2017
12.24

教興寺(大字)の道標

Category: 道標
柏原市斎場の東側山中に道標が建てられています。

各面には「梵字 左 さかい」「梵字 右 志き山 二十八丁」と刻まれていますが、年号等は確認出来ませんでした。

それで、案内先と梵字(ベイ)から、この道標は信貴山案内の為に建てられたものと分かり、道標の建つ道は教興寺から信貴山へと続く道(信貴山越えの道)となっていますが、二十八丁は何処を起点としているのかは不明です。

また、この道は平野から続く道とも合流しており、その先には関西電力の変電所(信貴変電所)が建設されていますが、変電所建設に際し既存の道路を拡幅整備し、車で変電所、あと信貴山まで行く事が出来る様になりました。

その為、この道標の建つ山越えの道を通行する人も無く、平野から続く道同様に通行困難となっていると思われ、実際に双方の道を少し歩いてみましたが、途中からかなり荒廃していました。

それで、八尾市内に建つ道標で案内表示の上に梵字が刻まれていものは珍しそうで、あと旧街道の交差点等に建つ道標とは違い、表裏二面に案内先が表示されている事も珍しいかと思います。

尚、平野の東高野街道沿いにほぼ同じ道標が建てられていましたが、道路拡張工事の際に撤去され、現在所在不明となっています。

あと、志紀町南にも同様に信貴山と堺を案内する道標が建てられています。

教興寺(大字)の道標1

教興寺(大字)の道標2

教興寺(大字)の道標3

教興寺(大字)の道標4

所在地は教興寺だと思いますが…(於 八尾市)

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2017
06.26

相生町の道標(その3)

Category: 道標
相生町の「奈良街道」と「八尾街道」との分岐点に道標が建てられています。

この道標は大阪府によって建てられたもので「右 奈良街道 柏原停車場 左 八尾街道 八尾停車場」「奈良街道 平野 大阪」と刻まれ、年号等は確認出来ませんでしたが、明治時代に建てられたものと分かります。

それで、表示は街道名を主にしてその下に案内先が刻まれていますが、当時大阪府が建てた道標は街道名を主に表示しており、道路行政の先鞭と察する事が出来ます。

あと、案内先に停車場名(駅名)を表示している事から、移動手段が徒歩から鉄道へと移り変わって行く過程において、この道標が建てられた事も分かります。

以前は転倒していたそうですが、墓地の入口横に建て直されています。

相生町の道標3-1

相生町の道標3-2

相生町の道標3-3

素朴な字で彫られています(於 八尾市)
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2017
04.16

平野(大字)の丁石

Category: 道標
平野の山中、信貴山の参詣道に丁石が建てられています。

「十三丁」と刻まれ、側面には建立者二名の名が刻まれていますが、何処を起点として十三丁としているかは不明です。

それで、この道は「柏原道」と呼ばれていたそうで、法善寺から平野を通り「東高野街道」を横る山越えの道となっています。

現在、山越えの道は荒廃し、通行する人も殆んどいない様で、趣味としての山歩きとしてはあまり適さないかと思われます。

それについては、以前「とある風景」にて、私の思うところを書かせて頂きましたが、休日をトラブルなく楽しく過ごす為に、無理をせず危険な場所は歩かない事を最近心掛けています(と言っても気になる道があると歩きたくなりますが…)

この道に他の丁石が残されているのか?気にはなりますが。

平野(大字)の丁石1

平野(大字)の丁石2

平野(大字)の丁石3

平野(大字)の丁石4

二十五丁石

危険な道を無理して通らない

上部が補修されています(於 柏原市)
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2017
02.26

黒谷(大字)の道標

Category: 道標
高安信貴山道の「岩戸神社」「梅岩寺」へ続く道との分岐点に道標が建てられています。

「左 岩谷辨財天社 是より教興寺村へちかみち」と刻まれ、寛政八年(1796)の年号があります。

それで、願主として「大坂難波新地 よし屋安兵衛」他四名の名が刻まれ、この道標は大坂市中の商人によって建てられた事が分かりますが、他面には「神主 服部」と刻まれています。

「教興寺の道標」で記しておりますが、服部とは江戸時代に「岩戸神社」の神主を務めた「服部和泉」の事だそうで、神社境内にある石造物にもその名が見られます。

あと、黒谷に建つ道標は形式や文字からみて、同時期に建てられたものだと思われるそうで、一見すると同じ道標にも見えます。

それで、高安信貴山道には現在も丁石が残り、この山越えの道は信貴山参りのメインコースであったそうで、大阪からの参詣者は弁財天(岩戸神社)に立ち寄り、信貴山へと向かったと思われるそうです。

弁財天が信貴山参りの途中で立ち寄られる様になった経緯は不明ですが、参詣者の為に高安信貴山道へと続く道と道標が設けられ、道標同様に「岩戸神社」と「高御座神社」にある、石造物の寄進者には大坂市中の商人の名が多く見られます。

かつて、多くの参詣者が往来した高安信貴山道ですが、現在は殆んどハイカーの方が歩くのみのハイキング道となっています。

私的にはハイキングコースとしてはそれ程整備されていないかと思うのですが、実際にこの道を歩きますと、かつての信仰の歴史を感じる事が出来る様に思います。

しかし、殆んどの方はそんな歴史には関心は無く、単にハイキング道として利用されているのですが…

黒谷(大字)の道標1

黒谷(大字)の道標2

黒谷(大字)の道標3

黒谷(大字)の道標4

黒谷(大字)の道標5

きのう岩戸神社にお参りに行きました(於 八尾市)
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2016
11.27

服部川(大字)の道標

Category: 道標
高安山に道標が建てられています。

「右 志き山」と刻まれていますが、年号等は確認出来ませんでした。

この道標は高安山駅から北にある「開運橋」のすぐ東側に建てられているもので、橋の下を通る谷道は「高安城」の堀切りの遺構ではないかと考えられているのだそうです。

かつては、この場所から東にある上連池を経て高安信貴山道に通じていたそうですが、現在は通行不能となっています(少しだけ歩いてみましたが、やはり先へは進めませんでした)

