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無量寺境内

  • Day:2019.05.19 21:48
  • Cat:石碑
相生町に「無量寺境内」と刻まれた標石が建てられています。

年号等は確認出来ませんでしたので、いつの時代に建てられたものかは不明ですが、境内(?)には本堂等の寺院建築物はありません。

敷地内にある建物には「真宗大谷派 無量寺」とありますが、無住のお寺の様で地区で維持管理されているのでしょうか?

それで、無量寺は廃寺であるのか?手持ち資料で調べてみますと、廃寺とはなっていない様で、敷地の中央に木が植えられていますが、これは本堂等の建物が撤去された後に植えられたものなのでしょうか?

このお寺について程んど詳しい事は分りませんでしたが、以前「松谷御堂境内」「西境内」と刻まれたものを取り上げています。

その当時、寺社の敷地を標示する何らかの理由があったのか分かりませんが、江戸時代の年貢地、除地に関係があるのでしょうか?

こちらについても分かりませんでしたが。

無量寺境内1

無量寺境内2

かなり以前から気になっていましたので記事にしましたが(於 八尾市)

能楽高安流発祥の地の碑

  • Day:2019.05.05 20:36
  • Cat:石碑
神立に「能楽高安流発祥の地の碑」が建てられています。

それで、能楽高安流について手持ち資料にも記述がなく、その他でも調べてみましたが、詳しい事は殆んど分りませんでした。

能楽に関しても殆んど知識がございませんが…

ですので碑文をそのまま引用させて頂きますと「能楽高安流の流祖は高安姓で、高安の住人、安土桃山時代、当玉祖神社の神官であった。平成二十九年、廃曲となっていた「高安(高安の女)」が八尾の地で復曲上演され、高安流能楽師も出演された。」とあります。

あと、この石碑は高安城の倉庫跡礎石が発見されて、四十年を記念して平成三十年に「高安城を探る会」によって建てられています。

一般の方が発見したと言う事も凄いですが、会が出版された刊行物を拝見すると、到底私にはまねの出来ない程、存在を信じ地道に探索活動されていたのが非常に良く分かります。

私も数回訪れていますが、よくまあこの場所で発見したものだと思います。

能楽高安流発祥の地の碑1

能楽高安流発祥の地の碑2

高安城倉庫跡礎石1

高安城倉庫跡礎石2

高安城倉庫跡礎石3

高安城倉庫跡礎石4

高安城倉庫跡礎石5

礎石とは関係ありませんが眺め良いです(於 八尾市)

大阪府柏原羽曳野中小企業団地竣工記念碑

  • Day:2019.05.03 20:12
  • Cat:石碑
円明町にある公園内に「大阪府柏原羽曳野中小企業団地竣工記念碑」が建てられています。

この記念碑は、昭和五十八年(1983)に建てられたものですが、柏原羽曳野中小企業団地について、詳しい事は分りませんでした(と言うかあまり調べておりません…)

企業団地内には、以前取引のあった会社もありましたが。

あと、記念碑と並んで柏原市が説明板を設置していますが、企業団地敷地内には「円明遺跡」があります。

詳しくは説明板を御覧頂きたいと思いますが、信じられない事に調査中、多数の土器が盗難にあったそうです。

誰がどの様な目的で持ち去るのでしょうか?

尚、とある風景(その200)に掲載している写真は、この場所から撮影したものです。

大阪府柏原羽曳野中小企業団地竣工記念碑1

大阪府柏原羽曳野中小企業団地竣工記念碑2

大阪府柏原羽曳野中小企業団地竣工記念碑3

大阪府柏原羽曳野中小企業団地竣工記念碑4

大阪府柏原羽曳野中小企業団地竣工記念碑5

大阪府柏原羽曳野中小企業団地竣工記念碑6

何処で古墓が出土したかは分かりません(於 柏原市)

高萩翁功徳碑

  • Day:2019.02.24 21:30
  • Cat:石碑
都塚に「高萩翁功徳碑」が建てられています。

この碑は、大正七年(1918)に建てられたもので、碑文によりますと、高萩弥一郎氏は曙川の方で、明治二十九年(1896)に村長に選出されたとあります。

その後、長く村長を務められ、地元の自治の発達をはかり、教育を奨励し、道路の修治等を行い、あと綿作替わる菰菜栽培を奨励し、農家の副業を勧誘する等、地元に功績を残された記されています(多分…)

それで、明治期に河内木綿の栽培は衰退し、それに替わりこの地で菰菜栽培が行われた件については不明ですが、大正期には綿を見るのも珍しかったそうで、河内北部や南部では早々に姿を消し、中河内に綿作が集中したのだそうです(中河内では昭和初期まで見られたそうです)

しかし、綿が珍重されたので残った訳では無く、泉州の様に玉葱や甘蔗に転換する事が出来なかった事がその理由だそうで、この頃から大和川以南に比べて、現在の東大阪市域を中心とする中河内の農業の停滞が始まったと言われているそうです。

