の家庭科の時間以来、殆んど針を使った事はありません…

男の方は皆さんそうかと思いますが。

針塚1

針塚2

針塚3

針塚4

針塚5

針塚6

ソテツの木って昭和30から40年代ぽいです(於 東大阪市・八尾市)


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2017
07.23

竣工記念碑

Category: 石碑
中小阪にある児童公園内に「竣工記念」と刻まれた石碑が建てられています。

記念碑と言うよりもモニュメントと言った感じですが、小さな文字で「大阪中央放送局」とありました。

実は殆んど写真撮影のみで、碑文等は確認していませんので、建立年代も今の時点では不明で、裏面にはプレートがありますが、中央には取り外した跡(?)があります。

それで「大阪中央放送局」をインターネットで調べてみますと、NHKの「旧大阪放送会館本館」が、昭和十一年(1936)に竣工したとありましたので、会館が竣工した記念に建てられたものなのでしょうか?

尚、この件については確認しておりませんが、それでは何故この場所に建てられたのか?その経緯も不明です。

あと、裏面のプレートが取り外された理由についてですが、戦後GHQによる記念碑等の撤去指示に関係しているのでしょうか?

再度、現地を訪れ碑文等の調査(?)をしようと思います。

今回は詳細について、何も分かりませんでした(-_-;)

竣工記念碑1

竣工記念碑2

竣工記念碑3

竣工記念碑4

竣工記念碑5

竣工記念碑6

昭和初期の石碑だとするとモダンなデザインです(於 東大阪市)

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2017
07.17

行政区画の推移

Category: 石碑
東石切町に「行政区画の推移」と刻まれた石碑が建てられています。

この碑は平成十三年(2001)に建てられたもので、この地域の変遷が記されおり、裏面には「神並村字辻子」と刻まれています。

碑の建つ場所が神並村の辻子と呼ばれる場所だったかと思われますが、周辺の小字名を調べますと「辻子」とあり、東を辻子谷(現在の上石切町)中を辻子中、西を辻子口(現在の東石切町)と碑に記されています。

それで、表面にある「大戸郷」とは、この地域の古代の呼称であり「和名抄」には「河内郡大戸郷」と記されているそうで、かつて存在した「大戸村」はその名残であったと思われます。

碑には後に東大阪市へと至る変遷が記されていますが、東大阪西部出身の私にはあまり馴染みの無い「神並」「植付」「芝」等の地名をこちら(東部)で暮らす様になり、目にしたり耳にする機会が多くなりました。

あと、碑には「芝神並村」とありましたが、手持ち資料によりますと、この村は芝村と神並村の分村で、所在は両村から少し東に離れた生駒西麓にあり、天保年間の記録によると、戸数二十九軒であったそうです。

石切周辺は生駒山歩きの際等に頻繁に足を運ぶ場所ですが、以前石切参道商店街で商店の方に「ここらは何って言うんですか?」と尋ねると「植付ですわ」と返事されました。

地元の方は大まかに石切ではなく、植付や神並、芝となるんでしょうね。

行政区画の推移1

行政区画の推移2

東大阪にも大阪市旧町名継承碑見たいなものがあれば良いかも知れません(於 東大阪市)

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2017
06.11

高井田西の題目碑

Category: 石碑
高井田西に題目碑が建てられています。

「南無妙法蓮華経」と「玉猫大明神」「玉三大明神」と刻まれ、昭和六年(1931)に建てられたもので「西野妙遠納」とあります。

詳しい事は全く分かりませんで、近隣の廃社、廃寺を調べてもその関連性は不明でした。

元々、この場所に建てられたかも不明ですが、お塚も兼ねている様で「猫」の字が付くのは珍しいかと思います。

何かの供養で建立されたのでしょうか?