あと、開運橋は現在コンクリート製となっていますが、以前は丸太を渡した簡素な橋だったそうです。

信貴山へと続く高安山越えの道に建つ道標です。

服部川(大字)の道標1

服部川(大字)の道標2

開運橋1

開運橋2

江戸時代のものでしょうか?(於 八尾市)
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2016
10.31

上石切町の道標(その4)

Category: 道標
辻子谷に道標が建てられています。

「左 氷室瀧」と刻まれていますが、年号等は確認しておりません。

あと、西にあるお社のそばには「弘法大師氷室瀧 御行場 右へ突当り」と刻まれていますが、先の道標同様に年号等は確認しておりません。

それで、氷室瀧について詳しい事は分りませんでしたが、生駒山には多くの瀧行場が存在します。

生駒山の瀧行場を中心とした民間信仰は、明治以降から開かれたそうですが、瀧行場に於いて「瀧」自体が主神ではなく、殆んどの行場には本尊としてまつられているものが、別にある事が多いかと思われます。

生駒山で開かれた民間信仰は歴史が浅く、建立された石造物の年号も明治以降のものが殆んどで、江戸時代のものは皆無かと思われ、明治以前の民間信仰的な行場の跡も、これまで私が確認した範囲では全く見当たりませんでした。

辻子谷はこれまで幾度となく歩いている道ですが、これまで氷室瀧を訪れた事は一度もありませんで、ここ数年は立入禁止となっています。

上石切町の道標4-1

上石切町の道標4-2

上石切町の道標4-3

道標とさせて頂きました(於 東大阪市)
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2016
08.12

相生町の道標(その2)

Category: 道標
相生町に道標が建てられています。

各面には「左 八尾 右 柏原」「左 平野 右 八尾」「左 柏原 右 平野」と刻まれ、安政七年(1860)に建てられたものです。

この道標は八尾街道沿いにある、植松墓地の入り口に建てられていますが、この場所は植松から続く道と八尾街道とが交差する三差路で、八尾・柏原・平野への分岐点となっていました。

この道標が建てられた安政年間当時、既に八尾・柏原・平野では集落が発展し、明治時代の鉄道敷設時には駅が設けられる町としての素地があったと思われるとの事です。

それで、植松から続く道は度々通っていますが、この場所はT字路になっていますので、道標の前にカーブミラーのポールが建てられています。

ですので、見る角度によっては案内先が半分しか見えませんが、現在この道標を頼りにこの道を通行する人は、当然の事ながらほぼいないかと思いますので、結果論的ではありますが、貴重な石造物への衝突防止策となっています(?)

更に墓地の門扉の支柱も設置されていますので、道標が何か窮屈そうに見えます(笑)

破損等は無い様ですが。

相生町の道標2-1

相生町の道標2-2

相生町の道標2-3

相生町の道標2-4

明治時代の道標かと思いました(於 八尾市)
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2016
04.24

太子堂の道標

Category: 道標
太子堂に道標が建てられています。

周囲をコンクリートで固められ、民家の角に殆んど埋まっている状態ですが、各面には「右」「右」「す」と刻まれています。

それで、案内先について手持ち資料で調べてみますと、以前は「右 下勝」まで確認出来たそうで、それから推測しますと「右 下の太子 勝軍寺」と刻まれていたと思われます。

あと、他面の「右」「す」について詳しい事は分りませんでしたが、御承知の様に「すぐ…」と案内先が刻まれていたと思われ、地元では「信貴山」と刻まれていたと伝わるそうです。

現在、この道標は三差路にありますが、案内先から推測すると、以前は跡部の四つ辻に建てられていたと思われるそうで、跡部から太子堂を通るこの道は「太子路」と呼ばれる「奈良街道」の旧道だそうです。

それと、一面に枘が彫られていますが、その理由は分かりませんで、私初めてこの道標を見た際は石橋の親柱ではないかと思いました。

太子路で勝軍寺を案内する道標が建てられたのは当然の事だと思われますが、この一基以外には現存しないそうで、貴重な道標と言う事になります。

現状では車等の衝突防止用に家の角に置かれていますが、他の地区でも例があります様に建立時の状態に戻すと言った処置も八尾市には検討して頂きたいと思います。

八尾市の市民憲章には「文化財をたいせつにしましょう」とありますので。

太子堂の道標1

太子堂の道標2

太子堂の道標3

太子堂の道標4

市民憲章碑1

市民憲章碑2

市民憲章碑3

やはり保存の方向で検討して頂きたいですが(於 八尾市)
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2016
02.06

神立の道標(その4)

Category: 道標
「玉祖神社」の北側、農免道路沿いに道標が建てられています。

「左 玉祖神社」と刻まれ、大正七年(1918)の年号がありました。

それで、農免道路からは八尾はもとより大阪平野も一望出来る程見晴らしが良く、私の休憩ポイントとなっていますが、大正七年当時は当然の事ながらこの道路は建設されていませんでした。

ですので、この道標は当初何処に建てらたのか?と言う事になります。

この道標について詳しい事は分かりませんでしたが、神立茶屋辻の上方に水源地が出来た事により周辺の様子は一変したそうで、以前そこから玉祖神社へ通ずる道があったそうです。

その道には道標が建てられ「右 玉祖神社さんけい近道」と刻まれていたそうですが、現在は所在不明だそうです。

ですので、この道標も水呑地蔵ヘの道(十三峠越)から、玉祖神社へ続く道に建てられていたのでは?と推測しましたが、実際のところは私にも分かりませんで、水源地の建設工事、または道路建設の際に元の場所から現在の場所へ移されたかと思われます。

あと、大窪にある道標は「玉祖神社玉光瀧」と刻まれ、玉祖神社境内にある「玉光瀧」への案内道標ですが、この道標は玉祖神社を案内する道標となっています。

おそらくこの道標は、八尾市内で現存する唯一の玉祖神社を案内する道標かと思います。

神立の道標4-1

神立の道標4-2

神立の道標4-3

神立の道標4-4

高い場所に建っていますがあまり目立っていません(於 八尾市)
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2015
12.05