それ故に、農家の副業は生計立てる為に、かなり重要なものだったと思われます。

功徳碑の本題から、話がそれてしまいましたが、地元の方が高萩氏の功績を称え建てられたこの碑は立派なもので、寺社や公園等の人目につく場所に多く建てられたり、移設されている事が多いと思われるこの類の石碑の中では、珍しく(?)旧村内に建てられています。

高萩翁功徳碑1

高萩翁功徳碑2

近くには田畑が広がっています(於 八尾市)

上野義雄顕彰之碑

  • Day:2019.01.27 20:35
  • Cat:石碑
東大阪商工会議所前に「上野義雄顕彰之碑」が建てられています。

上野氏については、顕彰碑横にある顕彰の記に詳しく記されていますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが(写真の文字が少々見辛いですが…)碑文にもあります様に、氏は東大阪商工会議所名誉会頭であり、東大阪市で最初の名誉市民となられています。

それで、商工会議所とはどの様な組織なのか?実は私も詳しくは知らないのですが(…)前身である「布施商工会議所」は、昭和十二年(1937)に当時の布施職業紹介所内に設置され、会員の条件として市内で継続して二年以上営業している事等が定められていたそうです。

しかし、昭和十八年(1943)に「商工経済会法」により解散となりましたが、その後再組織され、東大阪市成立後は「東大阪商工会議所」として、現在に至っているとの事です。

それで、私も東大阪市内で就労する東大阪市民ですが、昭和十二年の布施市(私の出身地です)の生産額が、当時の金額で30732991円だったそうで、その中で工産物が最も多いのですが、内訳に以外にも水産物が含まれていました。

当時、漁業が行われていたのか?または水産物の二次加工等であったのか?詳しい事は分りませんでした。

あと「商」については、昭和十三年当時、布施市内の店舗数が2432店だったそうです。

今は量販店や大型商業施設で買物する事が多くなりましたけど(-_-;)

上野義雄顕彰之碑1

上野義雄顕彰之碑2

上野義雄顕彰之碑3

碑がある事は御存知の方も多いと思います(於 東大阪市)


皇太子殿下の記念碑

  • Day:2019.01.14 21:42
  • Cat:石碑
平成も今年で最後となり、新しい年号となりますが、今上天皇が皇太子であった時代に多くの記念碑が建てられていた事が分ります。

特に神社に多く見られ「皇太子殿下御成婚記念」等と刻まれていますが、御成婚の際の映像をテレビ等で拝見すると、最大なパレードが執り行われた事が分ります(私はまだ生まれていませんので…)

それで、これまで多くの記念碑を撮影しましたので、今回はその幾つかを掲載したいと思います。

新しい年号は、いつ発表されるのでしょうか?

私も「昭和」「平成」新しい年号と三つの時代を生きる事となりました。

皇太子殿下の記念碑1

皇太子殿下の記念碑2

皇太子殿下の記念碑3

皇太子殿下の記念碑4

皇太子殿下の記念碑5

皇太子殿下の記念碑6

皇太子殿下の記念碑7

皇太子殿下の記念碑8

皇太子殿下の記念碑9

皇太子殿下の記念碑10

皇太子殿下の記念碑11

皇太子殿下の記念碑12

皇太子殿下の記念碑13

皇太子殿下の記念碑14

皇太子殿下の記念碑15

ばあちゃんは明治、大正、昭和、平成と4つの時代を生きました(於 東大阪市・柏原市)



宝くじ桜植栽地

  • Day:2018.12.16 21:14
  • Cat:石碑
雁多尾畑に「宝くじ桜植栽地」の石標が建てられています。

石標は「竜田古道の里山公園」内に建てられ、地元では桜の名所として知られている様です。

それで、この場所は私の休憩ポイントでして、先週と今週もこの場所で一服して休憩しました。

あと、宝くじ植栽について関心のある方は、インターネット等でお調べ頂きたいと思いますが、建立は「日本宝くじ協会」と「日本さくらの会」となっていました。

周辺はこの場所以外にも桜の植栽地があり、毎年綺麗な花を咲かせていますが、何故か写真がありませんでしたので(?)また春になったら写真を撮りに行って来ます。

近くには「龍田山伝承の地」と、ここで取り上げた道標とお地蔵様があります。

宝くじ桜植栽地1

宝くじ桜植栽地2

《追記》
他の場所にもありましたので、写真を掲載しておきます。

宝くじ桜植栽地3

宝くじ桜植栽地4

眺めも良く近くからPLタワーも見えます(於 柏原市)