高井田西の題目碑1

高井田西の題目碑2

高井田西の題目碑3

碑の前を通る道は昔からある道だそうです(於 東大阪市)



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2017
06.04

飯田忠彦旧棲地址

Category: 石碑
本町にある「聞成坊」の北側の隅に「飯田忠彦旧棲地碑」が建てられています。

碑には「飯田忠彦先生旧○○」と刻まれ下部が埋もれていますが、御覧の通り折損しており、アングルで補強されています。

それで、飯田忠彦については碑と並んで八尾市の設置した説明碑がありますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、忠彦の没後の明治二年(1869)に有栖川宮が生前の功績を称え、遺著である野史を宮家蔵版として刊行する事となったそうです。

しかし、太政官より国史編集参考の為にその野史の献納の儀があり、宮家へ五百円、忠彦へ追賞として百円が下賜されので、宮家の刊行は差し止められたそうですが、後の明治十四年(1881)に忠彦の養子である文彦により、宮家の序文を得て刊行されたのだそうです。

以上、手持ち資料を参考に補足しました。

あと、本題と全く関係ありませんが、私はこの本町周辺には足を運ぶ事が多く、石碑の向こうに看板が見えています「や○○く」で子供達のベッドを購入した事があります。

子供達は既に独立しましたが、最近は家具を購入する事も少なくなり、家具店に行く事も殆んどありません。

しかし、八尾・東大阪の住民の皆さんにはお馴染である、飛行機での宣伝は耳にする事があります。

そやけど、最近あんまり聞かんようになったかも知れませんが…

今もやってはるんでしょうか?

飯田忠彦旧棲地址1

飯田忠彦旧棲地址2

飯田忠彦旧棲地址3

最初は車の衝突防止に置いてある石柱かと思いました(於 八尾市)

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2017
05.14

宝町の六字名号碑

Category: 石碑
恩智川の堤防沿いに六字名号碑が建てられています。

建立理由は分かりませんが、いつ頃建てられたか不明ですと言いますか、これまで全く気が付きませんでした。

碑の前の道は普段から通る道で、私のかかりつけの病院である「石○○喜病院」へ通院する際にも必ず通っていました。

何か事故でもあったのでしょうか?

宝町の六字名号碑1

小さな碑です(於 東大阪市)
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2017
05.14

八尾市東山本南緑住土地区画整理事業竣工記念碑

Category: 石碑
東山本町の児童公園内に「八尾市東山本南緑住土地区画整理事業竣工記念碑」が建てられています。

耕地整理事業に関しては、インターネットで検索して頂くと詳細が分かりますが、この児童公園もその際に整備されたかと思います。

それで、耕地整理は比較的小規模なものだと思いますが、この地区には新しい住宅が建ち並んでいますので、耕作地を宅地造成するに伴い実施されたのでしょうか?

あと、同様の竣工記念碑が「式部御野縣主神社」前の児童公園にも建てられています。

こちらは特徴のある自然石を使用した立派なものとなっています。

今回は耕地整理事業を記念して建立された、それぞれ二基の竣工記念碑を取り上げましたが「楠根川沿岸耕地整理事業」も同様に新家と西堤にそれぞれ記念碑が建てられています。

八尾市東山本南緑住土地区画整理事業竣工記念碑1

八尾市東山本南緑住土地区画整理事業竣工記念碑2

八尾市東山本南緑住土地区画整理事業竣工記念碑3

八尾市東山本南緑住土地区画整理事業竣工記念碑4

住農混在地区ですね(於 八尾市)

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2017
04.30

老原青地樋門改良竣工記念碑

Category: 石碑
平野川沿いに「老原青地樋門改良竣工記念碑」が建てられています。

詳しい事は全く分かりませんが、老原水利組合により昭和五十六年(1981)に建てられたとありましたが、側面には「樋門代替施設 鑿泉井戸竣工」と刻まれ、平成九年(1997)の年号がありました。

水門以外に代替施設として井戸を掘削し、地下水を利用しているのか?詳しい事は分りませんが、記念碑近くには何らかの設備があります。

あと、この場所から西へ少し行くと、石柱が置いてあります。

老原の樋門とは関係ないかと思わますが、その大きさと枘が数か所彫られている事から、石橋の石材ではないかと思います(確証はありませんが…)

こちらに関しても、詳しい事は分りませんが、かつては平野川に架かる石橋だったのでしょうか?