萱振町の道標(その2)

Category: 道標
河内街道沿い「加津良神社」の前に道標があります。

「右 若江 松原 野崎 京 左 天王寺」「左 八尾 平野」と刻まれ、年号等は確認出来ませんでしたが、河内街道沿いに建つ道標ですので、おそらく明治時代のものかと思われます。

それで、東高野街道に建つ道標以外で案内先として「京都」が刻まれているのは、八尾市内ではこの道標一基だけだそうで、あと同じく「野崎」の表示も珍しく「松原」は私の自宅近くにある「暗越奈良街道」の「松原宿」の事かと思います。

この道標は以前、加津良神社の角に建てられていたそうで、明治時代の河内街道は萱振の旧村の北で西へと湾曲してたそうですが、手持ち資料のその時代の地図を確認しますと、確かに直角ではなく弧を描く様に湾曲して道が通っていました。

いつの時代に現在の様に萱振へと直進する様になったかは不明ですが、道路が建設され萱振を通る様になってから以降に道標が保存されたものだそうです。

あと以前、旧村の南側にも同形の道標があり「右 八尾 平野」「左 柏原 道明寺」と刻まれていたそうで、村人が通行人の為に村の南北両側に二基の道標を建てたのだそうです。

私もこの辺りは度々通ります。

萱振町の道標4

萱振町の道標5

萱振町の道標6

交通量が多いので破損を考えるとこの場所での保存となるんでしょう(於 八尾市)
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2015
10.23

神立の道標(その3)

Category: 道標
水呑みさんへ続く十三峠越えの道の途中、二基の小さな道標が建てられています。

自然石に「左 かわちごえ」「十三峠 六万寺」とそれぞれ刻まれています。

年号は確認していませんが、何方かが建てられたのでしょう(笑)

この二基の道標は「十三峠道の道標と丁石」で取り上げた道標の両側に建てられているもので、私が今年の一月にこの道を歩いた際にはありませんでしたので、それ以降に建てられたのでしょう?

あと、道標が指す「かわちごえ」の道は「櫟原越えの道」だそうで、現在も道はあるにはありますが、通行可能かどうかは分かりません。

取りあえず歩ける状態ではありましたが、その先はどうなっているか分かりませんで、今の所歩く予定はありません。

生駒山を歩いていると、時折藪漕ぎをする事もありますが、以前枝で顔を切った事があり、あと体中が引っ付き虫だらけになった事もありますので、あまり藪漕ぎは好きではありません(引っ付き虫は後が大変です)

また歩く気になったら(?)歩くかとは思いますが、歩き慣れた道にこんな手作りの道標が建っていると、何か微笑ましいと言うか気持ちが和みます。

しかし、先週近くで「イノシシ」と遭遇しましたので油断は禁物です(>_<)

神立の道標3-1

神立の道標3-2

神立の道標3-3

神立の道標3-4

ここまで持って来るのも大変でしょう(於 八尾市)
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2015
09.23

東豊浦町の道標(その7)

Category: 道標
暗峠から生駒山頂へ続くハイキング道の途中に道標が建てられています。

ここ最近の東大阪の道標の記事は強引に道標としている感がありますが(?)今回で東大阪の道標の記事は最終回となります。

それで、この石標(!)には「名勝 髪切山慈光寺 この下すぐ」と刻まれ、裏面には「枚岡観光協会」とありました。

いつ頃建てられたのかは確認していませんで、道標ではお馴染の「すぐ」と刻まれていますが、この道標に関しては「すぐそこ」の意味で使われています(と思う)

あと、枚岡観光協会は調べますと現在は存在しない様ですが、例えば東大阪合併前まで存在してたとなると、50年位前になりますので、この道標はその頃に建てられてたのでしょうか?

それで、慈光寺へは度々お参りに訪れ、御朱印も頂いておりますが、この道標が案内する道もこれまで度々歩いております。

それで私事になりますが、以前このすぐ近くで足が肉離れを起こしてしまい、歩けなくなった事がありました。

歩いている途中に足からグキと音がして激しい痛みに襲われましたが、その時この道標のそばで30分くらいじっとしていました。

幸い軽かったので足を引きずりながらも無事家まで辿り着く事が出来ましたが、それ以降シューズのソールを変えたり、サポーターを付けたりした結果、これまで肉離れは再発していません。

それで、来月から生駒山歩きを始める予定ですが、そろそろ準備をしなければいけません。

私、ストレスなく歩ける様にシューズやザック等の装備に改造とまではいきませんが、そこそこ手を加えています。

しかし、それ以上に最近の登山用品は非常に優秀なものが多いので、昔(30代)と比べてもそれ程歩くペース等も殆んど変わらないかと思います(?)

来月が楽しみです。

東豊浦町の道標7-1

東豊浦町の道標7-2

ハイカーの方は御存知ですね(於 東大阪市)
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2015
09.19

山本町の道標

Category: 道標
「山本辻地蔵尊」の前に道標があります。

「東 志ぎ山」と刻まれていますが、年号等は確認出来ませんでした。

あと下部が折損し、本来の長さより短くなっています。

それで、道標(地蔵尊)前を通る道は道標の記事でも記しましたが、東へ「おと越え」「立石越」の道に続き、東高野街道と交差する、当時から重要な道であったそうです。

この道を東へ服部川へ行きますと、小学校に突き当たりその校門前に大窪から高安山を越える「おと越え」と服部川から高安山を越える「立石越」を案内する道標が建てられています。

信貴山案内の道標は八尾市内各所に見られますが、この道標と同形の道標は恩智や垣内にも建てられていたそうで、信貴山参りが広まった頃、要所要所に建てられたものだと言う事です。

その後、交通事情の変化で利用価値もなくなり、破損しても修復される事もない道標は、他の安全な場所へ移されたものが残される事になりましたが、当時の交通事情知る事の出来る石造物として、現状ままで保存されればと思います。