八尾市教興寺土地区画整理事業竣工記念碑

  • Day:2018.11.11 21:50
  • Cat:石碑
教興寺の児童公園内に「八尾市教興寺土地区画整理事業竣工記念碑」が建てられています。

詳しい事業内容は分りませんでしたが、八尾市のサイトに区画整理地区の範囲が示され、現地には住宅が建設され、また道路等も整備されています。

記念碑の建つ児童公園も区画整理事業に伴い整備されたと思われ、周辺は新興住宅地化としていますが、畑等もまだ残っています。

八尾東部、南部ではこの地区同様、区画整理事業が行われた地区が数カ所ある様です。

それで、ここ最近ネタ不足でこの類の石碑を多く取り上げていますが、ネタの尽きるまでブログを更新する所存でございます(-.-)

文章も短くなってきてますが。

八尾市教興寺土地区画整理事業竣工記念碑1

八尾市教興寺土地区画整理事業竣工記念碑2

八尾市教興寺土地区画整理事業竣工記念碑3

八尾市教興寺土地区画整理事業竣工記念碑4

植え込みに隠れてしまってます(於 八尾市)

竹渕東の歌碑

  • Day:2018.10.14 19:42
  • Cat:石碑
「平野川」沿いに歌碑が建てられています。

碑には「紅葉ばのながるゝ時は たけ河のふちのみどりも いろかはるらんと」刻まれ、私には歌の内容が分りませんが(…)碑文によりすと、往時の「竹渕川」の清流をここを訪れた事のある「凡河内躬恒」によって詠まれたのがこの和歌で「拾遺和歌集」に残されているとあります。

それで、凡河内躬恒は平安時代前期の歌人だそうですので、歌碑にもある様に千年以上前の平野川の様子を詠んだ歌と言う事になります。

その時代、平野川の流路が固定され、現在の流路とほぼ同様であったかのか?私には分かりませんが、清流と歌われています。

現在、平野川は鋼矢板やコンクリートによって護岸が整備されていますが、清流と歌われた当時の平野川は現状からは全く想像する事は出来ません。

あと、平野川が竹渕川と呼ばれていた事をこの歌碑によって初めて知りましたが、これ以外にも「了意川」と呼ばれていました。

これは御承知の様に、平野川に船運を運行しようとした「安井了意」に因んだものです。

それで、平野川は私の暮らす東大阪市域を流れていませんが、放出駅の西側を流れている、城東運河(平野川分水路)は、幼少期の頃から身近であったかも知れません。

私は片町沿線沿いで生まれ育ちましたので、平野川分水路に架けられている片町線の鉄橋から、いつもこの川を見ていましたので。

清流ではありませんでしたが(-_-;)

竹渕東の歌碑1

平野川の流れ1

平野川の流れ2

平野川分水路の流れ

城東運河も昔はやっぱりドブ川でした(於 八尾市・大阪市)

北高安小学校跡地(その2)

  • Day:2018.10.08 20:00
  • Cat:石碑
水越にある「薗光寺」の境内に「北高安小学校地」と刻まれた石碑が建てられています。

それで、同様の跡碑が大竹の児童公園内に建てられていますが、手持ち資料と八尾市のサイトによりますと、堺県第95番小学校として、水越の薗光寺の本堂を仮校舎に開校されたとあります。

明治六年(1873)から、明治十三年(1880)までこの地にありましたが、その後大竹に移転したのだそうです。

北高安小学校跡(その1)も御参照して頂きたいと思います。

北高安小学校跡地2-1

私の通った小学校もお寺が仮校舎だったそうです(於 八尾市)

高井田駅開業記念碑

  • Day:2018.09.30 21:09
  • Cat:石碑
JR高井田駅前ロータリーの南側に「高井田駅開業記念碑」が建てられています。

この記念碑は昭和六十年(1985)に建てられたもので、碑文には建設に至った経緯等が刻まれています。

それで、高井田駅は年に一度か二度利用していますが、確かに柏原から河内堅上の駅間はかなり長いので、地域住民の方々にとっては念願の駅開設だったのでしょう。

以前、私の知人が駅の近くまで通勤していた頃は高井田駅は無く、近鉄国分駅で下車して豊国橋を渡り通勤していたそうで、当時駅の周辺には何もなかったとの事です。

現在はコンビニ等も開店し便利になりましたが、青谷方面へ行く際は殆んどコンビニ店前の大和川沿いの道を通りますので、時折利用しています(青谷方面は商店がほぼありませんので…)

あと、思い出した事がありますが、駅より東へ行った場所に以前病院がありました。

その病院は一度だけその前を通った事がありましたが、当時既に閉院していました。

関心のある方はインターネットでお調べ頂きたいと思います。

高井田駅開業記念碑1

高井田駅開業記念碑2

ここは柏原南部探索の拠点ですので度々行ってます(於 柏原市)