今回は詳しい事が全く分かりませんでした(-_-;)

老原青地樋門改良竣工記念碑1

老原青地樋門改良竣工記念碑2

老原青地樋門改良竣工記念碑3

老原青地樋門改良竣工記念碑4

老原青地樋門改良竣工記念碑5

老原青地樋門改良竣工記念碑6

老原青地樋門改良竣工記念碑7

老原青地樋門改良竣工記念碑8

平野川の石材1

平野川の石材2

平野川の石材3

平野川の石材4

ここたまに通ります。車が通りませんので(於 八尾市)
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2017
04.23

疎水百選 大和川分水築留掛かり

Category: 石碑
長瀬川の二俣分水に「疎水百選 大和川分水築留掛かり」と題した碑が建てられています。

それで、疎水百選についてインターネで調べてみますと、農林水産省の選定によるものだそうで、碑にはその趣旨が記されています。

「長瀬川」「玉串川」両水路は、現在も灌漑用として利用されていますが、私の地元である稲田地区まで流れていた用水路である「菱江川」は現在埋立てられ、遊歩道等に整備されています。

菱江川は玉串川の下流域を流れていた用水路で、総じて「玉串川水路」と呼ばれていた様です。

長瀬川や玉串川の川岸には遊歩道が整備され、あとサクラ等の植樹も行われ、流域住民の憩いの場となっていますが、菱江川は何故埋立てられしまったのか?といつも残念に思う事があります。

私は菱屋東(旧菱屋東新田)で育ち、自宅のすぐ近くを菱江川が流れていましたが、長瀬川や玉串川を見ると、今でも当時の菱江川を思い出す事があります。

ですので、この歴史ある水路を後世までずっと残して欲しいと切に願う次第です。

しかし、私が幼少の頃の菱江川や長瀬川は悪臭のするドブ川でしたが…

疎水百選 大和川分水築留掛かり1

疎水百選 大和川分水築留掛かり2

疎水百選 大和川分水築留掛かり3

疎水百選 大和川分水築留掛かり4

春の長瀬川

長瀬川はほんま水が綺麗になりました(於 東大阪市・八尾市)
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2017
04.09

久宝寺城跡

Category: 石碑
久宝寺寺内町に「久寳寺城址」と刻まれた石碑が建てられています。

詳しくは八尾市の設置した説明碑がありしたので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、かつて寺内町の西北角にあたるこの場所には濠が突き出た場所があり、城土居(シロンド)と呼ばれ、久宝寺城があったと考えられているそうです。

土居の一部が残っていたそうですが、現在周辺には企業や住宅が密集し、かつての面影は殆んど残っていないかと思います。

それで、手持ち資料の中で最も古い城跡の写真を見ますと、土居(土塁)が写っていました。

その後、跡碑が建てられた以降の写真を見ても、現況と全く違う風景が写っていまして、ある写真には跡碑の後ろにレンガ造りの建物があり、また別の写真には駐車場が写っています。

もしかすると、跡碑も周辺の整備等で多少移動しているのかも知れません。

久宝寺寺内町には度々足を運んでいますが、この城跡は中心部から外れていますので、私は訪れる事はそれ程多くありません。

私はどちらかと言うと、石仏や道標等の石造物を中心に回っていますので。

久宝寺城跡1

久宝寺城跡2

久宝寺城跡3

久宝寺城跡4

狭いとこに建ってます(於 八尾市)