あと、この山本から服部川へ続く道沿いには以前取り上げました「東山本町の紀功碑」「久保田真吾碑」が建てられています。

山本町の道標1

山本町の道標2

山本町の道標3

山本町の道標4

山本町の道標5

山本町の道標6

このへんはちょくちょく来てます(於 八尾市)
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2015
08.22

出雲井町の道標(その2)

Category: 道標
東大阪市内の道標も道路の傍らに建つものは、もうほとんど取り上げたかと思いますが、今回取り上げますのは近鉄枚岡駅のホームに建つ道標です。

少々、無理矢理に道標として取り上げますが、私殆んど公共の交通機関を利用する事がありませんので(5、6年に一回電車に乗る程度ですが、ケーブルカーは最近何度か乗っております)この場所に道標がある事は全く知りませんでした。

それで、いつも一緒に生駒山を歩くメンバーである、S氏に「枚岡駅のホームに道標がありますよ」と言う事で、生駒山歩きの帰路に確認しに行きますと、確かにありました。

道標には「暗峠天龍之瀧 是ヨリ七丁」と刻まれ、年号は確認しておりません。

「暗峠天龍之瀧」は、おそらく「観音寺」の境内にある「天竜の瀧」かと思いましたが、確認はしておりませんのであくまでも私の推測です。

観音寺は駅から七丁以上ありますので、天龍之瀧が別にあるのか?または道標が別の場所に建っていたのか?詳しい事は分かりませんが、観音寺には生駒山歩きの帰路に時折お参りに訪れています。

それで、境内には暗越えの古道が残っており(殆んどその痕跡は無いと言う事ですが…)あと、枚岡三石と呼ばれる自然石の一つである「木魚石」があります。

実は私、木魚石を間近で見た事がありません。

一度見てみたいんですが…

出雲井町の道標2-1

観音寺1

観音寺2

観音寺3

観音寺4

天竜の瀧の写真がありませんでした(於 東大阪市)
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2015
07.18

野崎の道標(その2)

Category: 道標
野崎にある「専応寺」に道標があります。

「太子堂道」「左 聖徳皇院 大坂道へ出」と刻まれ、寺川村の寄附とありますが、年号等は確認出来ません。

かつて「野崎参り」は専応寺の太子堂にお参りしてから慈眼寺(野崎観音)へお参りしたそうで、太子堂(専応寺)から東高野街道沿いの燈籠の建つ、現在野崎観音の看板がある道との間に通ずる道があり、その角にこの道標は建てられていたそうです。

しかし、現在その道は消滅していますが、周囲を見回すとそれらしい痕跡はありますが、現在は民家の所有地となっている様です。

参考にした手持ち資料によりますと、野崎参りと専応寺太子堂との関係を考えると、天明から文化、文政年間の建立であろうとの事で、野崎参りが庶民に広がったのがその時代なのだそうです。

それで、以前何処かで書いたと思いますが、ばあちゃんが私が生まれる前に野崎さんで腹帯を貰いに行ってくれた事もあり、ここ数年は年一回必ずお参りに訪れております。

あと、今回北河内の大東市にある道標を取り上げましたが、この道標をもちまして中河内以外の道標の記事の更新は終了となりますが、中河内の道標はもう少し記事を更新出来るかと思います。

野崎の道標2-1

野崎の道標2-2

野崎の道標2-3

専応寺1

専応寺2

太子堂道1

野崎観音看板

来月野崎さんへ行く予定です(於 大東市)
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2015
06.28

教興寺の道標(その5)

Category: 道標
「梅岩寺」に道標があります。

道標は墓地内にあり「左 服部和泉守之碑」「右 すぐ梅岩寺」と刻まれ、昭和十二年(1937)の年号があります。

「服部和泉」とは垣内村の人で、江戸時代に「岩戸神社」の神主を務めた人物だったそうで、この道標は玉垣に囲まれた自然石の服部和泉の墓と伝えられている傍に建てられていますが、墓は以前ここより西下方にあり、道標も岩戸神社から梅岩寺への参道で墓地の入り口に建てられていたそうです。

その後、墓地の拡張で道が付替えられた際、現在の場所に移設されたそうです。

それで「岩戸神社」「高御座神社」の記事中、石造物について記していませんが、両神社の境内には服部和泉の名が刻まれた石造物があります。

高御座神社の鳥居前にある一対の燈籠には「取次神主 服部氏」と刻まれ、文化三年(1806)の年号があり、手水舎横の燈籠には「取次 服部和泉守」と刻まれ、明和元年(1764)の年号あり、手水鉢にも「服部和泉守」と刻まれ、正徳五年(1715)の年号があります。

岩戸神社の鳥居前にある一基の燈籠には「宮服部和泉守」と刻まれ、享保六年(1721)の年号がありますが、少し気になりましたのが「松前舟中」とあり、寄進者が大坂市中の商人の様でした。

以上、石造物について記しましたが、各石造物の年号を確認しますと、服部和泉が数代にわたり岩戸神社の神主を務めていた事が分ります。

あと「守」について参考にした資料によりますと、中世になると一国に「○○守」が複数いたり、勝手に名乗る人もいたそうで、当時の和泉守の中に服部姓はいなかったとの事です。

それで、以前取り上げました「黒谷の道標」にも「神主 服部…」と刻まれています。

教興寺の道標5-1

教興寺の道標5-2

高御座神社の燈籠1

高御座神社の燈籠2

高御座神社の燈籠3

高御座神社の燈籠4

高御座神社の燈籠5

高御座神社の燈籠1

高御座神社の手水鉢1

高御座神社の手水鉢2

岩戸神社の燈籠1

何故か岩戸神社には服部和泉守の名がが刻まれた燈籠が一基しかありません(於 八尾市)
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2015
05.03

国分西の道標

Category: 道標
国分西の水路沿いの遊歩道に道標が建てられています。

年号等は確認出来ませんでしたが「すぐ なら かうり山」「左 さかい 大坂」「右 穴むし 高田 ごせ」と刻まれています。

それで、私は道標が指す案内先の「穴虫 大和高田 御所」には、あまり馴染みがありませんが、この道標は「田尻越新道」に建てられていたものと思われ、折損を補修した痕があります。