高井田耕地竣工記念碑

  • Day:2018.09.30 19:10
  • Cat:石碑
高井田本通にある児童公園内に「高井田耕地竣工記念碑」が建てられています。

この記念碑は皇紀二千六百年(昭和十五年)に建てられてもので、大きく立派な自然石が使われています。

それで、事業内容について詳しい事は分かりませんでしたが、手持ち資料には「高井田村耕地整理組合」とあり、高井田小学校で起工式が行われ、奈良街道から森河内に至る125ヘクタールが耕地整理事業の対象となったそうです。

高井田は大阪市と当時の布施町に接する事から、将来の発展と近郊の集約農業を生かす為の事実上の区画整理として、耕地整が行われたとの事ですが、高井田地区は農村からその後、東大阪でも有数の製造業を行う企業が集まる地区となり、現在は廃業等によりその企業の数も減少し、その跡地に住宅建設が進んだ事による「住工混在」と言う、新たな問題も発生しています。

高井田周辺、特に中央大通り周辺は駅を中心とし、かなり開発された感がありますが、私が幼少の頃(昭和40~50年代)には
まだ田畑も多くあり、長瀬川も重要な灌漑用水の取水元として使用されていた様に思いますが、水はかなり汚れていました。

それで、この記念碑のある児童公園は、いつの時代に設置されたものか分かりませんが、園内にあるベンチ等の設備は雰囲気から(?)私の幼少期頃に整備されたものの様に見受けられます。

あの頃は、この様な公園があちこちにあった様に思います。

高井田はいとこの家があり、土地勘のある場所で、田畑は減りましたが、やはり町工場等の製造業の工場は現在でも多くあります。

高井田を通ると、今でも「工場の匂い」がします。

ある意味、幼少の事を思い出す懐かしい匂いなのかも知れません。

高井田耕地竣工記念碑1


高井田耕地竣工記念碑2

この時代の石碑は立派なものが多いです(於 東大阪市)

あけぼの橋

  • Day:2018.08.13 17:46
  • Cat:石碑
曙町を流れる長瀬川に「あけぼの橋」が架けられています。

その橋の袂には「あけぼの橋」と刻まれた、昭和五十五年年(1980)に竣工を記念して、石碑が建てられています。

おそらく、この小さな橋がそうかと思われますが、この辺りを長瀬川には小さな橋がいくつも架けられてています。

しかし、橋名が表示されている橋は殆んどなく、あけぼの橋以外で橋名が確認出来るのは「れんごうはし」だけでした。

それで、この様にほぼ人しか通れない様な小さな橋は、行政ではなく自治会等の負担で架橋するのでしょうか?

勿論、許可は必要かと思いますが、そのあたりはどうなっているのでしょうか?

時折、個人宅専用に架けたと思われる橋を見かける事もありますが。

あけぼの橋1

あけぼの橋2

石碑もそれなりの値段でしょうが(於 八尾市)

東大阪都市計画西部土地区画整理事業竣工記念碑

  • Day:2018.08.10 20:42
  • Cat:石碑
布施公園内に「東大阪都市計画西部土地区画整理事業竣工記念碑」が建てられています。

建立年は確認出来ませんでしたが、市長として「伏見さん」の名が記されていましたので、在任期間(昭和45年~57年)に建てられた事になります(私の世代では東大阪の市長と言えば、伏見さんでしょうか?)

事業内容の詳細は分かりませんでしたが、東大阪市のホームページによりますと、昭和40年(1965)から昭和48年(1973)まで整理事業が行われ、115ヘクタールが区画整理されたとの事でした。

おそらく、布施公園は土地区画整理事業の際に整備されたかと思われますが、現在改修工事が行われ、再整備される様です(?)

それで、昭和40年代と言えば、私の幼少期にあたりますが、吹田で万博が開催されて以降、私の出身地域である東大阪西部はこの時期から、都市として大きく変わって行ったのだと思います。

中央大通り、阪神高速東大阪線、機械団地、文具団地、金物団地等もこの頃に建設されたものですが、当時これ等道路、施設周辺にはまだ田畑も多く残り、新しい時代と古い時代が混在していた時期なのかも知れません。

これまで、東大阪全体の移りかわりをそれ程気にする事無く、暮らして来ましたが(-_-;)

東大阪都市計画西部土地区画整理事業竣工記念碑1

東大阪都市計画西部土地区画整理事業竣工記念碑2

東大阪都市計画西部土地区画整理事業竣工記念碑3

高井田周辺も店舗等が増えて賑やかになりました(於 東大阪市)

大阪府立八尾南高校跡地

  • Day:2018.06.10 21:46
  • Cat:石碑
私の拙ブログ「河内彷徨」も開設してから数年経ち、取り上げるネタも徐々に少なくなってきました。

まあ、あまり得意ではない(?)戦国時代の事や遺跡、古墳等も取り上げればカテゴリーが広がり、ネタも増えるのかも知れません。

しかし、基本的に近世以降の石造物や河川水路等を主に取り上げて行く事を主旨に記事を更新してきましたので、これ以降も石造物を主に『同じ様なネタ』が続く事となりますが、ネタの続く限りブログを続けて行く所存ですので、時間つぶし程度にでも御覧頂けたらと思う次第です。