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2017
03.05

三堂学舎祉

Category: 石碑
東本町に「三堂学舎跡」があります。

跡地には「三堂学舎祉」と刻まれた跡碑が建てられていると言いますか、御覧の様にブロック塀に埋め込まれています。

手持ち資料によりますと、三堂学舎は旧若江郡木戸村にあった私塾で、明治十一年(1878)に吉川橦里(吉川武次郎)によって開かれ、町の人々に漢学の講義していたそうで、跡碑には吉川橦里の名も刻まれています。

それで、跡碑がいつの時代に建立されたのか不明ですが、明治時代に当時の堺県(大阪府の前身)が、私塾(家塾)の廃止を決定したそうで、しかし避遠村落では私塾等の私学も許可されたそうです。

三堂学舎は当時の文部省の年報(明治11年~12年)に、中学校の一覧表に収められていたそうで、小学校課程卒業生を対象に漢学を中心とした知識を授ける役割を担っていたそうです。

吉川橦里は明治三十四年(1901)に没し、墓碑が「常光寺」の境内にあるそうです。

あと、八尾市内には学塾跡としては「環山楼」「麟角堂」「簷葡舎」があります。

三堂学舎祉1

跡碑に合わせて塀を建てたんでしょうか?(於 八尾市)
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2017
02.12

流水紋銅鐸出土地

Category: 石碑
春日町の道路沿いに「流水紋銅鐸出土地」と刻まれた石碑が建てられています。

ある休日にたまたま見かけたのですが、道路沿いにポツンと建てられていましたので、近付いて見てみると流水紋銅鐸出土地と碑文に刻まれていました。

詳しい事は分りませんでしたが、碑文には平成時代の下水道工事に伴う発掘調査で発掘され、現在は八尾歴史民俗資料館にて保管されているとあります。

歴史民俗資料館でレプリカが展示されているかと思いますが(?)私は殆んど知識がありませんので、実はこれが何かよく分かっていません(一応、手持ち資料は目を通しましたが…)

それで、八尾市内では以前取り上げました、恩智出土の銅鐸と亀井遺跡出土の銅鐸片があるそうです。

石碑は建っている事に気付く方は殆んどいない様で…

流水紋銅鐸出土地1

流水紋銅鐸出土地2

八尾市は石碑をよう建ててますね(於 八尾市)
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2017
02.05

東大阪市吉田新家土地区画整理事業 竣工記念碑

Category: 石碑
吉田にある児童公園内に「東大阪市吉田新家土地区画整理事業 竣工記念碑」が建てられています。

裏面の碑文によりますと、区画整理事業は昭和四十二年(1967)から昭和四十四年(1968)に行われ、区画整理事業の竣工を記念して、昭和四十五年(1969)に記念碑が建てられたとあります。

それで、事業内容は区画整理とそれに伴う道路と水路の整備、あと公園も造成され、総面積22249393㎡、公園面積669413㎡、道路面積4195334㎡となっており、おそらくこの碑が建てられている児童公園はその際に整備されたものだと思われます。

それで、私は以前この吉田新家地区で暮らしていましたが、約20年前の当時は少数の田畑もあるものの、花園ラグビー場近くの住宅地化としていました。

その花園ラグビー場は当時近鉄の所有でしたが、昭和四十五年に解散した区画整理組合の理事に近鉄の社名が刻まれています。

かつて、この地区は市域に於ける主要米作地で、大半を水田が含めていたそうです。

現在もこの地区は生活圏ですが、水田は殆んど見かけなくなりました。

あと、この場所はひょんな事から、私が中河内探索を始めた場所でもあります。

東大阪市吉田新家土地区画整理事業 竣工記念碑1

東大阪市吉田新家土地区画整理事業 竣工記念碑2

東花園駅の近くにあります(於 東大阪市)