田尻越えの道は、明治十三年(1880)に穴虫村の字追分から田尻村までの暖傾斜の山道を開削、国分村から穴虫村まで、あと穴虫村から長尾村間も同時に新道を建設したもので、併せて総延長三里二町十九間九歩四厘(約12km)あり、その後多くの改修を経て、現在の国道165号線となっています。

あと、開削工事費に当時の額で四千二円四十八銭二厘を要したそうで、その工事費を捻出する為に道路補助銭(通行料)を徴取する事が検討され、往来人一人につき二厘、荷車一台につき二銭等と細かく通行料が設定された様ですが、三里あまりの間に二回も通行料を徴取する事で利用者が減少する恐れもあった事から、御下渡(補助金)の申請が行われたそうです。

しかし、実際に通行料が徴取されたのか?また補助金の支給がなされたのか?関連資料が無いので詳細は分からないそうです。

新道開削以前は「関屋越」等の街道が、坂道ではあったそうですが道幅もあり、よく利用されたそうで、関屋村は荷物の中継ぎ場として賑わったそうですが、しかし坂道もあり荷車を通すにも大変な労力が必要だった為に、新道建設が当時の「堺県」に出願されるに至ったのだそうです。

しかし、道路建設後の明治十四、十五年頃から関屋村は衰退を招く事になったそうです。

以上、道標の記事としては長くなりましたが、関谷周辺には以前、週末によく釣行していましたが、その際必ず国道165号線を通っていました。

この道が無ければ関屋まで車で行けませんからね(笑)

考えると「道」と言うのは当然の事ながら、必要性の上につくられているのがほんと良く分かります。

国分西の道標1

国分西の道標2

国分西の道標3

国分西の道標4

国分西の道標5

今回で柏原の道標は終了となります(於 柏原市)
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2015
04.01

東本町の道標

Category: 道標
「八尾街道」が東本町で突き当る場所に道標が建てられています。

各面には「右 かしわら 信貴山 左 十三越 をうとう越」「右 ひらの 大坂」「左 八尾地蔵 ひらの 大坂」と刻まれ、年号等は確認出来ませんでしたが、通行人の為に地元の人達によって、江戸時代末期に建てられたものだそうです。

それで、道標の案内先が示す通り、ここから右(南)へ行くと「八尾街道」「信貴山道」「奈良街道」へ続き、庄之内、刑部、教興寺を経て信貴山道、奈良街道は柏原の今町から信貴山へと、共に信貴山参りの参詣道となっています。

尚、柏原の今町にある奈良街道と信貴山へと続く道との分岐には道標が建てられています。

ここから西へ行くと八尾街道を経て平野、大阪、あと常光寺(八尾地蔵)も案内されており、北へ行くと十三越、おうと越への道へと続きます。

「十三越」は十三峠を経て奈良へと続く道で、現在はハイキングコースとなっていまして、私も度々歩いております。

「おうと越」は山本、大窪を経て奈良へと続く道ですが、現在は通る人もなく、ここでも取り上げました「大窪の道標」「服部川の道標」等の数基の道標に表示だけが残されているのみです。

あと、服部川で分岐して同じく奈良へと続く、立石越(立石街道)もあり、共にかつては信貴山への参詣道として利用されていました。

それで、かつて道標の建つ場所には商店があり、手持ち資料の写真には懐かしの「森永アイスクリーム」と書かれた、あれ何と言うんでしょうか?アイスクリームを冷やしておく保冷庫が写っています。

私、昔からあれの事を「アイスクリン入れるやつ」と呼んでいますが、何故か時折見かける時があります(しかし、殆んどがスクラップ同然で放置されているものですが…)

本題からそれてしまいました。

東本町の道標1

東本町の道標2

東本町の道標3

八尾で有名な和菓子店のすぐ近くです(於 八尾市)
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2015
03.08

植松町の道標

Category: 道標
植松町の公共施設の敷地内に道標が移設保存されています。

文化十二年(1815)に建てられたこの道標には「右 大和 かしわら こくふ ひるめ」「左 八尾 平岡」と刻まれています。

元は植松町7丁目の太子堂から植松に入る場所に建てられていたそうで、民家の改築の際に一時、山本球場に保管されていたそうですが、現在はこの場所に保存されています。

この道標は植松通りを通り、植松墓地で「八尾街道」更に「奈良街道」を経て、柏原、国分、ひるめ(送迎)へ続く道を案内したもので、国分から東へ明神山の南を通り、ひるめに至る道は古い「伊勢街道」だそうで、地元ではこの道を「ひるめ峠道」と呼ばれていたので、案内先として刻まれています。

あと「平岡」は私の住む東大阪の「枚岡」であるかと思いますが、当時「枚岡神社」までは八尾街道、河内街道、暗越奈良街道、または河内街道から十三街道、東高野街道を通る行程だったのでしょうか?

平岡と表記されている事からも建立年代がある程度(?)推測出来るかと思います。

それで、手持ち資料に移設前の道標の写真があり、それには道路沿いの板塀の民家の脇に道標が建てられ、並んで唐臼の台が置かれています。

写真は40年以上前ものだと思いますが、この場所はどの辺りになるんでしょうか?