それで、今回も早速石碑の記事となりますが、平野川沿いに「大阪府立八尾南高校跡地」の石碑が建てられています。

自然石に銘板が埋め込まれたものですが、昭和時代後期に創立された高等学校が閉校となり、跡地に石碑が建てられているのは珍しかと思っています。

個人的には「八尾らしい」のではないかと。

学校の沿革等いついてはホームページがありましたので閲覧しますと、丁度私が高校生頃の創立でした。

当時、学区が違うのでこの高校の事は知りませんでしたが、東大阪でも統合等で閉校となり、校名が改称された学校もあります。

卒業生の方々には淋しい事かも知れません。

大阪府立八尾南高校跡地1

大阪府立八尾南高校跡地2

跡地は八尾市の公共施設になってます(於 八尾市)

柏村町の顕彰碑

  • Day:2018.06.03 19:54
  • Cat:石碑
柏村町にある、児童公園内に顕彰碑が建てられています。

碑文によりますと、八尾市教育委員と委員長を務められた三好氏が、居宅跡を公園用地として寄贈されたとあります。

住宅街にある公園としては普通の規模かと思いますが、住宅の敷地としてはかなり広いと思います。

教育委員会に努められた方なので、地区の子供達への思いから公園用地として、寄贈されたかと思います。

あと、玉串川沿いにも個人の方が寄贈された敷地が、公園として整備されていますが、こちらは玉串川沿いにありますので、御存知の方も多いと思います。

柏村町の顕彰碑1

柏村町の顕彰碑2

柏村町の顕彰碑3

高井公園1

高井公園2

南北は家三軒分位の長さです(於 八尾市)

曙川北土地区画整理事業竣工記念碑

  • Day:2018.05.20 21:05
  • Cat:石碑
八尾木北にある公園内に「曙川北土地区画整理事業竣工記念碑」が建てられています。

碑文によりますと、八尾市として最初の土地区画整理事業で、市域のほぼ中央に位置する62ヘクタールを昭和45年に着工し、昭和52年に竣工したそうです。

この地域の市街化の促進を図る為、総工費17億円を投じて「東大阪中央線」をはじめ、総延長15キロメートルの道路網及び公園が整備されたそうです。

尚、八尾市のホームページでこの事業について閲覧する事が出来ますので、そちらも御覧頂きたいと思いますが、私少し気になったのが「東大阪中央線」です。

この道路についてインターネットで調べてみますと、基本的には廃止となった様ですが、東大阪市域では本庄から横枕春日神社の横まで幅広の道路が通っています。

これが「名残」だそうですが、言われてみますと八尾にも同様の名残があります。

以前から「何でここにこない広い道路通ってんやろ?」と思っていましたが、理由はそれだったんですね(-_-;)

それで、記念碑はコンクリート製(?)の台石に、子供のブロンズ像が座っている珍しいものです。

プレートが無ければ、公園内にあるモニュメントの様です。

ブロンズ像と碑の組み合わせは『後の世代に』との思いでしょうか?

曙川北土地区画整理事業竣工記念碑1

曙川北土地区画整理事業竣工記念碑2

耕地整理記念碑としては珍しいです(於 八尾市)

太田尋常小学校跡地

  • Day:2018.05.13 20:31
  • Cat:石碑
前回「三木本尋常小学校跡地」を取り上げましたが、その三木本尋常小学校は大正時代に「太田尋常小学校」と統合され「大正尋常高等小学校」となりました。

現在、太田の学校跡地には「太田尋常小学校跡地」の石碑が建てられています。

碑文には、明治七年(1874)に太田尋常小学校が設立され、大正十一年(1922)に三木本尋常小学校と合併し移転したとあります。

それで、手持ち資料によりますと、明治七年十月(一説では十一月)に第百五十一番小学として設立とあり、当時学区は番号により呼称されていたそうですが、明治八年(1875)に所在地の町村名で呼称される事となり、第百五十一番小学は太田小学と改称されたそうです。

あと、当初校舎は寺院が借用され、生徒数は男子85名、女子34名で教員は二名だったそうです。

前回から続けての小学校跡地を取り上げました。

太田尋常小学校跡地1

八尾菊花ライオンズクラブの寄贈となっていました(於 八尾市)

三木本尋常小学校跡地

  • Day:2018.05.06 22:35
  • Cat:石碑
木の本に「三木本尋常小学校跡地」の石碑が建てられています。

碑文によりますと、明治六年(1873)に三木本尋常小学校が設立され、後の大正十一年(1922)に太田尋常小学校と合併し、大正尋常小学校(現大正小学校)と改称、移転したとあります。

それで、手持ち資料で調べてみますと、明治六年六月に第九十五番小学設立とありました。

あまり詳しい事は分かりませんでしたが、この地域の行政区画の変遷はやや複雑(?)で、三木本村が成立したのが明治二十二年(1889)ですので、明治六年創立の小学校名に使用されていたと言う事は、以前から三木本は木の本三村の総称だったのでしょうか?