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2017
01.29

上之島用水親井戸

Category: 石碑
「御野縣主神社」の境内に「上之島用水親井戸」と刻まれた石碑が建てられ、傍らに井戸があります。

井戸はコンクリートで塗り固められていますので、現在使用されていないかと思われますが、境内に設置されている説明板によりますと、上水道が整備される以前に玉串川の伏流水を簡易水道として利用する為、上之島の人々が設置した親井戸と説明されています。

それで、この親井戸について詳しい事は分りませんでしたが、八尾市域で初めて簡易水道が設置されたのは、明治三十六年(1903)に本町において実施されたそうです。

八尾市の市制施行後は上水道の全域給水が計画されましたが、それ以前に上水道の設備があったのは「八尾町」と「竜華町」のみだったそうで、共に昭和十四年(1939)に整備されたそうです。

その後、水道鉄管の敷設と浄水場等の拡張工事が竣工し、昭和二十七年(1952)に全市給水を記念した式典が八尾小学校講堂で行われたそうです。

それで、以前取り上げました「寺井洫境石」の記事中「寺井樋」に関しても記しておりますが、こちらは江戸時代より玉串川の水を農業用水として利用する為に設置されたものですが、当時この用水を飲料水等としても利用していたかは不明です。

ひと昔前の様に、水道水を直接飲む事は現在殆んど無いかと思いますが、簡易水道敷設の理由として、明治期に発生した伝染病等の予防対策もその一つであったそうです。

おかげで日本でコレラ等の伝染病が流行する事は殆んど無くなりましたが…

上之島用水親井戸1

上之島用水親井戸2

上之島用水親井戸3

やっぱりそのまま飲んでたんでしょうか?(於 八尾市)
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2017
01.09

北高安小学校跡地

Category: 石碑
大竹の児童公園内に「北高安小学校跡地」の跡碑が建てられています。

北高安小学校についてインターネットで調べてみますと、明治六年(1873)に創立し、以前取り上げました「中高安小学校」と統合され、平成二十八年(2016)に閉校となっています。

それで、当初は水越の別地にて開校しましたが、その後跡碑の建つ場所に移転し、明治四十一年(1908)から昭和二十八年(1953)まで、この地にあったそうです。

現在、跡地は校舎等の建物は撤去されていますが、当時使用されていた校門(?)が残されています。

片方の門柱には板がはめ込まれていますが、かつては校名が記された銘板がはめ込まれていたかと思われます。

あと、敷地はそれ程広くはありませんが、創立時頃の生徒数を調べてみますと、男子65名、女子18名、教員2名と言う事でした。

北高安小学校も中高安小学校と同様、140年以上の歴史のある小学校でしたが、近年の小子化で閉校となったのも時代の流れでしょうか?

私が小学生の頃は、学級数が一学年で10クラス近くあった様に思います。

北高安小学校跡地1

北高安小学校跡地2

北高安小学校跡地3

北高安小学校跡地4

北高安小学校跡地5

北高安小学校跡地6

北高安小学校跡地7

北高安小学校跡地8

跡碑建立は大事な事だと思います(於 八尾市)
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2016
12.04

長田内介顕彰碑

Category: 石碑
長田にある児童公園内に「長田内介顕彰碑」が建てられています。

裏面に碑文が記されていますが、読み難いかと思いますので簡単に説明させて頂きます。

昔、長田の北から北河内の諸福にかけて大きな池(新開池)がありました。

この池の主の大蛇は、もと長田の東町にある家の下男で、その名を「内介」と言ったそうです。

それで、ある晩にあまりにも長く風呂に入っているので、主人が怪しんで様子を見に行くと、内介は大蛇の姿となって火を吹いていました。

自分の正体がばれてしまった内介は、逃げ出して池に入ったので、この池の事を内介池(内介渕)と呼ぶ様になったと言う事です。

あと、大蛇が西堤で水神様を呑もうとしたが呑めず、鱗を一枚落としたのですが、これは「西堤皇大神社」にある「鱗殿」でまつられています(鱗殿の前に市の設置した説明板にもほぼ同様の説明がなされていますので、興味のある方は現地にて一読して頂きたいと思います)