植松町の道標1

植松町の道標2

《追記》
別の場所に移設されました。

植松町の道標3

植松町の道標4

植松町の道標5

昔から上部が欠けていたみたいです(於 八尾市)
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2015
02.14

国分本町の道標

Category: 道標
国分の旧村を通る「龍田越奈良街道」と「長尾街道」との分岐点に道標が建てられています。

詳しくは柏原市の設置した説明板を御覧頂きたいと思いますが、刻まれている案内先は判読出来ませんで、説明板にその案内先が記されています。

長尾街道は唯一、柏原市域の国分で山間部を通らなければならないそうで、国分村の「六軒」から「国分峠」を越えて関谷へと続いているので「関谷越」と呼ばれたそうです。

それで、国分には親戚がありましたので、幼少の頃は良く遊びに訪れていましたが、中河内を探索する以前は近鉄国分駅周辺が町の中心と長い間思っていました。

しかし、数年ほど前から頻繁にこの地区を訪れる様になり、街道沿いにある町並が国分村の中心と知りました(まあ冷静に考えるとそうと分かるのですが…)

あと、国分と言えば「国分船」となりますが、この国分船操業の為に八丁縄手に開かれた町が「新町」で「東新町」と「西新町」に分かれていたそうです。

西新町の国豊橋の南詰は船運業者の所在地となり、倉庫が建てられ貨物出入りの地として繁栄したそうで、橋の南詰に「西町地蔵尊」がまつられています。

それで、明治時代初期に美しい景観を表した「国分八景」と呼ばれるものがあるのですが、その国分八景に「国豊帰帆」があります。

これは、国豊橋の上から西を見ると国分に帰って来る舟が見えると言う意だそうですが、かつて船運の要所として栄えた国分村も、明治時代の鉄道開通により物資輸送の主役が鉄道へと移り船運は衰退する事になります。

その結果、船運業者は国分を去り、倉庫も撤去されてしまったそうです。

現在、村の中央を通る街道だけが、かつて繁栄した名残となるのでしょうか?

国分本町の道標1

国分本町の道標2

国分本町の道標3

国分本町の道標4

街道歩きをされる方は皆さん御存知の道標ですね(於 柏原市)


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2015
01.31

上四条町の道標(その3)

Category: 道標
「鳴川谷」の途中、生駒山の中腹に「神感寺」への案内の為に道標が建てられています。

大きな自然石に「八代龍王神感寺」と矢印が刻まれ、昭和十四年(1939)に建てられたものです。

台石には世話人の名が刻まれている様でしたが、詳しい事は分かりませんでした。

あと、小さな石柱の道標には「奉納 八代龍王神感寺休息所」と刻まれ、側面には「是ヨリ五丁」とありますが、年号等は確認出来ませんでした。

それで、神感寺は生駒山を歩かれる方なら御存知の方も多いと思いますが、私も良く『近く』を通ります。

詳しくは神感寺のホームページを御覧頂きたいと思いますが、少々説明しますと、昭和十年(1935)にお社を建てて教会所が開かれ、昭和十四年に二階建ての信者休息所が完成したとの事です。

その翌年昭和十五年(1940)に仮神殿が建設され、昭和二十六年(1951)に本殿が竣工し、これを機に「八代龍王神感寺」と号し現在に至っています。

ですので道標に「神感寺休息所」とあるのは、道標の建つ場所が休息所ではなく、教会所に建設された休息所を案内している事になります。

あと、所在地は平安時代に創建された「神感寺」の寺跡であり、生駒西麓で知られている寺院では最大規模の山岳寺院だそうで、昭和三十九年(1964)と昭和四十年(1965)に合併前の枚岡市教育委員会を中心に学生諸氏多数が参加して発掘調査が行われたそうです。

それと「鳴川谷の石仏」で記しましたが、道標の建つ場所は「水車小屋跡」となっています。

上四条町の道標3-1

上四条町の道標3-2

上四条町の道標3-3

上四条町の道標3-4

上四条町の道標3-5

上四条町の道標3-6

神感寺1

神感寺2

神感寺3

この二基を道標とさせて頂きました(於 東大阪市)
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2015
01.03

上小阪の道標

Category: 道標
上小阪に道標が建てられています。

「左 平野御本山」「當村念仏寺」と刻まれていますので、融通念仏宗の本山である「大念佛寺」への案内の道標と分かりますが、年号等は確認出来ませんでした。

それで私、市内を通る街道が何処を通っているのか?未だに把握しておりませんが、この場所は「十三街道」と「枝切街道」が公差している場所だそうです(知りませんでした…)

実は枝切街道(小阪街道)は何処を通っているのか、よく知りませんでしたので少々調べてみますと、この道標の建つ場所から北へ行くと、私の地元である稲田へと通じ、私の通っていた小学校の前の道が枝切街道だそうで、そこから徳庵へと続いています。

因みに地元ではこの道の事を「中道」と呼んでいまして、稲田の旧村を南北に通り「稲田八幡宮」を経て、途中に明治時代に建てられた徳庵駅を案内する大きな道標があります。

それと、以前取り上げました「中茶屋の道標」もこの街道沿いに建つもので、更に行きますと、浜に大峰登山を記念して建てられた道標があります。

鶴見区は東大阪市と隣接していますので、私は焼野の焼却場辺りまでは昔から土地勘があり、勿論幼少期より鶴見緑地にもよく遊びに行ったものでした。

あと、私徒党を組むのは余り好きではないのですが(笑)生駒山歩きや地元探索を目的にした布施会(私が勝手に名付けているのですが…)と言うものを組織していまして、そのメンバーであるS氏とS氏は両人とも小阪が地元でして、旧布施市域育ちを参加条件とこれも私が勝手に決めております(因みに私だけが布施市出身)

今年も地元、東大阪をこよなく愛するメンバーと楽しく地元探索して行きたいと思いますが、実は今月「聖天さん行こか」と言う話になっております(笑)

聖天さんは大和の国でございますが…

上小阪の道標1

上小阪の道標2

浜の道標1

浜の道標2

浜の道標3

東大阪の街道沿いにある道標はこれで最後となりました(於 東大阪市・大阪市鶴見区)
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2014
12.31

志紀町南の道標

Category: 道標
国道25線沿いにある「西村市郎衛門頌徳碑」のそばに道標があります。

各面には「左 さかい道」「右 大阪」「信貴山」と刻まれていますが、年号は確認出来ませんでした。

この道標は大阪外環状線が建設されるまで、国道25号線(奈良街道)から弓削に入る道の角に建てられていたそうですが、現在は西村市郎衛門碑のある大阪外環状線と国道25号線が立体交差するこの場所に移設されています。

それで、この道標から北へ大阪、南へ堺と刻まれていますが、志紀は元々南河内郡に属し、昔から南部とのつながりが深かった事もあり、堺への経路を示しています。

あと「信貴山」と刻まれている事から、かつてここから信貴山へと続く道があった様で、堺方面から信貴山参りの参詣者がここを通った事が分ります。

この事は神宮寺から信貴山への山道の途中にある道標に堺を案内しているものがある事からも裏付けられるそうです。

因みにその道標には「左 さかい」「左 志き山 二十八丁」と刻まれているそうです。

信貴山への道は現在も残っているのか?その件についても興味がありますが、私が時折通ります、この辺りから柏原の山ノ井町へ続く道がそうなんでしょうか?