現在、跡地には住宅が建ち当時の名残は全くありませんが、跡碑のすぐ近くを水路が流れ、小さな橋が架けられています。

東方に水路を辿ると、明治の年号が刻まれた石の樋門がありますので、この水路も明治以前から流れていた事になりますが、当時の子供達はこの水路を見ながら登下校していたのかも知れません。

その水路も一部を除いて、暗渠となっています。

三木本尋常小学校跡地1

ネタが少なくなりましたので石造物の記事が多くなります(於 八尾市)

中高安小学校発祥之地

  • Day:2018.04.29 20:37
  • Cat:石碑
「光明寺」の境内に「中高安小学校発祥之地」と刻まれた石碑が建てられています。

以前「中高安小学校跡」の石碑を取り上げましたが、残念ながらこの長い歴史のある小学校は現在閉校となっています。

この石碑は跡碑と同様に創立百周年を記念して、昭和四十七年(1972)に建てられたもので、碑文には創立時の「堺縣服部川百三十六番小学校」とあり、インターネットにて詳しい沿革を知る事が出来ます。

あと、手持ち資料によりますと、明治十四年(1881)に堺県の廃止後、服部川は大阪府の管轄となり、校名は「服部川小学校」と改称され、明治十一年(1878)の時点で生徒数男子72人、女子が18人、就学率が34%だったそうですが、女子に限っては14%と学齢人口が124人に対して低い就学率となっています。

八尾市では学制の歴史を伝える、多くの石碑が建てられていますが、近年の少子化等で児童数が減少し、歴史ある学校が廃校となるのも仕方がない事なのでしょうか?

自分が卒業した学校が無くなってしまう事は、やはり淋しい事です。

中高安小学校発祥之地1

因みに私の卒業した小学校は創立146年だそうです(於 八尾市)

龍華寺跡

  • Day:2018.04.15 19:21
  • Cat:石碑
陽光園にある公立小学校の角地に「古蹟 龍華寺址」と刻まれた石碑が建てられています。

「龍華寺」については、現地に八尾市の設置した説明碑がありますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが、寺跡地は小学校及びその西側周辺と推定されているそうで、その南側が旧大和川の堤防跡となっています。

天文二年(1533)に大和川が決壊した際、龍華寺は既に所在不明であったそうですが、氏神である「渋川神社」が流失し、家々の流出材や流木は、東大阪の花園まで流れ着いたのだそうです。

その後、龍華寺は渋川神社が現鎮座地に再建された後、天正年間に神社南側に神宮寺として再建されたそうですが、明治時代の神仏分離令により神社から分離し、その後小さな観音堂となったそうです。

それで、確認はしておりませんが「植松観音堂」に「元神宮寺」とありますので、御本尊の観音様は現在この場所でおまつりされているのでしょうか?

あと、石碑は昭和五年(1930)に当時の龍華町によって建てられたもので、当初は西方の道傍に建てられたそうですが、その後小学校の校内に移設され、更に現所在地へと移設されています。

龍華寺跡1

龍華寺跡2

龍華寺跡3

写真で石碑は見た事がありましたが(於 八尾市)

暗渠工事碑

  • Day:2018.04.08 21:18
  • Cat:石碑
上之島南町の住宅街に「暗渠工事」と刻まれた石碑が建てられ、水路が暗渠化された事が記されています。

八尾市の説明碑と良く似た形状のもので、碑文にはこの場所が「河内國若江郡上之嶋村」から、その後「中河内郡三野郷村大字上之島」となったとあります。

石碑は住宅街の中を通る狭い道路沿いに建てられていますが、その前を道路幅の4分の1程を占める暗渠が通っています。

それで、かつてこの地が中河内郡三野郷村であった時代、築留樋普通水利組合(現築留土地改良区)に属していた事から、玉串川から用水をまかなっていた事が分りますが、玉串川流域には多くの取水口(樋門)があり、それこそ網の目の様に小さな水路が張り巡らされたのでしょう?