また、諸福にある内介大明神はその大蛇がまつられていると伝わるそうで、おそらく「諸福橋跡」の近くにある祠がそうだとう思いますが、近くにある「勿入渕址」の碑にも大東市の設置した説明板があります。

それで、顕彰碑にも記されていますが、この場所は平成時代の町名変更以前は「長田内介」言う町名だったそうで、手持ち資料の古い地図で確認しますと、長田内介と表示されていました。

この辺りは私の地元である稲田からそう遠くありませんので、昔の風景も曖昧ながら記憶していますが、顕彰碑の建つ公園は昭和40年代に行われた、東大阪開発土地区画整理事業の際に整備されたもので「長田東内介公園」とありました。

あと、公園の一角に「内介地蔵尊」がまつられています。

長田内介顕彰碑1

長田内介顕彰碑2

大蛇を長い間、龍だと思っていました(於 東大阪市)
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2016
11.23

中高安小学校跡

Category: 石碑
「服部川八幡宮」の境内に「中高安小学校跡」の碑が建てられています。

この跡碑は学校創立100周年を記念して、昭和四十七年(1972)に建てられたもので、中高安小学校の沿革等についてはインターネット等でお調べ頂きたいと思います。

それで、今回この跡碑を取り上げた理由なのですが、私この学校の校門前を通る事が多く、今日通った際に今年閉校となった事を初めて知りました。

私、閉校となった事をこれまで全く知りませんでしたので、帰宅後インターネットで調べてみますと「北高安小学校」も同じく閉校統合され、高安中学校と共に施設一体型の小中学校としてあらたに創立されたそうです。

その後、帰路の途中に歴史民俗資料館の近くまで来た際に、カラフルな外壁の学校がありましたので、おそらくあの学校がそうなんだと思います(その後、高安馬場の松跡に立ち寄りましたが、近くにある北高安小学校も閉校となっていた事もこの際に知りました)

以前は高校だったと思いますが、閉校となった高校施設を利用し、その為に三校の学校施設が不要となった事になります。

私の暮らす東大阪ではこの様な施設一体型の小中学校は存在しないと思いますが、高校も含めて統合された小中学校はある様で、近年は児童数の減少で統合も止むを得ずと言う事なんでしょうか?

因みに私の卒業した小学校も中高安小学校と同様、明治五年(1872)の創立ですが、閉校や統合の話は全く聞いた事はありません。

やはり、自分が卒業した学校がなくなるのは寂しい事です。

卒業生の方々は勿論の事、地区の方々も同様に寂しく感じられているのでないでしょうか?

中高安小学校跡1

中高安小学校跡

中高安小学校跡3

高安小学校

こんな歴史がある学校でも時代の流れには…(於 八尾市)
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2016
09.25

南木の本の頌徳碑

Category: 石碑
南木の本に頌徳碑が建てられています。

頌徳碑は「樟本神社」の南側にある、民家横の一角に建てられていますが、碑文によると「日羅寺」の住職であった、寺島妙音尼の遺徳を偲び、地元の方々によって、昭和四十五年(1970)に建てられたとあります。

それで、妙音尼について調べて見ますと、詳しい事は分りませんでしたが、日羅寺については縁起がありましたので、詳しくはそちらを御覧頂きたいといます。

現在、日羅寺は無住の様ですが(?)本堂前にある一対の燈籠には寛文八年(1668)の年号があり「願主 木本村 了空」と刻まれていますが、了空とは妙音尼と同じく僧侶だった人物なのでしょうか?

頌徳碑は日羅寺(樟本神社)に沿って流れる、水路沿いにひっそりと建てられています。

南木の本の頌徳碑1

南木の本の頌徳碑2

日羅寺1

日羅寺2

日羅寺3

日羅寺4

日羅寺5

何故境内に建てられなかったのでしょうか?(於 八尾市)
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