志紀町南の道標1

志紀町南の道標2

志紀町南の道標3

この道標はもうちょっと道から離して立て直した方がええかも知れません(於 八尾市)
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2014
11.23

日下町の道標(その4)

Category: 道標
東高野街道沿いにある小学校内の一角に道標があります。

この道標は弘化二年(1845)に建てられたもので「左 のざ記ミち」「右 平野」「北 京や巴多 南 高野大ミ年 道」と刻まれています。

それで、道標には数名の発起人の名が刻まれていますが、その中に「善根寺村 勘左ヱ門」とあります。

私の自宅近くの吉田に道標があり、この道標にも「善根寺村 勘左ヱ門」と刻まれているのですが、これは同一人物で吉田の道標の記事に記しておりますが、熱心な融通念仏宗信者だったとの事ですので、東高野街道に建つ道標としては珍しく、案内先に「平野」と刻まれています。

あと現在所在不明ですが、日下の東高野街道沿いには他にも道標があったそうで、一基には「右 以志きり ひらおか ほうさんじ」「左 のざきくわんおん 志じようなはて」と刻まれ、一基には「八尾へ三里十五丁 柏原四里 富田林七里二十一丁」「大阪高麗橋元標五里三丁 大阪」「四条畷一里六丁枚方四里」と刻まれていたそうで、それぞれ江戸時代と明治時代に建てられたものだと思われます。

道標が撤去された理由として、日下町域は旧道が新道(旧大阪外環状線)に取り込まれている事も関係しているのかも知れません。

日下町にある東高野街道沿いに建つ道標は現在、これ一基となっています。

日下町の道標4-1

日下町の道標4-2

日下町の道標4-3

現状は移設保存と言う形でしょうか?(於 東大阪市)
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2014
11.16

龍間の道標(その3)

Category: 道標
龍間に「神道 鎮宅霊符神本部」と刻まれた社標があります。

私、長らくこれは鎮宅霊符神社の社標と思っていましたが、向かって左側の面に「龍起山 龍間院 右一丁」と刻まれていましたので、今回道標として取り上げさせて頂きます(無理矢理ですが…)

それで、龍間の字東谷にはその昔「龍間寺」と呼ばれる真言宗の寺院があったそうで、山号を「龍起山」とし、河内三十三所霊場の第四番で御詠歌もあったそうです。

その龍間寺は明治五年(1872)に廃寺となり、その跡地に鎮宅霊符神本部が置かれましたが、昭和時代に解散したそうです。

この道標(社標)は昭和六年(1931)に建てられたものですが、撤去される事なくそのまま残されています。

龍間の道標3-1

龍間の道標3-2

龍間の道標3-3

鎮宅霊符神本部跡1

鎮宅霊符神本部跡2

鎮宅霊符神本部跡3

鎮宅霊符神本部跡4

廃寺跡の案内もしていたと言う事です(於 大東市)
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2014
11.15

赤井の道標

Category: 道標
赤井の古堤街道沿いにある「大峯堂」に道標があります。

明治十八年(1885)に建てられたもので「左 大坂」「右 大峯山三十三度道 すみのどう のざき 中垣内 くさか ほし田 八はた 山しな 木づ ひらおか いこま 宝山寺 こほり山 なら いせ」と刻まれ「光明組」とありますので、講の人達によって建てられた事が分ります。

大峰参りの参拝度数は他の道標や石碑でも良く見られる「三十三度」で、多く刻まれている案内先からも、「古堤街道の中垣内越え」「東高野街道」「暗越奈良街道」等の街道への案内道標である事も分かります。

あと、この辺りは水運の要所でもあったので、往時は各寺社への参詣者で賑わったそうです。

それで、私の高校時代の友人は殆んど北河内地区に在住していましたので、特にこの辺りは当時より「たむろ」していました。

当時、ポップタウンにローラースケート場があって、学校が終わってから友達と滑りに行ったりしてあの界隈でぶらぶらしておりました。

あと、赤井と言うと交差点の所に昔「すし半」があったのですが、現在は某かしわのから揚げ屋さんがあります。

最近、すし半って聞かんなと思い先程インターネットで調べると、現在は「さと」がチェーン店のメインになっているとの事でした。

当時、友達の彼女がすし半で働いていたのですが一度も行った事はなく、当時はお金もそんなにある訳でないので、ええとこマクドでちょっと腹ごしらえって言うのが多かったです。

金はあんまりありませんでしたけど、あの頃は単車乗り回して楽しかったなぁ。

赤井の道標1

赤井の道標2

赤井の道標3

赤井大峯堂1

赤井大峯堂2

赤井大峯堂3

赤井大峯堂4

住道の住吉神社1

住道の住吉神社2

最近はたまに行く程度です(於 大東市)
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2014
11.08

国分東条町の道標

Category: 道標
国分東条町に道標が建てられています。

詳しくは柏原市の設置した説明板がありますので、そちらを御覧頂きたいと思いますが「右ハ ひるめみち 左ハ ふじい だる満じミち」と刻まれ、寛保三年(1743)の年号があります。

道標上部は蒲鉾型で石仏が彫られ、下部には孔があけられていますが、その理由は分かりません。

あと、説明にもあります様に年号のある道標としては柏原市で最も古いものだそうで、元あった場所から移設されているとの事です。

現在、道標の建つ周辺は造成されていますので、旧街道の名残と言うものは殆んど見当たらないかと思われます。

それで、八尾市内にも「ひるめ」と刻まれている道標がありますので、後の機会に記事を更新する予定ですが、これも説明にあります様に、これら道標は旧街道の歴史を知る貴重な石造物と言う事になります。