実際、現在も玉串川からは多くの水路が引き込まれ、暗渠化された水路を目にする事が多くあります。

あと、平野部に限らずの生駒山から流れる谷川も、麓付近から平野部にかけて暗渠化されている事が多く、それは私の暮らす東大阪市域でも同じ事が言えます。

平野部では多くの水路が農地減少等の理由で埋立てられていますが、実際には多くの水路が暗渠となり、現在も残されている事になるのかも知れません。

耳をこらして聴くと、暗渠から水の流れる音が聞こえてきます。

暗渠工事碑1

暗渠工事碑2

三野郷尋常高等小学校文教場跡地の近くにありました(於 八尾市)

三野郷尋常高等小学校文教場跡地

  • Day:2018.03.18 21:58
  • Cat:石碑
上之島町南に「三野郷尋常高等小学校文教場跡地」の石碑が建てられています。

碑文によりますと、明治二十年(1887)に上之島尋常小学校が開校され、その後は大正十四年(1925)から昭和三十年(1955)まで、三野郷尋常高等小学校文教場となったとあります(尋常小学校は大正十三年より)

それで、尋常高等小学校と尋常小学校、高等小学校の違いの説明は省略させて頂きますが、碑文によりますと尋常小学校文教場となった後に尋常高等小学校文教場となった事が分ります。

あと、本校である「三野郷尋常高等小学校」は現在の玉串元町にあり、その跡地にも「三野郷尋常高等小学校跡地」の石碑が建てられています。

八尾市にはかつて学校施設がその地に存在した事を、後世に伝える石碑が多く建てられていますが、私の暮らす(出身地)東大阪市は同様の跡碑が殆んど見られません。

私が卒業した小学校もそうですが、東大阪には百年以上の歴史がある小学校も多くあります。

個人的にはこの様な跡碑の設置を望んではいるのですが…

検討して頂きたいです。

三野郷尋常高等小学校文教場跡地1

三野郷尋常高等小学校文教場跡地2

三野郷尋常高等小学校文教場跡地3

今は駐車場になってます(於 八尾市)

中野西同行会所地跡

  • Day:2018.01.21 21:26
  • Cat:石碑
中野に「中野西同行会所地跡」と刻まれた石碑が建てられています。

平成二十六年(2014)に建てられた新しい石碑ですが「同行会所地」とは、どの様なものなのか?詳しい事は分りません。

碑文に「浄土真宗本願寺派 浄福寺」とありますが、同行とありますので、中野の方で組織されている講的なものがあるのでしょうか?

浄福寺をインターネットで調べてみますと、実在する寺院の様ですが「会所地」についても調べてみますと、町割りの中央に設けた四方の空地の事だそうで、本件につては詳しい事は分りません。

あと私の推測となりますが、鴻池新田会所の様な施設の跡、または行者堂様な講の施設の跡では?とも思いましたが、全く確証はありません。

それで、元禄年間の中野村の記録によりますと、当時村内にあった寺院は「西善寺」のみですが、大正時代以降に廃寺となったと思われ、現在は跡碑が建てられています。

結局、詳しい事は分りませんでしたが、また機会があれば地元の方にお話しを伺えたらと思います。

一番確実ですので。

中野西同行会所地跡1

中野西同行会所地跡2

更地になっています(於 東大阪市)

浅田末吉翁顕彰之碑

  • Day:2017.12.31 21:17
  • Cat:石碑
「枚岡神社」の境内に「浅田末吉翁顕彰之碑」が建てられています。

建立の経緯については、裏面の碑文を御覧頂きたいと思いますが、浅田氏は私財を投じて境内の整備に尽力されたと記されています。

それで、浅田氏は東大阪市内にある企業の創業者でもあり、私はその事を存じておりましたので、会社ホームページを拝見しますと、工場敷地内におまつりされている「八代龍王」についても説明がありました。

ここで以前取り上げた、企業の敷地内におまつられている八代龍王は、この会社の敷地内におまつりされている立派なものです。

あと、碑文には枚岡神社創祀の地である「神津嶽」に石碑を建立する為にも尽力されたとあります。

枚岡神社境内には多くの石造物がありますが、浅田氏の様に神社や地域に貢献された方を称える石碑も建立されています。

私の様に機会があれば、参拝後に境内の石造物をゆっくり見て回るのも良いかも知れません。

浅田末吉翁顕彰之碑1

浅田末吉翁顕彰之碑2

浅田末吉翁顕彰之碑3

浅田末吉翁顕彰之碑4

昔の枚岡神社の写真をみますと現在とは違う所もある様です(於 東大阪市)

世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地

  • Day:2017.11.19 21:05
  • Cat:石碑
郡川に「世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地」と刻まれた標石が建てられています。

インターネットで調べてみましたが、詳細は全く分かりませんでした。

すぐ近くには「開祖」と刻まれた墓石と、題目が刻まれた碑が建てられていました。

取り敢えず、よく分かりませんでしたが…

世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地1

世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地2

世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地3

世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地4

世界唯一護國三宝大荒神王発祥之地5

世界唯一とは?(於 八尾市)

野鳥塚

  • Day:2017.11.19 21:01
  • Cat:石碑
生駒山の中腹にある「慈光寺」の境内に「野鳥塚」が建てられています。

昭和五十一年(1976)に東大阪野鳥の会によって建てられていますが、建立の経緯等の詳しい事は分りませんでした。

慈光寺は昔からホトトギスの名所として知られ、慈光寺を案内する道標にも「ほととぎす名所」と刻まれ、河内名所図会にも記されています。

それで、慈光寺の境内には「慈光寺の野鳥」と題したパネル写真が展示されていますが(?)野鳥の知識が殆んど無い私には、見ても良く分かりません

実はホトトギスの鳴き声すら知りませんで、分かるのはウグイスだけです(-_-;)

ですので、生駒山の野鳥について少々調べてみますと、ホトトギスは「夏鳥」と呼ばれ、南方諸島から飛来する渡り鳥だそうで、過去の調査によると、旧枚岡市地域の鳥類は15目、32科、89種が数えられ、かつては「キジ」の放鳥も行われたのそうです。

確かに、生駒山歩きの際に突然、キジが現れ驚く事があります。

今年も年内は生駒山を歩く予定にしていますが、ちょっと鳥の種類を覚えて通りすがりに観察してみるのも、楽しみが増えて良いかも知れません。

最近、小さな鳥に出会うと、観察したり写真を撮影する事が多くなりました。

しかし、何度も言いますが、イノシシだけは出会いたくありませんね。

野鳥塚1

野鳥塚2

慈光寺の野鳥

野鳥塚3

生駒山で命を終えた野鳥の供養の為でしょうか?(於 東大阪市)

道界

  • Day:2017.11.12 21:47
  • Cat:石碑
「道界」と刻まれた標石がありました。

生駒山の山中、上石切町の道路(?)沿いに建てられていましたが、普段目にするコンクリート製の境界抗ではなく、石柱に道界と刻まれています。

石造の境界抗は珍しいので今回取り上げましたが、周辺の環境から推測すると、昭和初期以降の設置かと思われます。

現在もこの境界抗は有効なのでしょうか?

御覧の通り、かなり年季が入っております…

道界1

道路敷界1

結構山の中にありましたけど(於 東大阪市)

業平道

  • Day:2017.10.29 22:25
  • Cat:石碑
大県に「業平道」と刻まれた碑があります。

碑には「ちはやぶる…」と歌も刻まれていますが、これは業平が詠んだものだそうで、元柏原市長の山西さんの書となっています。

業平道については、太平寺に案内板がありましたので、そちらを御覧頂きたいと思います。

それで、柏原はこれまで度々訪れていますが、業平道は部分的に歩いた事がある程度で、実際に何処を通っているのかよく知らないのですが「石神社」の近くにある案内板には、そのルートが示されています。

また、案内標識も各所に設置されていますので、季節の良い時期にでもぼちぼち歩いてみようかと思いつつ、数年経ってしまいました(-_-;)

あと、業平道には諸説あるそうですが、こちらも山歩き等で訪れる事が多い、高安山麓にも業平の言伝えがあります。

業平が大和から「玉祖神社」を参拝した際、茶屋筋(十三峠にかかる所)に住む娘を見染め、しばしばこの道を通り、訪れる際には必ず茶屋辻の東にあった松の木から合図をしたそうで、この松は「笛吹松」と呼ばれたそうですが、今はもう無いと言う事です。

ある日、合図をせずに訪れた事で悲劇的な結果となってしまうのですが、娘が身を投げた場所を「恋の渕」と呼んだそうで、こちらも松の木同様にその場所は分からないそうです。

それで、娘が業平を追いかけた道を「夫追越」(おとおいこえ→おおとこえ)と呼び、玉祖神社には「一節切の笛」と呼ばれる業平が使用した笛が残されているそうで、神立には「笛吹」と言う小字名があります。

普段、そんな言伝えも気にもせずに歩いている高安山周辺ですが。

業平道1

業平道2

業平道3

業平道4

業平道5

業平道6

業平道7

今度ぼちぼち歩く事にします(於 柏原市・八尾市)

恩智中町の句碑

  • Day:2017.10.01 22:08
  • Cat:石碑
「恩智神社」の鳥居近くにある公園内に句碑が建てられています。

自然石を使用した句碑には「踊りぬ久 夜空にひびく 太鼓の奈 花女」と刻まれていますが、残念ながら私には句の意味が理解出来ません(-_-;)

それで、裏面の碑文によりますと「南高安婦人会」を創立し、初代会長を務めた「乾ハナ」氏の地域新興発展の為に尽力された功績を称え、昭和三十四年(1959)に婦人会々員の方達により、この句碑は建てられたとあります。

あと、乾ハナ氏について詳しい事は分りませんでしたが、同様に地域に多大な功績を残され、衆議院議員も努められた「乾亀松」氏と同姓ですので、もしかしたら親族の方だったのでしょうか?

現在、南高安婦人会が存在しているのか?確認はしておりませんが、公園内の一角に目立つこと無く、この句碑はあります。

恩智中町の句碑1

恩智中町の句碑2

何故か鉄柵で囲われています(於 八尾市)