国分東条町の道標1

国分東条町の道標2

国分東条町の道標3

国分東条町の道標4

国分東条町の道標5

何かポツンとあります(於 柏原市)
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2014
10.29

野崎の道標(その1)

Category: 道標
北河内の野崎に道標が建てられています。

東高野街道沿いに建てられていますので、街道歩き等をされる方は御存知かと思いますが「龍間山不動尊之瀧 東従是十八丁」と刻まれ、大正十四年(1925)に講の方達によって建てられています。

案内先からも分かります様に「龍間不動尊」への道案内の為に建てられたもので、手持ち資料によると、移動手段が徒歩の時代、龍間への往復路は古堤街道(中垣内越え)とこの東高野街道から龍間へ続く道のみだったそうです。

あと、龍間の児童が麓にある小学校への登下校した通学路でもあったそうですが、以前龍間を訪れた際に同世代の地元の女性とお話する機会があり、現在はバスで通学しているとの事でした。

それで、私も龍間へ行く際はいつもこの道を歩きますが、中垣内越えを行く方が時間的にも短くてすみ、また急な登り道も無いので楽かと思います。

しかし、途中から阪奈道路を歩く事になりますので、私的にはあまり楽しくないと言いますか、基本阪奈道路は趣味の歩きで歩く道ではないと思っていますので、中垣内越えの道で龍間まで行く事は殆んどありません。

歩く横を車が頻繁に通るのは、歩いていてあまり気分の良いものではありませんから。

なお、今月二回龍間へ行きましたが、その内一回はサークルのメンバーと一緒でしたのでメンバーの体力疲労を考慮して中垣内越えを歩きました。

確かに体は楽でしたが…

野崎の道標1-1

龍間不動尊1

龍間不動尊2

龍間不動尊3

龍間不動尊4

龍間不動尊5

龍間不動尊6

龍間不動尊7

龍間不動尊8

龍間不動尊9

龍間不動尊10

龍間不動尊11

龍間不動尊12

野崎の道標1-2

龍間不動尊の由緒等詳しい事は良く知りません(於 大東市)
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2014
10.20

恩智中町の道標(その4)

Category: 道標
恩智神社参道に架かる「一ノ橋」の手前に道標が建てられています。

明治三十四年(1901)に建てられたもので「☞ 信貴山 毘沙門天王」「宿坊 玉蔵院」と刻まれ、施主は大阪市中の人となっています。

信貴山道は昔、谷川を南側に沿って総池を通っていたそうですが、明治二十年頃に神社の北側を通る現在の道が建設され、この道は「新道」と呼ばれているそうで、この道標は新道を案内する為に建てらたものだそうです。

因みに、以前取り上げた大きな自然石の道標は、旧道の総池下に建てられたものですが、現在所在不明となっています。

それで、新道は旧道と比べて道幅も広く、牛車によって物資を山越えする事が出来る様になり、また地元住民の山仕事の際にも利用する重要な生活道路でもあったそうです。

しかし、現在は多くのハイカーの方が往来するハイキングコースとなっています。

あと「宿坊 玉蔵院」とありますが、これは現在もある宿坊で今月信貴山にお参りした際に立ち寄ってみましたが「千手院」と同じく立派な宿坊でした。

恩智中町の道標4-1

恩智中町の道標4-2

一ノ橋1

一ノ橋2

お参り後、一度宿坊に泊まってみたくなりました(於 八尾市)
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2014
09.29

信貴山の丁石

Category: 道標
昨日、信貴山参りへと行き「朝護孫子寺」の記事は更新しないと申しましたが、一件だけ気になったと言うか、これに関してはちょっと書きたかったので、昨日の今日では御座いますが、やっぱり書かせて頂きます(…)

で、それは何なのか?と言いますと、数ある石造物の中に「丁石」を一基見つけました。

私、この丁石を見てすぐ気が付きました。

この丁石は八尾の教興寺、高安信貴山道沿いにある「三丁」と形状が殆んど同じだったと言う事です(他の六丁や七丁は点燈箇所が欠損しています)

「そんなもん、信貴山参りの道にあんのにあたり前やないか」とお叱りを受けてしまいそうですが、この場所にほぼ同じものがあると言うのが、少々不思議な感じがしましたので…

それで、きちんと確認しますと、この「四十二丁」と「三丁」は、ほぼではなく、全く同じ形状のものと思われ、片方の円窓が三日月なのも同じです。

造立も同じ寛政年間で梵字も毘沙門天を表す「バイ」が刻まれ、違う点は丁数と「信貴山」と刻まれているかわりに「御縁日燈明」と刻まれています。

あと「宿坊 千手院」と刻まれていますが、これは教興寺の東高野街道沿いにある道標やその近くの民家内にある宝篋印塔にも刻まれています。

実際に千手院へと行ってみましたが、かなり立派な宿坊と言いますか、ほぼ旅館並と言ったところでしょうか?

最後に、これまでそれ程気にも留めなかったのですが、丁石は麓に立っているものの方が丁数が少ないと言う事です。

信貴山まで何丁ではなく、起点から何丁の距離だと言う事に昨日気が付きました。

「辻子谷」や「十三峠」の丁石も再度確認しますと、やはり同じでした。

昨日はこの様に「ああちゃうか?こうちゃうか?ああそうなんや」とこんな感じで信貴山参りを楽しみました。

これからも年一回くらいお参りに行けたらええんですけどね。

《追記》
更に調べましたところ、この開山堂入口(旧表参道)にある丁石が高安信貴山道の終点に建てられた丁石で「バイ(梵字) 四十二丁 御縁日燈明」「宿坊 千手院」と刻まれ、大坂市中の人が寛政十二年(1800)に建立したものです。

信貴山の丁石1

信貴山の丁石2

おんなじですわ(於 奈良県)
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